坐禅箴

 【抜粋】


 三十六祖の薬山惟儼が坐禅していると、ある僧が「こつこつ地道に、何を思考しているのですか?」と質問した。

 祖師は「かの不思量の奥底を思量している」、「今は思考できない思考を思考しようとしている」と言った。

 ある僧は「不思量の奥底なんて、どうしたら思考できるのですか?」、「思考できないものなんて、どうしたら思考できるのですか?」と言った。

 祖師は「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」と言った。


 三十五祖の馬祖道一は、三十四祖の南嶽の懐譲の学に参入して心の印をひそかに受けてから、常に坐禅していた。

 南嶽の懐譲は、馬祖道一の所に行って「高徳な馬祖道一よ、坐禅は、何を意図しているのか?」と質問した。

 馬祖道一は「仏に成ろうと意図しています」と言った。

 南嶽の懐譲は一つのかわらを取って石の上に当ててぎ始めた。

 馬祖道一は「師よ、何をしているのですか?」と質問した。

 南嶽の懐譲は「かわらいで鏡にするつもりである」と言った。

 馬祖道一は「どうして、かわらいで鏡にでき得ようか? いいえ! できない!」と言った。

 南嶽の懐譲は「どうして、仏に成ろうという意図で坐禅して、仏に成る事ができ得ようか? いいえ! できない!」と言った。

 馬祖道一は「どうすれば仏に成れますか?」と言った。

 南嶽の懐譲は「人が牛車に乗っている時に、もし牛車が進まなければ、車を軽く打って進む様に合図するのが良いか? 牛を軽く打って進む様に合図するのが良いか?」(、「坐禅ではなく、仏に成ろうという意図が間違っている」)と言った。

 (馬祖道一は、あえて何も応えなかった。)


 また、南嶽の懐譲は「(正しく)坐禅を学べば、坐禅している仏を学ぶ事に成る」と言っている。

 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅を学べば、禅とは坐る事や横たわる事ではない」と言っている。

 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅している仏を学べば、仏は坐禅という一定の姿勢だけでいるわけではない」と言っている。

 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅している仏を学べば、殺したかの様に、仏という意識を無くす事に成る」と言っている。

 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅している姿に執着すれば、坐禅の理に到達できない」と言っている。





 【全文】


 三十六祖の薬山惟儼が坐禅していると、ある僧が「こつこつ地道に、何を思考しているのですか?」と質問した。

 祖師は「かの不思量の奥底を思量している」、「今は思考できない思考を思考しようとしている」と言った。

 ある僧は「不思量の奥底なんて、どうしたら思考できるのですか?」、「思考できないものなんて、どうしたら思考できるのですか?」と言った。

 祖師は「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」と言った。


 「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」という三十六祖の薬山惟儼の言葉を証明して、こつこつ坐禅する学に参入するべきである。

 「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」として、こつこつ坐禅する事を正しく伝えるべきであり、それが、こつこつ坐禅する事が仏道に伝わっている学に参入して究める事に成る。

 こつこつと地道に思考した人は一人だけではないが、三十六祖の薬山惟儼の言葉は、こつこつと地道に思考する事の説明の第一である。

 「かの不思量の奥底を思量している」、「今は思考できない思考を思考しようとしている」。

 「思量の皮肉骨髄」、「思考の会得」である。

 「不思量の皮肉骨髄」、「今は思考できない思考の会得」である。

 ある僧は「不思量の奥底なんて、どうしたら思考できるのですか?」、「思考できないものなんて、どうしたら思考できるのですか?」と言った。

 実に、「不思量底」、「不思量の奥底」、「思考できないもの」は、古くから言われているが、「どうしたら思考できるのか?」なのである。

 こつこつと地道に坐禅している時に、思考は無いのであろうか? 思考停止するのであろうか? いいえ! 思考する!

 こつこつと地道な向上が、どうして通じないであろうか? いいえ! 通じる! 理解できる!

 下品な卑近で高尚ではない愚かでなければ、こつこつと地道な事を質問して明らかに知る事ができる力量が有るべきである。

 思考が有るべきである。

 三十六祖の薬山惟儼は「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」と言った。

 「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」という言葉の使用は美しい。

 「不思量の奥底を思量する」には、「今は思考できない思考を思考しようとする」には、必ず、「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考する」事、「できるか心配せずに、とにかく行う」事を用いるのである。

 「非思量」の時に、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考する」時に、「できるか心配せずに、とにかく行う」時に、自分以外の誰がいるであろうか? 誰が自分に保持させて任せてくれるというのか? いいえ! 自分だけである!

