深信因果
三十六祖の百丈の懐海の全ての集まりに一人の老人がいて常に大衆の後について来て説法を聴いていた。
大衆が退けば老人も退いた。
しかし、突然ある日、一日、退かなかった。
ついに、祖師は「目の前に立っている、あなたは、何者か?」と質問した。
それに対して老人は「私は人ではありません。
過去、釈迦牟尼仏の前の迦葉仏の時代に、この百丈山に人として住んでいました。
ある時、仏道を学んでいる人が『大いなる修行を奥底までした人も、また因果に落ちるか否か?』と質問してきたため、私は『因果に落ちない』と(誤って)答えてしまったので、以後、五百回目の生まで野狐の身に堕ちているのです。
今、祖師に正しい答えを私の代わりに答えて欲しいのです。
そして、願わくば野狐の身を脱したいのです」と言った。
野狐の老人は祖師に「大いなる修行を奥底までした人も、また因果に落ちるか否か?」と質問した。
祖師は「(大いなる修行を奥底までした人は、)因果に暗くない」と答えた。
野狐の老人は祖師の言葉の下で大いに悟り、敬礼して、「もう私は野狐の身を脱する事ができました。(野狐の身の死体は)山の裏にあります。もし、よろしければ、僧が亡くなった時の事例によって(野狐の身の死体の)葬式をあげてください」と言った。
祖師は、僧の雑事を指導する維那の役職の者に命じて白槌を打たせてから僧達に「食後に亡くなった僧を葬送しなければいけない」と告げた。
僧達は「僧達は皆、元気である。『涅槃堂』にも病人はいない。なぜ、『亡くなった僧を葬送する』という話に成るのか?」と話し合った。
食後に祖師は僧達を連れて山の裏の岩の下に至って杖をもって一体の野狐の死体を指し示したのを僧達は見る事に成った。
そして、(野狐の死体を)法によって火葬した。
三十六祖の百丈の懐海は晩に堂に上って野狐との事を話した。
三十七祖の黄檗希運は「昔の人は誤って答えて五百回目の生まで野狐の身に堕ちました。では、転々と(常に)誤らない者は何者に成るのか?」と質問した。
百丈の懐海は「近くに来なさい。あなたのために話してあげよう」と言った。
黄檗希運は百丈の懐海に近づいて(、百丈の懐海の話が、でたらめな作り話だと理解したので、また、誤らない人などいないので、「何を寝ぼけた事を言っているのです! 目覚めなさい!」という意味で、)軽く手のひらで叩いた。
百丈の懐海は拍手して笑って「『胡』の
(「胡」には「ひげの長い未開の地の野蛮な人」という意味と「でたらめ」という意味が有る。)
この話は「天聖広灯録」、「天聖広燈録」に記されている。
それなのに、学に参入しているはずの輩が、因果の道理を明らめず、いたずらに、因果を否定し信じない誤りを犯している。
憐れむべきである。
千二百年に、末法の世に成り始めて祖師の道が衰退しているのである。
「因果に落ちない」と話す事は、まさしく因果を否定し信じない誤りを犯す事である。
「因果に落ちない」と話す事によって、悪い場所に
「因果に暗くない」と話す事は、明らかに「因果を深く信じている」のである。
「因果に暗くない」という言葉を聞くものが、
近年の禅に参入して道を学んでいると詐称している輩の多くは、因果を否定し信じない誤りを犯している。
何によって、因果を否定し信じない誤りを犯している、と知っているのかと言うと、「因果に落ちない」事と「因果に暗くない」事を誤って同じであると思っているからである。
十九祖の鳩摩羅多は「善悪の報いが訪れる時期には『三時』、『この生の時、第二の生の時、第三の生以降の時』という三つの時期が有る。
大体の人は、思いやり深い人が早死にし、乱暴者が長生きし、悪逆な人が幸運であり、正義の人が不運であるのを見て、因果を否定し信じない誤りを犯し、罪も報いも無いと誤って思ってしまう。
影響は人の後を完全についていく事を(大衆は)知らない。
また、(罪と罪の報いは)百、千、万の無数の劫を経ても磨滅する事は無い(のを大衆は知らない)」と話している。
過去の祖師も因果を深く信じている事を明らかに知る事ができる。
今の後進の僧が、祖師の思いやり深い教えを未だ明らめていないのは、
人や天人にとっての大いなる賊であり、学者の敵である輩は、因果を否定し信じない
因果を否定し信じないのは邪説であり、仏や祖師の法ではない。
因果を否定し信じない人は、学ぶ事がおろそかなので、因果を否定し信じない邪見に堕落したのである。
千二百年の中国の僧どもは誤って「私達が人の身を受けて仏法に会っても、なお、一、二回目の生の事を知らないが、三十六祖の百丈の懐海の話の野狐の老人は五百回分の生の事を知っていたので、誤った業の報いによる墜落、堕落ではない。『金属の鎖で玄関は閉まっているけれども留まらず、人とは異なる
大いなる善知識を持つ者を詐称する輩の誤った見解とは、この様な代物である。
