道心
【抜粋】
現在の生を捨てて未だ未来の生に生まれない間、中有と言う事がある。
中有の命は七日間である。
七日間が経過すると中有の命が死んで、また(新しい)中有の身(体)を受けて、七日間ある。
中有は、どんなに長くても七日間を過ぎない。
(新しい)中有の時、どんな物事を見聞きするにも障害が無い事は天眼通のようである。
(新しい)中有を過ぎて、父母のほとりに近づく。
また、現在の生が終わる時は、両眼が、たちまち暗く成るはずである。
【全文】
仏道を求めるには、まず道心を優先するべきである。
道心の
明らかに知っている人に問うべきである。
世の人が道心が有ると言っても、実は、道心が無い人がいる。
真に道心が有って、人に知られていない人がいる。
この様に、道心の有り無しは知り難い。
また、自分の心を優先するなかれ。仏が説いた法を優先するべきである。
よくよく道心の
世の末には、(終わりの時代には、)真に道心が有る者は
けれども、しばらく心に無常という思いをかけて、世の
自分は世の
心構えをして、法を尊重して、自分の身と命を軽くして、法のためには、身も命も惜しむべきではない。
次に、深く「仏、法、僧」という「三宝」を敬うべきである。
生が変わっても身が変わっても三宝に捧げものを捧げて敬おうと思い願うべきである。
寝ても覚めても三宝の功徳を思うべきである。
寝ても覚めても「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と三宝を唱えるべきである。
(「南無」は「敬礼する」事を意味する。)
現在の生を捨てて未だ未来の生に生まれない間、中有と言う事がある。
中有の命は七日間である。
中有の間も常に声を止めず「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と三宝を唱えようと思うべきである。
七日間が経過すると中有の命が死んで、また(新しい)中有の身(体)を受けて、七日間ある。
中有は、どんなに長くても七日間を過ぎない。
(新しい)中有の時、どんな物事を見聞きするにも障害が無い事は天眼通のようである。
この時、心をはげまして「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と三宝を唱え、唱える事を忘れず、絶え間無く唱えるべきである。
(新しい)中有を過ぎて、父母のほとりに近づく時も、心構えをして、正しい知を持ったまま胎児として母胎に宿ろうと思いなさい。
母胎内にいても、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と三宝を唱えるべきである。
生まれ落ちる時も、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と三宝を唱える事を
「五感と意識」という「六根」を経由して、三宝に捧げものを捧げて、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と三宝を唱え帰依すると深く願うべきである。
また、現在の生が終わる時は、両眼が、たちまち暗く成るはずである。
その時、すでに生が終わったと知って、はげんで「南無帰依仏」と唱えるべきである。
この時、十方の諸仏は
両眼の前の視界に闇が来た後は、(肉体の死後は、)たゆまず、はげんで三帰依を唱える事を、中有までも、未来の生までも、
この様にして、生から生へ、世から世へを尽くして唱えるべきである。
仏という結果、無上普遍正覚に至るまでも、
これが、諸仏、菩薩が行わせている道である。
これをする事を、「深く法を悟る」とも言うし、「仏道が身に備わる」とも言うのである。
その他の事や、その他の思いを交えないと思い願うべきである。
また、一生のうちに、(仏像といった)仏を創造しようと営むべきである。
仏を創造したら、三種類の捧げ物を捧げるべきである。
三種類の捧げ物とは、草座といった座具、氷砂糖を溶かした水、ロウソクといった明かりである。
三種類の捧げ物を仏に捧げるべきである。
また、現在の生のうちに、法華経を作るべきである。
法華経を書いたり、
常に、敬って頭上に高くかかげ、礼拝し、華、香、明かり、飲み物と食べ物、紙の書物の衣である覆い(ブック・カバー)を捧げるべきである。
常に、頭頂を清くして、敬って頭上に高くかかげるべきである。
また、常に、袈裟をかけて坐禅するべきである。
袈裟は、「第三の生で道を得た」という古代の行跡が有る。
袈裟は、すでに過去、現在、未来の諸仏の衣であり、功徳は計り知れない。
坐禅は、三界の法ではなく、仏祖の法である。
正法眼蔵 道心
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