 こつこつと地道に行うのは自分だけれども、(自分以外のものを)思考する、だけではなく、こつこつと地道な行いが(思考の)頭をもたげさせてくれるのである。

 「こつこつと地道な行い」は「こつこつと地道な行い」に過ぎないが、「こつこつと地道な行い」をしても、どの様にしたら「こつこつと地道な行い」を思い量る事ができるというのであろうか? いいえ! できない!

 そのため、「こつこつと地道な行い」は仏に成って行く量には成らないし、法を知った量には成らないし、悟った量には成らないし、会得した量には成らない。

 この様に、薬山惟儼は、単一に伝えている、釈迦牟尼仏の直系の三十六祖である。

 薬山惟儼から向上して行くと、釈迦牟尼仏は三十六祖であると言える。

 この様に、正しく伝える事自体が既に「かの不思量の奥底を思量している」事、「今は思考できない思考を思考しようとしている」事なのである。


 それにもかかわらず、近年の愚かな杜撰ずさん似非えせ信者は誤って「坐禅の鍛錬は、(思考停止して、)心中が平穏無事に成れば終わる。(思考停止して)心中が平穏無事に成る事が心の平穏なのである」と言ってしまう。

 この誤った見解は、「二つの乗り物」の段階の似非えせ学者よりも劣るし、声聞よりも劣る人乗と天乗の者よりも劣る。

 この様な誤った見解を持つ人が、どうして仏法を学んだ人であると言えるであろうか? いいえ! 仏法を学んだ人ではない!

 宋の時代の中国には、この様な誤った見解により誤った鍛錬をしている人が多い。

 祖師の道の荒廃を悲しむべきである。

 別のたぐいの人もいて、誤って「坐禅して道をわきまえる事は初心者や後進の者にとって重要なのであり、坐禅は必ずしも仏祖の日常の行為ではない。歩いて動く事も禅であり、もちろん坐る事も禅であり、話しても沈黙しても動いても静止しても体を安らかにしていれば良いのである」と言ってしまう。

 この様な誤った鍛錬だけには関わるなかれ。

 三十八祖の臨済義玄の臨済宗の分派をかたる輩の多くは、この様な誤った見解を教えてしまっている。

 仏法の正しい行いを伝えてもらえなかったので、この様に誤った言葉を言ってしまうのである。

 初心とは何か? (仏ではない人の)誰が初心ではないのか? 初心をどの段階であると定義するのか?


 知るべきである。

 道を学ぶ事に参入して究めるには必ず、坐禅して道をわきまえるのである。

 坐禅して道をわきまえる見本の主旨は、仏に成る事を求めずに仏の行いを模倣もほうするのである。

 (

 仏は、自分らしく存在しようとは思考するかもしれないが、仏に成ろうとは思考しない。

 生物学的に、人が人に成ろうとは思考しない様に。

 仏の思考の基礎は思いやりである。

 )

 仏の行いを模倣もほうするのは、仏に成るためではないので、過去の仏祖の言動を見て模倣もほうして成就させるのである。

 (仏の行いを模倣するのは、人を思いやるためである。)

 「即身是仏」も、仏に成るためではないのである。

 仏に成ろうと思ってしまう鳥かごを打破すれば、坐禅している仏の(思考の)模倣もほうとは、仏に成るためではないのである。

 昔から、人には、もとより、(向上して)仏に成る力と、(堕落して)「魔」、「仏敵」(、「神への敵対者」)に成る力が有る。

 (実は、思考の鍛錬という意味では、)進歩しても退化しても、みぞや谷を埋める様に、思考の鍛錬の積み重ねという量と成るのである。


 三十五祖の馬祖道一は、三十四祖の南嶽の懐譲の学に参入して心の印をひそかに受けてから、常に坐禅していた。

 南嶽の懐譲は、馬祖道一の所に行って「高徳な馬祖道一よ、坐禅は、何を意図しているのか?」と質問した。


 この質問で静かに鍛錬して学に参入するべきである。

 坐禅より向上するべき意図が有るのか?

 坐禅より規格外に意図するべき道が未だ有るのか?

 全く意図するべきではないのか?

 坐禅している時に、どんな意図が形成されて現れているのか、自問自答して明らかに知るべきであるか?

 明確に詳細に鍛錬するべきである。

 彫刻の竜を愛するより、進んで、真の竜を愛するべきである。

 (中国で、竜の彫刻の名人が、真の竜を見て、自分の彫刻との違いに驚いた、と言われている。)

 彫刻の竜にも、真の竜にも、雲を呼び雨を降らす能力が有る事を学ぶべきである。

 遠さを貴ぶなかれ、遠さを見下すなかれ、遠さに慣熟するべきである。

 近さを貴ぶなかれ、近さを見下すなかれ、近さに慣熟するべきである。

 目を尊重するなかれ、目を軽んじるなかれ、

耳を尊重するなかれ、耳を軽んじるなかれ、耳と目において聡明であるべきである。


 馬祖道一は「仏に成ろうと意図しています」と言った。


 この言葉を明らめて、到達するべきである。

 「仏に成る」という言葉を、どの様に理解するべきか?