この誤った見解は、(仏教という)仏の家の中に置き難い代物である。
人、狐、その他の者の中に、生まれながらに、しばらくの間、「宿命通」、「過去を知る能力」を得ている輩がいる。
けれども、仏道を明らめ悟るための種としてではなく、悪い業の所感として「宿命通」、「過去を知る能力」を得てしまっているのである。
悪い業の所感として「宿命通」、「過去を知る能力」を得てしまう事が有る道理を釈迦牟尼仏は人や天人のために広く演説している。
それを知らないのは、学ぶ事がおろそかである至りなのである。
憐れむべきである。
たとえ一千回分の生、一万回分の生を知っても、必ずしも仏法を知っているわけではない。
道から外れた外道が八万劫分の生を知っても、未だ、仏法を知っている人とはしない。
わずか五百回分の生を知った所で、それほどの能力でもない。
近年の、千二百年の中国の、禅に参入していると詐称している輩の知が最も暗い所は、「因果に落ちない」と話す事が邪道の説であると知らない所に有る。
憐れむべきである。
釈迦牟尼仏、如来の正しい法が流通している所で、祖師から祖師へ正しく伝えている仏教に会いながら、因果を否定し信じない邪悪な党派者と成っている。
学に参入している仲間は正に急いで因果の道理を明らめるべきである。
今、三十六祖の百丈の懐海の「因果に暗くない」という道理は、「大いなる修行を奥底までした人は、因果に暗くない」という意味である。
であれば、「修因感果」、「修行という原因は悟りを感得するという結果をもたらす」、「修行をすれば悟りを得られる」という主旨は明らかである。
修行をすれば悟りを得られるというのは、仏から仏へ、祖師から祖師への道である。
仏法を未だ明らめる事ができない時は、
龍樹祖師は「道から外れた外道の人の様に、世間の因果を破ってしまうと、今の生も後の生も台無しにしてしまう。
仏が大衆に仏の知見を開かせ示し悟らせ入れさせるために『この世』に出現するという因果を破ってしまうと、『仏法僧』という『三宝』、『苦集滅道』という『この世は苦であり執着が苦を招き集めており執着を滅する事ができ執着を滅する道が有る事を知る事ができる』という『四諦』、『四果』を失ってしまう」と話している。
世間の因果を破る人、仏が大衆に仏の知見を開かせ示し悟らせ入れさせるために「この世」に出現するという因果を破る人は道から外れた外道である、と明らかに知る事ができる。
「この世は存在しない」と誤って言う人、「形は『この世』に存在するが、『性』は永遠に悟りに既に帰っている。『性』とは心である。心は身体と異なるからである」と誤解している人は、道から外れた外道である。
「人は死ぬと必ず『性海』に帰る。仏法を習って修行しなくても自然に『覚海』に帰るので更に生死の輪廻転生は無い。このため、後の生は存在しない」と誤って言う人は、「断見」、「死ぬと身体が断滅するので因果や善悪の言動の報いは無いという誤った邪見」を持つ、道から外れた外道である。
たとえ姿形が出家者に似ていても、この様な邪悪な見解を持つ輩は仏の弟子ではない。まさしく道から外れた外道である。
因果を否定し信じないので、今の生も後の生も存在しないと誤るのである。
因果を否定し信じないのは、真の善知識の学に参入していないからである。
真の善知識の学に長く参入している人には、因果を否定し信じない等の邪悪な見解は無い。
龍樹祖師の思いやり深い教えを深く信じ頂戴するべきである。
真覚大師と呼ばれる永嘉の玄覚は、曹谿山の宝林寺の三十三祖の大鑑禅師の高弟である。
永嘉の玄覚は、元は中国の天台法華宗を習い学んでいて、左渓玄朗と同室であった。
永嘉の玄覚が涅槃経を見ていると、黄金の光が部屋に満ちて、永嘉の玄覚は深く「無生」、「生滅を超えた真理の悟り」を得た。
永嘉の玄覚は進んで曹谿山の宝林寺の三十三祖の大鑑禅師の所に至り、証をもって三十三祖の大鑑禅師に告げると、三十三祖の大鑑禅師は永嘉の玄覚が悟りを開いている事を認めた。
後に永嘉の玄覚は「証道歌」という詩を作った。
「証道歌」には「こだわらず思いのままに振る舞う
因果を否定し信じないのは災いを招くと明らかに知る事ができる。
古代の高徳の僧は共に因果を明らめていた。
しかし、近世は後進の者は皆、因果に迷っている。
今の世でも、無上普遍正覚を求める心を大胆にして、仏法のために仏法を習おう、学ぼうと思う仲間は、古代の高徳の僧の様に因果を明らめるべきである。
「原因など存在しない」、「結果など存在しない」と言う人は道から外れた外道である。
古代の仏と等しい宏智正覚は「頌古」で、三十六祖の百丈の懐海の話の事を「一尺、約三十センチメートルの水で一丈、約三メートルの十倍の波が起きる様な物である。
五百回前の生の事なんか、どうにもできないではないか!
