神通

 (思いやりを伴う)「理解」という意味での「神通」、「神に通じる事」、「仏の心に通じる事」は、仏教という家では日常茶飯事であり、諸仏は飽きて怠る事が未だに無い。

 「神通」には、六神通、一神通、無神通、最上神通が有る。

 三十三祖の慧能が朝に三千回、夕暮れに八百回、指導されたのが、(「理解」という意味での)「神通」の時の様子である。

 (各、仏の「神通」、「理解」は、)仏と共に生じるといえども仏に知られず、仏と共に滅ぶといえども仏を破らない。

 (天のうち、)上位の天でも同上であり、下位の天でも同上であり、修行でも同上であり、証の会得でも同上である。

 雪山や、木や石と同様である。


 過去の諸仏は、釈迦牟尼仏の弟子であり、袈裟を捧げて来たり、塔を捧げて来た。

 この時、釈迦牟尼仏は「諸仏の神通は不可思議である」と言った。


 であれば、現在でも未来でも同様である、と知る事ができる。


 大潙禅師は、釈迦如来の直系の三十七祖であり、百丈の懐海から法をいだ。

 十方に出て寺を興してきた多くの仏祖は、大潙の法の子孫である。


 ある時、大潙が横たわっていると、(思いやりから、大潙を起こしに、)仰山の慧寂が来た。

 (思いやりから、慧寂が起こしに来るのが遅かったと思わせないために、)大潙は、向きを変えて、壁を向いて横たわっ(て、寝ていたふりをし)た。

 慧寂は「慧寂は和尚様の弟子です。壁を向いて寝ていたふりをしなくても、私、慧寂は気にしませんよ」と言った。

 大潙は気後れした(ので、慧寂に洗面の用意を整えて欲しいと頼む事ができなかった)。

 (思いやりから、大潙は慧寂に「神通」、「理解」について教えようと、)慧寂が部屋を出ると、大潙は「慧寂」と呼んだ。

 慧寂が戻ると、大潙は「老僧である私、大潙は、見た夢を話すので聞きなさい」と言った。

 (大潙は寝ていたふりをしていたので夢を見たはずが無いが、思いやりから、とりあえず、)慧寂は頭を垂れて聴く姿勢に成った。

 大潙は「私のために、夢の原因を辿たどってみてくれないか?」と言った。

 (大潙が寝ぼけた事をわざと言ったので、慧寂は大潙が洗面して気持ちを目覚めさせたいのだなと理解して、思いやりから、)慧寂は、水を入れた一つの盆と一枚の手を拭く布を取って来た。

 大潙は洗面した。

 大潙が洗面し終わって坐して、わずかな時間をおいてから、(思いやりから、わずかな時間をおいて、隣の部屋から、)香厳の智閑が来た。

 大潙は智閑に「まさに今、私、大潙と慧寂は、(思いやりを伴う、)一つ上の『神通』、『理解』を行った。矮小な『神通』、『理解』、『超常現象』とは違う」と言った。

 智閑は「智閑は隣の部屋にいたので、その『神通』、『理解』を理解していますよ」と言った。

 大潙は「では、智閑よ、試しに理解した事を言ってみなさい」と言った。

 (沈黙して、)智閑は一杯の茶をれて来た。

 大潙は「慧寂と智閑の『神通と知』、『理解と機知』は、釈迦牟尼仏の十大弟子のうち、神通力の第一人者の目犍連モッガラーナと、知の第一人者の鶖鷺子シャーリプトラよりも、遥かに優れている」とほめた。


 仏教という家の神通を知ろうと思うならば、大潙の言葉と理解の学に参入するべきである。

 「矮小な『神通』、『理解』とは違う」ので、真の「神通」、「理解」を学ぶ事を「仏学」、「仏を学ぶ」と呼び、そうでなければ、そう呼ばないのである。

 正統な代々伝わる、(思いやりを伴う)「神通」、「理解」と知なのである。

 西のインドの外道の神通、「二つの乗り物」の段階の人の神通、霊感が無い文字だけの経典の似非学者の所説や学説を学ぶ事なかれ。

 大潙の神通を学んだ時、真の「神通」、「理解」は、無上であり、(矮小な「神通」、「理解」よりも)一つ上であると見聞きできる。

 大潙は、横たわっていてから、(思いやりから、慧寂が起こしに来るのが遅かったと思わせないために、)壁を向いて横たわり(寝ていたふりをし)、(思いやりから、慧寂が起こしたら、パッと)起きる用意をしていて、(思いやりから、大潙は慧寂に「神通」、「理解」について教えようと、)慧寂を呼んで夢の話をし、洗面を終え坐した。