 「仏に成る」という言葉は「仏が仏にしてくれる」事と取るのか?

 「作仏」、「仏に成る」という言葉は「仏を作る」事と取るのか?

 「仏に成る」という言葉は「仏の面を一つ、二つ出す」事と取るのか?

 仏に成ろうという意図を脱ぎ落として、古い身心を脱ぎ落とす事を意図して仏に成るのか?

 「仏に成ろうと意図している」という言葉は、仏に成る方法は多様でも仏に成ろうという意図によって葛藤して行く事と取るのか?

 知るべきである。

 「仏に成ろうと意図している」という馬祖道一の言葉は「坐禅では必ず仏に成ろうと意図している。

坐禅には必ず仏に成ろうという意図が有るはずである。

仏になろうという意図は、仏に成る前にする物であるし、仏に成った後もしているであろうし、仏に成る瞬間もしているであろう」という誤った意味である。

 仏に成ろうという意図では、どれだけ仏に成ろうと葛藤するであろう?

 仏に成ろうという葛藤は、他の葛藤をまとうであろう。

 仏に成ろうと尽力する個々の葛藤は、必ず、仏に成ろうという尽力を明らかに表し、全て、個々の意図である。

 仏に成ろうという意図を回避するべきではない。

 仏に成ろうという意図を回避すると、身の命を喪失してしまうであろう。

 仏に成ろうと意図して葛藤する時も、身の命を喪失する事に成る。


 南嶽の懐譲は一つのかわらを取って石の上に当ててぎ始めた。

 馬祖道一は「師よ、何をしているのですか?」と質問した。


 実に、誰がかわらいでいる行動であると見ないであろうか? 誰が本当に普通にかわらいでいるだけであると見るであろうか?

 そのため、「何をしているのですか?」という言葉で、かわらぐ意図が質問されたのである。

 「何をしているのか?」と言うと、行動自体は、かわらいでいるのである。

 現代日本と古代中国は異なるが、かわらぐ意図が有るのである。

 馬祖道一は、南嶽の懐譲がかわらいでいる様に見えたが、自分の所見だけが正しいと決めつけず、祖師の全ての行為に学として参入するべき意図が有ると一考したのである。

 知るべきである。

 仏を見るには、仏を理解するには、仏を知らないかの様に、仏を理解していないかの様に、水を見ても水を知らないかの様に、山を見ても山を知らないかの様にするべきである。

 目の前のものに、真理への通路が無いと軽率に考える事は、仏の学び方ではない。


 南嶽の懐譲は「かわらいで鏡にするつもりである」と言った。


 「かわらいで鏡にするつもりである」という言葉の意味を明らめるべきである。

 「かわらいで鏡にするつもりである」のは道理が必ず有る。

 「かわらいで鏡にするつもりである」という祖師の言葉が形成されて現れているのであり、虚しく設けられたわけではない。

 かわらかわらであり、鏡は鏡であるが、ぐ道理を究めるのに多数の手本が有る事を知るべきである。

 (人は人であり、仏は仏であるが、神は神であるが、人は仏に到達できる、人は神に到達できる、と言う道理を究めるのに多数の手本が有る事を知るべきである。)

 「古鏡」、「古くから鏡としているもの」や明鏡に例えられる古代の祖師、明らかな祖師も、かわらいで鏡にする様に、人の心を磨いて仏に到達したのである。

 もし「諸々の鏡に例えられる諸々の祖師は、かわらいで鏡にする様に、人の心を磨いて仏に到達したのである」という事を知らなければ、仏祖として道を会得していないし、仏祖として何も言い得ないし、仏祖として口を開けないし、仏祖の出す気を見聞きできていない。


 馬祖道一は「どうして、かわらいで鏡にでき得ようか? いいえ! できない!」と言った。


 かわらいで鏡にする様に、人の心を磨いて仏に到達した、鉄の様に意思が堅固な者は、他者の力量を借りなくても、人の心を磨く事は仏に到達するためではなく、人の心を磨く事と仏への到達は別物であっても、すみやかに人の心を磨いて仏に到達するであろう。