『因果に落ちない』事と『因果に暗くない』事を考えても、依然として葛藤の巣を突き進む事に成る。
『アッハッハッ』。あなたは会得できたのか?
もし、あなたが、とらわれないのであれば、私の『ドゥワッドゥワッハッハッ』という笑いを止める事はできない。
神を祭る
「『因果に落ちない』事と『因果に暗くない』事を考えても、依然として葛藤の巣を突き進む事に成る」という言葉は、「因果に落ちない」事と「因果に暗くない」事は同じであると正しい意味で言うのである。
「因果に落ちない」事と「因果に暗くない」事と、その理は未だ知り尽くされていないのである。
なぜなら、野狐の身を脱する事は目の前に現れているが、野狐の身を脱した後、人間に生まれたとは言っていないし、天上に生まれたとも言っていないし、その他の者の身中に
人が疑うべき所である。
野狐の身を脱して、善き場所に
野狐の身を脱して後、むなしく生まれる場所が無いはずが無い。
もし、全ての生者は死ぬと、「性海」に帰ると言ったり、「大我」に帰ると言ったりしたら、共に、道から外れた外道の誤った見解である。
夾山の圜悟克勤は「頌古」で「魚が泳げば水が濁り、鳥が飛べば毛が落ちる。
至高の鏡からは逃れ難く、虚空は空虚で広大である。
一回目の生を行っただけで(言っただけで)遥か遠く五百回目の生まで行く羽目に成ってしまった。
ただ因果の大いなる修行によってである。
突然の雷が山を破り、風が海を震わせる。
百回も
圜悟克勤の詩は、なお因果を否定し信じない
杭州の径山寺の大慧宗杲は詩で「『因果に落ちない』事と『因果に暗くない』事は、石と土の
道で知らない人に出会って、銀山が粉砕する。
わずかな間、拍手して『ハハ』と笑う。
明州に、あの無邪気な
圜悟克勤の詩と大慧宗杲の詩を千二百年の中国の輩は祖師の詩であると誤って思っている。
しかし、大慧宗杲の見解は未だ仏法の力が有る主旨に及ばず、ややもすれば、「
三十六祖の百丈の懐海の話の事に対して、詩を作ったり批評したりした輩は三十人余りいるが、一人として「因果に落ちない」と話す事は因果を否定し信じない事であると疑う者はいない。
憐れむべきである。
これらの輩は因果を明らめず、いたずらに乱れの中で一生をむなしく過ごすのである。
仏法を学ぶ事に参入するには、第一に、因果を明らめるのである。
因果を否定し信じない様な人は、恐らくは激しい邪悪な見解を起こして、善良に成るための根を断絶してしまうであろう。
因果の道理は歴然としていて公平である。
完全に、悪事を行う人は堕ち、善行を積む人は天に昇るのである。
もし因果が無く、むなしい代物であれば、諸仏の「この世」への出現は無く成ってしまい、二十八祖の達磨が中国へ来た「祖師西来」も無く成ってしまい、全ての生者が仏法を見聞きする事も無く成ってしまうであろう。
因果の道理は、孔子、老子などが明らめる事ができる所ではない。
因果の道理は、仏から仏へ、祖師から祖師へのみ明らめて伝える事ができる所である。
末法の世の学者は薄幸で正しい師に会えず、正しい法を聞けないので、因果を明らめる事ができないのである。
因果を否定し信じなければ、その罪、
因果を否定し信じない悪事の他に、他の悪事を行わなくても、因果を否定し信じない誤った見解の毒は、はなはだしいのである。
そのため、仏法を学ぶ事に参入する仲間は、「菩提心」、「悟りを求める心」を優先して、仏と祖師からの大いなる恩へ報いるために、
正法眼蔵 深信因果
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