 (思いやりから、隣の部屋から、)わずかな時間をおいてから智閑が来た。

 慧寂は、(大潙は寝ていたふりをしていたので夢を見たはずが無いが、思いやりから、とりあえず)頭を低くして大潙の夢の話を聴き、(思いやりから、)水を入れた一つの盆と一枚の手を拭く布を取って来た。

 大潙は、それを「まさに今、私、大潙と慧寂は、一つ上の『神通』、『理解』を行った」と言った。

 この(思いやりと)「神通」、「理解」を学ぶべきである。

 前記の様に、仏法を正しく伝えられた祖師の大潙が(「思いやりを伴う理解が神通である」と)言っているのである。

 洗面の夢を暗黙に話した、と(理解して)言えない様ではいけない。

 (思いやりを伴う理解は、)一つ上の神通であると確信するべきである。

 大潙が「矮小な『神通』、『理解』、『超常現象』とは違う」と既に言っているから、「二つの乗り物」の段階の人の矮小な思い量りや見解と同じであるべきではない。

 「十聖三賢」の未熟な菩薩の段階の人などと同じであるべきではない。

 彼らは皆、矮小な「神通」、「理解」、「超常現象」を習い、矮小な身(心)に相応しい量(の「神通」、「理解」、「超常現象」)しか会得できない。

 仏祖の(思いやりを伴う)「大神通」、「大いなる理解」には及ばない。

 仏祖の神通は、(思いやりを伴う)「仏神通」(、「神の理解」)であり、「仏向上神通」(、「神や神の人の向上の理解」)である。

 仏祖の神通を習おうとする人は、「魔」、「仏敵」(、「神への敵対者」)や、外道に心を動かされるべきではない。

 仏祖の神通は、霊感が無い文字だけの経典の似非学者には、未だ聞かせてもらえない所であり、聞いても信じて受け入れ難い物である。

 「二つの乗り物」の段階の人、外道、霊感が無い文字だけの経典の似非学者は、矮小な「神通」、「理解」、「超常現象」を習い、(思いやりを伴う)「大神通」、「大いなる理解」を習わない。

 諸仏は、(思いやりを伴う)「大神通」、「大いなる理解」に住んで保持し、伝えている。

 これは、「仏神通」(、「神の理解」)による物である。

 (思いやりを伴う)「仏神通」(、「神の理解」)でなければ、慧寂は水を入れた一つの盆と一枚の手を拭く布を取って来ないし、大潙は向きを変えて壁を向いて横たわらないし(寝ていたふりをしないし)、わずかな時間をおいてから智閑は来ない。

 (思いやりを伴う)「大神通」、「大いなる理解」に包含されて、「小神通」、「奇跡」も存在するのである。

 (思いやりを伴う)「大神通」、「大いなる理解」は「小神通」、「奇跡」を包含しているが、「小神通」、「奇跡」だけからでは「大神通」、「大いなる理解」を知る事ができない。

 「小神通」、「奇跡」とは、毛で巨大な海を飲み込み、芥子からしの種に須弥山を納める事である。

 「小神通」、「奇跡」とは、身体の上に水を出し、身体の下に火を出す事などである。

 五神通と六神通は皆、「小神通」、「奇跡」である。

 「小神通」、「超常現象」にとらわれている輩は、「仏神通」(、「神の理解」)は夢にも未だ見聞きしないのである。

 「五神通と六神通が『小神通』、『奇跡』である」と言うのは、「五神通と六神通」、「奇跡」は修行と証(の向上または堕落や怠惰)によっては(左右されて)汚染され、時と場所によっては(左右されて)中断されてしまう。