 南嶽の懐譲は「どうして、仏に成ろうという意図で坐禅して、仏に成る事ができ得ようか? いいえ! できない!」と言った。


 仏に成れる事を期待して坐禅するわけではない道理が有る事と、仏に成ろうという意図による坐禅では仏に成れないという隠れもない意味を、明らかに知る事ができる。


 馬祖道一は「どうすれば仏に成れますか?」と言った。


 「どうすれば仏に成れますか?」という馬祖道一の言葉の意味は、一筋に明らかに質問した様に見えるが、仏に成る方法を明らかに質問している。

 例えば、「法華経」の例え話の様に、親友である人が、親友である仏祖とまみえる機会を知ったのである。

 人である私にとって親友である仏祖にとって、私は親友である。

 「どうすれば仏に成れますか?」と馬祖道一が質問した時とは、仏祖が姿を出現させる時なのである。


 南嶽の懐譲は「人が牛車に乗っている時に、もし牛車が進まなければ、車を軽く打って進む様に合図するのが良いか? 牛を軽く打って進む様に合図するのが良いか?」(、「坐禅ではなく、仏に成ろうという意図が間違っている」)と言った。

 (馬祖道一は、あえて何も応えなかった。)


 自問自答しなさい。

 「もし牛車が進まなければ」と例えて言っているが、「牛車が進む」とは、どの様な状態であるのか?

 「牛車が進まない」とは、どの様な状態であるのか?

 例えば「水が流れる」様な状態は「牛車が進む」様な状態であるのか?

 「水が流れない」様な状態は「牛車が進まない」様な状態であるのか?

 「水が流れる」様な状態は「水が進まない」様な状態であると言うべきである。

 「水が進む」様な状態は「水が流れる」様な状態ではない事も有る。

 「もし牛車が進まなければ」という言葉を学ぶ事に参入して究める時には、「進まない」状態が有ると学ぶ事に参入するべきであるし、「進まない」状態が無いと学ぶ事に参入するべきである。

 なぜなら、その時、その状態、その場合の話だからである。

 「もし牛車が進まなければ」という言葉を、単なる「進まない」という言葉として理解したわけではないのである。

 「車を軽く打って進む様に合図するのが良いか? 牛を軽く打って進む様に合図するのが良いか?」と言っているが、「車を軽く打って進む」、「仏に成ろうと意図して坐禅して仏に成る」事も有るのであろうか?

 「牛を軽く打って進む」、「仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」事も有るのであろうか?

 「仏に成ろうと意図して坐禅して仏に成る」事と「仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」事は、同じか? 違うか?

 世間や凡人には「仏に成ろうと意図して坐禅して仏に成る」法は無くても、仏道には「仏に成ろうと意図して坐禅して仏に成る」法が有る事を知っている者は、学に参入している、正しくものを見る眼が有る者である。

 ただし、「仏に成ろうと意図して坐禅して仏に成る」法が有る事を学んでも、「仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」法と同じではない。

 明確に詳細に鍛錬するべきである。

 「仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」法が世界には常に存在するが、仏道における「仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」事を更に尋ねて学に参入するべきである。

 「神の使いである牛、水牛の様に、神の使いの様な修行者が、仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」のか?

 「鉄の牛の様に、意思が堅固な修行者が、仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」のか?

 「泥の牛の様に、煩悩が有る修行者が、仏に成ろうと意図せず坐禅して仏に成る」のか?

 (泥は煩悩の例えである。)

 (修行者は自分を)鞭打つべきであるのか?

 尽世界を打つべきであるのか?

 心のことごとくを打つべきであるのか?

 ほとばしる髄を打つべきであるのか?

 手のひらではなく、手の甲で裏拳で打つべきであるのか?

 打つ拳で打つ拳を打つべきである。

 牛で牛を打つ様に、修行者で修行者を打つべきである。

 あえて馬祖道一が答えなかった事を、誤って「恥ずかしくて答えられなかったんだ」と、いたずらに間違えるべきではない。

 馬祖道一は、かわらを投げ打って宝玉を引き寄せたのであり、頭と顔の向きを変えたのである。

 あえて答えずに馬祖道一が会得した物を、奪う事はできないのである。


 また、南嶽の懐譲は「(正しく)坐禅を学べば、坐禅している仏を学ぶ事に成る」と言っている。


 「(正しく)坐禅を学べば、坐禅している仏を学ぶ事に成る」という言葉の意味を学ぶ事に参入して究めて、祖師が大事としている重要な知をわきまえて理解するべきである。

 「坐禅を学ぶ」事の意味を明らかには知らなかったが、「坐禅を学ぶ」事とは「坐禅している仏を学ぶ」事である、と知る事ができる。

 正統な、仏の子(、神の子)、法の子孫でなければ、どうして、「坐禅を学ぶ事とは、坐禅している仏を学ぶ事である」という言葉を理解できるであろうか? いいえ! できない!

 実に、知るべきである。

 正しい人であるが初心者の坐禅は最初の坐禅であり、仏の最初の坐禅と成るのである。


 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅を学べば、禅とは坐る事や横たわる事ではない」と言っている。


 「もし坐禅を学べば、禅とは坐る事や横たわる事ではない」という言葉の意味は「坐禅は坐禅であり、坐禅は坐る事や横たわる事ではない」のである。

 「坐禅は坐る事や横たわる事ではない」と単一に伝えられた時から今まで、無限の「坐る事や横たわる事」は自分の物である。

 自分の物である「坐る事や横たわる事」が、仏の命に近いか遠いかを、どうして尋ねるであろうか? いいえ! 自分の物なので尋ねない!

 迷いであるか悟りであるかを、どうして論じるであろうか? いいえ! 自分の物なので論じない!

 知によって断たれる事を、誰が求めるであろうか? いいえ! 求めない!


 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅している仏を学べば、仏は坐禅という一定の姿勢だけでいるわけではない」と言っている。


 坐禅している仏が一人、二人の他の仏と同様である事は、仏が一定の姿勢だけでいない事を「荘厳」、「栄光」としているからである。

 「仏は坐禅という一定の姿勢だけでいるわけではない」という言葉を理解する者は、「仏の姿」という言葉を理解している。

 「仏は坐禅という一定の姿勢だけでいるわけではない」ので、「坐禅している仏」を不可避なのである。

 そのため、「仏が一定の姿勢だけでいない事を『荘厳』、『栄光』としている」ので、「もし坐禅を学べば、坐禅している仏を学ぶ事に成る」のである。

 「無住法の」、「全てのものへの固定観念が無い」人は、「これは仏ではない」とか「これは仏である」とか取捨選択するであろうか? いいえ! 取捨選択しない!

 「これは仏ではない」とか「これは仏である」という取捨選択を先に脱ぎ落とす事によって、坐禅している仏を学ぶ事に成る。


 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅している仏を学べば、殺したかの様に、仏という意識を無くす事に成る」と言っている。


 更に坐禅している仏を学ぶ事に参入して究めると、殺したかの様に、仏という意識を無くす功徳が有る。

 坐禅している仏には、殺したかの様に、自分は仏であるという意識が無い。

 殺したかの様に、仏という意識を無くすための姿と光明、手がかりを尋ねると、必ず、坐禅している仏が答えと成る。

 「殺した」という言葉は、凡人の言葉と同様ではあるが、単なる凡人と同じ意味ではない。

 「坐禅している仏には、殺したかの様に、自分は仏であるという意識が無い」とは、どの様な状態であるか? と学ぶ事に参入して究めるべきである。

 仏は功徳によって既に「殺したかの様に、自分は仏であるという意識が無い」という事をひねり挙げて、人は「殺したかの様に、自分は人であるという意識が無いか? それとも、未だ意識が有るか?」をも学ぶ事に参入するべきである。


 また、南嶽の懐譲は「もし坐禅している姿に執着すれば、坐禅の理に到達できない」と言っている。


 「坐禅している姿に執着している」とは、坐禅を捨ててしまい、坐禅している姿に触感などから心が侵されているのである。

 既に仏に成って坐禅している時は、坐禅している姿に執着しない様にという意識すら有り得ないのが道理である。

 既に仏に成って坐禅している時は、坐禅している姿に執着しない様にという意識すら有り得ないので、坐禅している姿に執着するのは、たとえ美しくても、坐禅の理に到達できないのである。