 「五神通と六神通」、「奇跡」は、(奇跡を起こす者の)存命中は存在するが、(奇跡を起こす者の肉体の)死後には「この世」に出現しない。

 (五神通と六神通の能力が有る人は、)五神通と六神通の能力は自分には存在するが、他者には存在させられない。

 「五神通と六神通」、「奇跡」は、(信心深い人がいる場所等、)ある場所では現れても、他の場所では現れない。

 「五神通と六神通」、「奇跡」は、(信心深い人が多数いた)過去には現れても、(信心深い人が少数である末法の世の)現在には現れ得ない。

 (思いやりを伴う)「大神通」、「大いなる理解」は、そうではない。

 諸仏の教え、行い、証は全て、(思いやりを伴う)「神通」、「理解」によって形成されて現れるのである。

 諸仏のほとりに入った時だけではなく、仏が向上していく時にも、諸仏の教え、行い、証は全て、(思いやりを伴う)「神通」、「理解」によって形成されて現れるのである。

 神通が有る仏の化の流儀は、実に、不思議である。

 「身体」、「肉体」を持つよりも先に「神通」(、「神性」)は現れるので、この世の過去、現在、未来という時間とは無関係なのである。

 「仏神通」(、「神の理解」)でなければ、諸仏が、悟りを求める事を思い立って心したり、修行したり、無上普遍正覚を証したり、寂滅した心を持ったりする事はできないのである。

 「この世」という「無尽法界」という海が常に不変であるのは全て、「仏神通」(、「神の理解」)による物なのである。

 毛で巨大な海を飲み込むだけではなく、毛に巨大な海を保持させ任せ、毛によって巨大な海が現され、毛で巨大な海を出し、毛で巨大な海を使うのである。

 一つの毛で尽法界を飲み込んだり出したりできる時、唯一の尽法界が飲み込まれたら、もう尽法界は無いのであると誤って学ぶ事なかれ。

 芥子からしの種に須弥山を納めたら、もう須弥山は無いのであると誤って学ぶ事なかれ。

 芥子からしの種が須弥山を出す事が有るし、法界が無尽蔵の海の様でも、芥子からしの種が法界を出現させる事が有る。

 毛が巨大な海を出す際に、芥子からしの種が巨大な海を出す際に、一瞬でも出せるし、万劫にも無限にも出せる。

 何ものが、毛や芥子からしの種に、万劫でも無限でも、一瞬でも、巨大な海や須弥山を出す事を可能とさせているのか?

 「神通」、「理解」が、毛や芥子からしの種に、万劫でも無限でも、一瞬でも、巨大な海や須弥山を出す事を可能とさせている。

 可能とさせる事が、「神通」、「理解」である。

 そのため、「神通」、「理解」は、「神通」、「理解」を生じ出させるばかりである。

 さらに、「神通」、「理解」は、この世の過去、現在、未来の中で存在したり滅んだりしないと学ぶべきである。

 諸仏は「神通」、「理解」にのみ遊戯する。


 蘊公と呼ばれる龐居士は、祖師の会の偉人である。

 龐居士は、三十五祖の石頭希遷の会と、江西の三十五祖の馬祖道一の会の両方に参入して学んだだけではなく、多数の、正道に適った達道者にまみえたり出会ったりした。


 ある時、龐居士は、「神通の並行での妙なる使用とは、水の運搬や、柴の薪の運搬である」と言った。


 この道理の学によく参入して究めるべきである。

 水の運搬とは、水を載せて運ぶ事である。

 自分で作為的に行う事も有るし、他人に教えて行わせる事も有るが、水を載せて運ぶのである。

 これは神通が有る仏である。

 知る事には存在や時間が関わるが、神通は神通である。

 人々が知らなくても、「神通は神通である」という法は、廃止されず、滅びない。

 人々が知らなくても、法は法である。

 「水の運搬は神通である」と知らなくても、「神通は水の運搬である」事は退けられない。

 柴の薪の運搬とは、薪を運ぶ事である。

 例えば、三十三祖の慧能が昔に受けた指導の様な物である。

 三十三祖の慧能は、朝に三千回指導されても「神通」、「理解」とは知らず、夕暮れに八百回指導されても「神通」、「理解」とは自覚しなかったが、「神通」、「理解」は形成されて現れた。

 実に、諸仏如来の神通の妙なる使用を見聞きする人は、必ず正道を会得できるし、必ず言い得る様に成る。

 このため、一切の諸仏が正道を会得できたり言い得たりできる様に成る事は、必ず「神通力」、「理解力」によって成就したのである。

 そのため、今、「二つの乗り物」の段階の人は、「水を出現させる事が神通である」と言っていないで、「水の運搬は大神通である」事を学ぶべきである。

 「水や柴の薪の運搬」、「水や燃料の運搬」は、未だ廃れないし、人々は、ないがしろにしない。

 このため、昔から今にまで及び、あちこちに伝わっている。

 少しの間も退転しないのは、神通の妙なる使用である。

 これは、大神通であり、矮小な神通とは違う。


 その昔、三十八祖の洞山良价が三十七祖の雲巌曇晟のそばで仕えていた時に、三十七祖の雲巌曇晟は「洞山良价は、神通の妙なる使用とは、どの様な物であると考えているのか?」と質問した。