 前記の様に、鍛錬する事を「(古い)身心を脱ぎ落とす」というのである。

 未だかつて坐禅した事が無い者には、「(古い)身心を脱ぎ落とした」という言葉は言えないのである。

 「(古い)身心を脱ぎ落とした」という言葉は、打ち坐った時に言えるし、打ち坐った人は言えるし、打ち坐った仏は言えるし、坐禅している仏を学んだ時に言えるのである。

 ただ普通に座ったり横たわったりしている人は、打ち坐った仏には成れない。

 坐禅している人は自然と、坐禅している仏に似るが、人が仏に成る事が有る様な物である。

 仏に成った人がいても、一切の人が仏に成るわけではないし、仏は一切の人ではない。

 また、一切の仏は一切の人とは限らないので、人は必ず仏に成るわけではないし、仏は必ず人であったわけではない。坐禅している仏も必ず人であったわけではない。

 前記の様に、南嶽の懐譲と馬祖道一は、師も優れていて弟子も優れていた。

 馬祖道一は、坐禅している仏が仏に成る事を証明した。

 南嶽の懐譲は、仏に成るための坐禅している仏をあらわした。

 前記の様に、南嶽の懐譲の会には鍛錬が有り、薬山惟儼の会には従来の「かの不思量の奥底」という言葉の理解が有った。

 仏祖達が重要としているのは、坐禅している仏である、という事を知るべきである。

 仏祖に成った者は、坐禅している仏を使用したのである。

 未熟な人は未だ夢にも見ない所であるばかりである。

 西のインドから東の地の中国に仏法が伝わるというのは、必ず坐禅している仏が伝わるのである。

 坐禅している仏が重要だからである。

 仏法が伝わらなければ、坐禅は伝わらない。

 正統に代々継承されているのは、坐禅の主旨だけである。

 坐禅の主旨を未だ単一に伝えられていない人は、仏ではない。

 坐禅という一つの法を明らめなければ、全ての法を明らめられず、全ての修行を明らめられない。

 坐禅という一つの法から他の法へ明らめない人を「明らかに正しくものを見る眼が有る人である」と言うべきではないし、道を会得していない人であるし、どうして古今の仏祖の弟子である祖師に成れるであろうか? いいえ! 祖師に成れない!

 そのため、仏祖は必ず坐禅を単一に伝えると唯一に思い定めるべきである。

 「仏祖の光明に照らされるのに臨んだ」と言うのは、坐禅を鍛錬して学ぶ事に参入して究める事である。

 愚かな輩は、仏の光明を、誤って、太陽や月の光明の様な、真珠などの光輝の様な物であると思ってしまう。

 太陽や月の光輝は、六道輪廻の業における姿であり、仏の光明とは比べ物に成らない。

 仏の光明というのは、真理の詩の一句を受けて保持したり聴聞したりし、一つの法を保持させられ任せられたり保護したりし、坐禅を単一に伝えられる事である。

 仏の光明に照らされなければ、坐禅の意味を、保持させられ任せられる事も無いし、信じて受け入れる事も無い。

 そのため、古来から坐禅の意味は伝えられて来ているが、坐禅の意味を知っている人は少ない。

 宋の時代の中国の諸山で寺の主人にある者で、坐禅の意味を知らず、坐禅の意味を学んでいない人は多い。

 明らかに知っている人はいるが、少ない。

 諸々の寺ではもとより坐禅の時間が定められている。

 寺の指導者を含む、諸々の僧は坐禅をする事を本分としている。

 仏教を学びたい者にも坐禅を勧める。

 けれども、寺の指導者ですら、坐禅の意味を知っている人はまれなのである。

 このため、古来から近代に至るまで、坐禅をたたえる「坐禅銘」を記した老僧が一人二人いるし、坐禅のし方が記された「坐禅儀」を記した老僧が一人二人いるし、坐禅の意味を戒めて教える「坐禅箴」を記した老僧が一人二人いるが、「坐禅銘」は全て理解するべき所が無く、「坐禅儀」は坐禅のし方に未だ暗い。

 「景徳伝燈録」の「坐禅箴」と「嘉泰普燈録」の「坐禅銘」などは、坐禅の意味を知らず、坐禅を単一に伝えてもらえなかった輩が記した物である。

 十方の寺を渡り歩いて一生を過ごしても、坐禅という一つの法の鍛錬が無い事を、憐れむべきである。

 打ち坐っている時に自分の身が入っておらず、鍛錬が自身と相互にまみえない事を、憐れむべきである。

 これは、坐禅が自分の身心に合っていないからではなく、真の鍛錬を志さず、軽率に迷いに酔わされるからである。

 坐禅の意味を知らない人たちが寄せ集めた代物は、ただ自分を見つめ直すだけの様子であり、いたずらに思考を停止して目覚めたまま気絶する様な状態を営ませる代物である。

 これでは、未熟な修行者の見解にも及ばない。

 どうして仏祖の坐禅を単一に伝えられるであろうか? いいえ! 伝えられない!

 宋の時代の中国の記録者は、誤って記録しているのである。

 現在と未来の修行者は、捨て去り、見るべきではない。


 宋の時代の中国の慶元府の太白名山の天童景徳寺の、宏智正覚が記した坐禅箴だけが、仏祖の物であり、真の坐禅箴であり、坐禅の意味を言い得ている物であり、法界の表裏の唯一の光明であり、古今の仏祖の弟子である仏祖の物である。

 過去の仏も未来の仏も、宏智正覚が記した坐禅箴に戒められて保持して行き、古今の祖師は、宏智正覚が記した坐禅箴によって形成されて現れたのである。

 後記は、宏智正覚が記した坐禅箴である。



 「(宏智正覚が記した)坐禅箴」


 仏達が重要としている事と、祖師達が重要としている事は、物事に触れなくても知り、えんに出会わなくても照らす事である。

 物事に触れなくても知る、知は細かく複雑である。

 えんに出会わなくても照らす、光は絶妙である。

 知が細かく複雑であるのは、(区別はするが、)裁く思い、差別しようとする思い、先入観が全く無いからである。

 光が絶妙であるのは、少しも全く期待しないからである。

 (区別はするが、)裁く思い、差別しようとする思い、先入観が全く無いので、ありふれているが不思議である。

 少しも全く期待しないので、取る事が無く了解する。

 水が清らかなので底まで透き通っていて、魚はゆっくりと進んでいる。

 空が果てしなく広く、鳥は微かに見えるほど遠くを飛んでいる。



 坐禅箴の戒めは、大いなる作用が自由に目の前に現れているし、声や色などの向上の規律であるし、父と母から生まれる前の普遍の細目さいもくであるし、仏の悪口を言わなければ良いという事であるし、身の命の喪失は不可避であるという事であるし、頭でっかちな人に行動させる事である。


「仏達が重要としている事」


 仏達は必ず仏達を重要としていて、それが形成されて現れたのが、坐禅である。


「祖師達が重要としている事」


 亡き師は、この言葉を言わなかった。

 亡き師が、この言葉を言わなかった道理は、祖師と祖師だったからであり、袈裟を伝える事によって法を伝えているからである。

 頭と顔の向きを変える様に悟らせる事が、「仏達が重要としている事」であり、「祖師達が重要としている事」である。


「物事に触れなくても知る」


 知は知覚ではない。この世の知覚は「小量である」、「つたない」、「劣っている」。

 知は認知ではない。認知は作為的である。

 そのため、知は物事に触れず、物事に触れないのは知である。

 ただし、知は仏の普遍の知だけであると思い量るべきではない。

 知は自分の物なので自分で分かると思い量るべきではない。

 物事に触れないというのは、「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」、「利発な頭の者が来たら、それに合わせて軽く打って指導し、愚鈍な頭の者が来たら、それに合わせて軽く打って指導する」事であり、母が生んだ皮を坐禅して破る事である。


えんに出会わなくても照らす」


 「えんに出会わなくても照らす」の「照らす」とは、明らかに理解させる事ではなく、霊的な物ではない。

 「えんに出会わなくても与える」事が「照らす」事なのである。

 「照らす」事をえんに変えるわけではないのが「照らす」事なのである。

 「出会わない」のに認知しているのは、遍界は「最初」から隠していないからである。遍界を破して認知しているわけではないのである。

 絶妙である。

 相互関係は有るが、自立しているのである。


「知が細かく複雑であるのは、(区別はするが、)裁く思い、差別しようとする思い、先入観が全く無いからである」


 思いが知に成るのに、必ずしも他の力を借りない。

 知は形と成る。

 形は山河と成る。

 山河は細かく複雑であり、山河の細かさ複雑さは絶妙であり、使用すると魚の様に活発である。

 魚が竜に成るのに、「禹門」、「竜の門」の内外は無関係である。

 (魚が海中の「禹門」、「竜の門」を通ると竜に成れるという例え話が存在する。)

 一つの知をわずかに使用できるのは、尽界、山河をひねって来て尽力して知ったからである。

 山河が親切でも、知が無ければ、一つだけの事を知ったり半端に理解したりする事すらできない。

 分別、思慮は遅く到来するとなげくべきではない。

 かつて、裁く思い、差別しようとする思い、先入観が有った仏達が既に形成されて現れて来た。

 「全く無い」とは「かつて有った」のである。

 「かつて有った」ものは、形成されて現れている。

 そのため、「(区別はするが、)裁く思い、差別しようとする思い、先入観が全く無い」人は、一人にも会わないのである。


「光が絶妙であるのは、少しも全く期待しないからである」


 「少し」というのは尽界である。

 「少し」というのは尽界であるにもかかわらず、「全く期待しない」ので「絶妙」であり、「照らす光」である。

 そのため、近い未来に来るが、未だ来ない様な物である。

 目を疑う事なかれ、耳を信じる事なかれ、

「すぐに直訳の外に真意を明らめるべきであり、文字通りに受け取って規則とする事が無い」のは、「照らす光」であり、ありふれている。

 ありふれているので、「取る事が無い」のである。

 「ありふれているが、不思議である」と住んで保持して来たし、「了解である」と保持させられて任されて来たのに、かえって私は疑って明らかに知ったのである。


「水が清らかなので底まで透き通っていて、魚はゆっくりと進んでいる」


 「清らかな水」と言っているが、雲という空にかかっている水は清らかではあるが底まで透き通っていない。

 まして、器である世界の、深く澄んでいる水は、「清らかな水」ではないのである。

 果てが無い水を、「底まで透き通っている清らかな水」としているのである。

 魚が、もし果てが無い水を進むと、進まないわけではない。

 幾万となく距離を進んでも、測れず、終わりが無い。

 測る岸が無く、雲が浮かぶ空も無く、沈む底も無いので、誰も測れない。

 測ろうと論じようとしても、「底まで透き通っている清らかな水」しかない。

 坐禅の功徳は、果てが無い水を進む魚の様な物である。

 幾千、幾万の距離を進んでも、誰が測れるであろうか? いいえ! 測れない!