 三十八祖の洞山良价は、手前で両手の全ての指を交差させて握って立った。

 また、三十七祖の雲巌曇晟は「(洞山良价は、)神通の妙なる使用とは、どの様な物であると考えているのか?」と質問した。

 三十八祖の洞山良价は、敬礼してから退席した。


 この「因縁」、「出来事」は、実に、神通によって、言葉を承って主旨を会得した事による物である。

 神通による事が存在して箱とふたが適合したのである。

 知るべきである。

 神通の妙なる使用では、不退転である法の子孫がいて、無上の高みの祖師がいる。

 いたずらに外道、「二つの乗り物」の段階の人と等しいと思うなかれ。

 仏道には、身体の上に水を出し、身体の下に火を出す、神の奇跡、神通が有る。

 尽十方界は、「沙門」、「修行者」の唯一の真実の実体である。

 須弥山の周囲の九山八海や、「性海」や、「一切知」、「一切の存在についての知」という海の水は、身体の上中下に水を出させ、身体の上中下以外の所に水を出させる。

 知などの海が、火を出させるのも、水を出させるのと同様である。

 知などの海は、地水火風の四大元素などだけではなく、身体の上に仏を出し、身体の下に仏を出す。

 知などの海は、身体の上に祖師を出し、身体の下に祖師を出す。

 知などの海は、身体の上に無量阿僧祇劫を出し、身体の下に無量阿僧祇劫を出す。

 知などの海は、身体の上に法界という海を出し、身体の下に法界という海を出す、だけではない。

 知などの海は、世界という国土を七つ八つ出し、二つ三つ飲み込む。

 四大元素、五大、六大、諸大、無量大は全て、出現したり滅びたりする、出したり飲み込んだりする、この世での神通である。

 大地、虚空の一つ一つは、出したり飲み込んだりする、この世での神通である。

 芥子からしの種に転じられる事を力量とし、毛というくちが覆いかかって飲み込まれる事を力量とする。

 人の理解や人知の及ばない所より共に生じて、人の理解や人知の及ばない事に住んで保持し、人の理解や人知の及ばない実体に帰る。

 実に、長短とは無関係である、仏の神通の変化する相は、一心に推測と思い量りの全力を挙げても、例える事しかできない。


 昔、五通仙人が釈迦牟尼仏に奉仕していた時に、五つの神通力を得た五通仙人は「仏には六つの神通力が有ります。私には五つの神通力が有ります。残りの一つの神通力とは、どんな物なのですか?」と釈迦牟尼仏に質問した。

 釈迦牟尼仏は「五通仙人」と呼んだ。

 五通仙人は「はい」と答えた。

 釈迦牟尼仏は「何でも一つの神通力を私、釈迦牟尼仏に質問しなさい」と言った。

 (

 「六神通」とは、無限の数の神通力を六種類に分類できる事、理解の数が六である事、「神通」が「神に通じる事」、「神を理解する事」、「神と理解し合う事」を意味する。

 五通仙人は「六神通」を神通力の数が六つしか無い事と誤解していたので、仏は、五通仙人に考えさせる言い方で、五通仙人の誤解を指摘した。

 )


 この「因縁」、「出来事」をよく学に参入して究めるべきである。

 仏ではない五通仙人が、どうして、仏には六神通が有る、と知る事ができるであろうか? いいえ! 知る事はできない!

 仏には無限の量の神通と知が有るのである。

 ただ六つの神通しか無い訳が無い。

 仮に、たとえ六つの神通だけを見ても、仏ではない五通仙人には六つの神通でさえも極める事はできない。

 まして、他の七つ以上の無限の神通を、仏ではない五通仙人は、夢にも見る事もできない。

 しばらく自問自答しよう。

 五通仙人は、たとえ釈迦牟尼仏を肉眼で見ても、「見仏」、「仏の心の理解」は未だできていなかったのであろう。

 五通仙人は、たとえ「見仏しても」、「釈迦牟尼仏を肉眼で見ても」、「釈迦牟尼仏を見る事」、「釈迦牟尼仏の心の理解」は未だできていなかったのであろう。

 五通仙人は、たとえ釈迦牟尼仏を肉眼で見ても、たとえ仏を肉眼で見ても、「自分の心を見る事」、「自分の心の理解」を未だ、できていなかったのであろう、と自問自答して明らかに知るべきである。

 この自問自答で、葛藤の仕方を学ぶべきであり、葛藤を断つ事を学ぶべきである。

 まして、「仏には六つの神通力が有ります」と言うのは、隣人の珍しい宝を数えるよりも、劣っている。矮小である。

 釈迦牟尼仏が「何でも一つの神通力を私、釈迦牟尼仏に質問しなさい」と言った意味は、どうであろうか? 理解したであろうか?

 五通仙人に、六つ目の神通は有るとも、無いとも、言わなかった。

 仮に、六つ目の神通の有無をたとえ説いても、五通仙人は、どうして、「何でも一つの神通力」に通じる事ができるであろうか? いいえ! できない!

 なぜなら、五通仙人には五つの神通力が有るが、(「神の理解」という意味で)仏が有している「六神通」の中の「五神通」ではない。

 「仏通」、「仏の理解」は含有している仙人への理解によって「仙人通」、「仙人による理解」を見通す事ができるが、どうして、「仙通」、「仙人による理解」によって「仏通」、「仏の理解」に通じて理解する事ができ得ようか? いいえ! できない!

 もし五通仙人が仏の一通でも通じて理解する事が有れば、その一通によって仏を「神通」、「理解」するべきである。

 仙人の外見は「仏通」、「仏の理解」に似てはいるが、仙人は仏ではない。

 仏の流儀の外見は「仙通」、「仙人の理解」に似てはいるのが仏の流儀であるといえども、「仙通」、「仙人の理解」は「仏神通」、「仏の理解」ではないと知るべきである。

 仏の心に通じなければ、五通仙人が得た五つの神通力は全て、仏の五つの神通力とは違うのである。

 五通仙人は軽率にも「残りの一つの神通力」を質問したが、得ていない神通力を聞いて、何の用が有ったのか。

 釈迦牟尼仏の言葉の意味は文字通り「何でも一つの神通力を私に質問しなさい」なのである。

 釈迦牟尼仏の言葉の意味は、五通仙人が得ている五つの神通力を一つでも二つでも釈迦牟尼仏に質問しなさい、五通仙人が得ている五つの神通力のうち一つの神通力でさえも五通仙人は理解できていないからである、という事なのである。

 そのため、仏の神通と、仏ではない他の者の神通は、「神通」という名前は同じだけれども、「神通」という名前が持つ意味は遥かに異なっている。


 三十八祖の臨済義玄は「古代の人が言うには、この世の如来の全身の姿は世間に順応する為の物である。

人々が『断見』、『肉体が死ぬと全て滅びるという誤った見解』を生まない様に、仮に『三十二相』や『八十種好相』と言っているのである。

この世の身体は無上普遍正覚の実体ではなく、この世の肉眼では見えない姿が如来の真の姿である。

あなたは『仏に六神通が有るのは不思議である』と言うが、一切の諸々の、天人、神通力を得た仙人、阿修羅、強い霊にも神通力は有るが、一切の諸々の、天人、神通力を得た仙人、阿修羅、強い霊は仏であろうか? いいえ! 仏ではない!

仏道の人達よ、誤る事なかれ。

阿修羅は、帝釈天と戦い、負けて、八万四千の眷属と共に蓮根の穴の中に入ったが、これは神聖な事であろうか? いいえ! 神聖ではない!

私が話題に挙げた阿修羅が蓮根の穴に入る様な神通力は全て、業に通じてしまう代物であり、何ものかに通じてしまい左右されてしまう代物である。

仏の六神通は、そんな物ではない。

色の領域で色に惑わされず、

音声の領域で音声に惑わされず、

香りの領域で香りに惑わされず、

味覚の領域で味覚に惑わされず、

触感の領域で触感に惑わされず、

法の領域で法に惑わされない。

そのため、『色声香味触法』という『五感と法』はくうの相であると到達すれば、とらわれなく成る。

これが、何ものにも左右されない仏道の人である。

この仏道の人は、『色受想行識』という『五蘊』において漏れが有る性質が残っているといえども、地上で神通を行う。

仏道の人達よ、真の仏の実体は、この世の肉眼で見える形や相ではない。

あなたは、ただ、幻の上に模様を作っているだけなのである。

たとえ仏の肉体が『この世』の肉眼で見えても、『この世の肉眼で仏の本質が見える』と言うのは、人をだますと言われる『野狐の精霊』の様な者の誤った見解であり、真の仏の教えではなく、外道の見解である」と言った。