 「底まで透き通っている清らかな水」を進む経路は、体を挙げて鳥の道である空を行かない、のである。


「空が果てしなく広く、鳥は微かに見えるほど遠くを飛んでいる」


 「果てしなく広い空」と言っているのは、天にかかっている空の事ではない。

 天にかかっている空は「果てしなく広い空」ではない。

 まして、あちこちに普遍的に存在するものは「果てしなく広い空」ではない。

 (仏の様に)隠れても現れても表裏が無いものを「果てしなく広い空」と言っているのである。

 飛空という唯一の法によってのみ、鳥は「果てしなく広い空」を飛べる。

 飛空という行為は、測る事ができない。

 飛空は尽界である。尽界は飛空であるからである。

 どれだけ飛ぶのか知らないといえども、測る以外の言葉を選ぶと、「微かに見えるほど遠く」という言葉を選べるのである。

 すぐに足下の糸の様な跡は消え去る。

 空が飛び去る時は、鳥も飛び去るのである。

 鳥が飛び去る時は、空も飛び去るのである。

 「飛び去る」事を学ぶ事に参入して究めるための言葉を選ぶと、「ただ、ここに在る」のである。

 「ただ、ここに在る」のは、こつこつと地道に坐禅するための戒めである。

 幾万の距離か、「ただ、ここに在る」と勢い良く言うのである。


 前記が、宏智正覚の坐禅箴である。

 宏智正覚の坐禅箴の様な坐禅箴は、全ての時代の老僧の坐禅箴の中で、未だに無い。

 諸方の「臭皮袋」、「臭い気体が詰まった皮袋である俗人」に、宏智正覚の坐禅箴を理解させようとしても、一生の力を尽くしても、一生の力の二倍の力を尽くしても、理解できないであろう。

 現在、諸方で見る事はできないが、坐禅の意味を戒めて教える物は宏智正覚の坐禅箴だけである。


 道元の亡き師である、五十祖の如浄は、法堂に上って法を説く時に、当たり前の事の様に「宏智正覚は古代の仏と等しい」と言った。


 宏智正覚以外の人を「古代の仏と等しい」と言う事は全く無かった。

 人を知る目が有る時、仏祖をも良く知るのである。

 実に、三十八祖の洞山良价の系譜に仏祖がいる事を知る事ができる。


 千二百四十二年は、宏智正覚が死んだ千百五十七年の八十五年後であるが、宏智正覚の坐禅箴を見て、後記の坐禅箴を記した。

 千二百四十二年から宏智正覚が死んだ千百五十七年まで八十五年間である。

 後記は、千二百四十二年に記した坐禅箴である。



 「(道元による)坐禅箴」


 仏達が重要としている事と、祖師達が重要としている事は、「不思量」、「今は思考できない思考」であるが現れ、自立しているが成就する。

 「不思量」、「今は思考できない思考」であるが現れるのは、親しく近い。

 自立しているが成就するのは、証である。

 「不思量」、「今は思考できない思考」であるが現れるのが親しく近いのは、汚染が全く無いからである。

 自立しているが成就するのが証であるのは、かたよりが全く無いからである。

 汚染が全く無い、親しさ近さは、ゆだねずに、脱ぎ落とす。

 かたよりが全く無い、証は、意図せず、鍛錬と成る。

 水が清らかなので地まで透き通っていて、魚は進んで、魚に似ている。

 空が広く天まで透き通っていて、鳥は飛んで、鳥の様である。



 宏智正覚の坐禅箴の言葉は未完成ではないが、前記の様に、更に言葉を理解するべきである。


 仏祖の子(、神の子)、法の子孫は、必ず坐禅が一大事であると学ぶ事に参入するべきである。

 坐禅が一大事であると学ぶ事に参入する事が、単一に伝えられている正しさの印である。


 正法眼蔵 坐禅箴


 千二百四十二年、興聖宝林寺で記した。

 千二百四十三年、冬、越州の吉田県の吉峰精舎にいて僧達に示した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る