 そのため、諸仏の六神通は、一切の諸々の、天人や、鬼神や、「二つの乗り物」の段階の人などが及ぶ事ができない物であり、測り知る事ができない物である。

 仏道の六神通は、仏の弟子だけが単一に伝えてもらえる。

 仏道の六神通(、神の六神通)は、仏の弟子(、神の弟子)以外は伝える事ができない物である。

 (「理解」という意味での)仏の六神通は仏道で単一に伝えられている。

 (「理解」という意味での)六神通を単一に伝えられていない者は、仏の六神通を知らない。

 (「理解」という意味での)仏の六神通を単一に伝えられていない者は、仏道の人ではないという学に参入するべきである。


 三十六祖の百丈の懐海は「眼耳鼻舌の各々で一切の『この世』に有ったり無かったりする諸法に汚染されず貪らない事を、真理の四句の詩を受けて保持していると言い、『四果』を得たと言う。

五感と意識に入ってくるものが後を引かない事を、六神通と言う。

一切の『この世』に有ったり無かったりする諸法に妨げられず、人知と人の理解に左右されない事を、神通と言う。

神通を守る意識が不要な事を、無神通と言う。

無神通の『菩薩』、『修行者』は、跡を調べる事ができず、仏の向上の人であり、最も不可思議な人であり、自身が天である人である」と言った。


 これが、仏から仏へ、祖師から祖師へ、伝えている神通である。

 諸仏の神通を持つ人は、仏の向上の人であり、最も不可思議な人であり、自身が天である人であり、無神通の「菩薩」、「修行者」である。

 一切の「この世」に有ったり無かったりする諸法に妨げられず、人知と人の理解に左右されず、神通を守る意識が不要な事を、無神通と言うのである。

 仏道には六神通が有り、諸仏は久しく伝え保持してきた。

 六神通を伝えられず保持していない仏は一人もいない。

 六神通を伝えられず保持していない人は、諸仏ではない。

 六神通とは、五感と意識に入ってくるものが後を引かず、五感と意識に入ってくるものを明らめる事である。

 「後を引かない」と言うのは、「六神通の普遍の使用はくうであったりくうでなかったりする。一つの円の光は内外ではない」という古代の人の言葉である。

 内外ではない事が、後を引かない事である。

 後を引かない事の、修行を行い、学に参入し、証に入るには、五感と意識に入ってくるものに動かされ過ぎない事である。

 「動かされ過ぎない」と言うのは、動かされ過ぎる者は三十回分、棒で指導されるのである。

 この様に、六神通の学に参入して究めるべきである。

 仏教という家の法を嗣いだ正統な子孫でなければ、誰が、六神通の理が有る事さえも聞けるであろうか? いいえ! 聞けない!

 仏教という家の法を嗣いだ正統な子孫でなければ、いたずらに外へ向かって走りまわる事を家に帰っていると誤って思うだけである。

 また、「四果」は、仏道の日常の手段であるが、正しく伝えている経典の学者はいない。

 砂や石を数える様な、霊感が無い文字だけの学者のたぐいが、どうして、「四果」という果実を得る事が有るであろうか? いいえ! 霊感が無い文字だけの学者が「四果」を得る事は無い!

 矮小なものを得て満足しているたぐいの者で、六神通の学に参入して究める事に到達した者は未だいない。

 六神通は、仏から仏へ伝承している物である。

 「四果」とは、真理の四句の詩を受けて保持する事である。

 「真理の四句の詩を受けて保持する」と言うのは、「眼耳鼻舌の各々で一切の『この世』に有ったり無かったりする諸法に汚染されず貪らない事」である。

 汚染されず貪らない事は、汚染されない事である。

 汚染されない事とは、平常心であり、「私は常に、ここ(、汚染されない事)を大切にする」事である。

 これが、仏道で正しく伝えられている、六神通と「四果」である。

 これと異なる見解は、仏法ではない、と知るべきである。

 そのため、仏道には、必ず、「神通」、「理解」によって到達するのである。

 正しい理解によって到達した人は、水のしずくが巨大な海を飲み込み、微塵が高山をひねり放つ事を、誰が明らかに疑い得るであろうか? いいえ! 疑い得ない!

 神通力を疑わない事が、「神通」、「理解」であるだけである。


 正法眼蔵 神通


 その時、千二百四十一年、観音導利興聖宝林寺にいて僧達に示した。

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