正法眼蔵の現代語訳

エリファス1810

法華転法華

 【抜粋】


 唐の時代の中国の広南東路の韶州の曹谿山の宝林寺の、三十三祖の大鑑禅師の会に、法達と言う僧が来た。

 法達は自身を称賛して「私は法華経を既に三千回も読んだ」と話した。

 祖師は「たとえ何万回に及んでも、法華経の主旨を会得しないのは、自身のとがを知るにも及ばない」と話した。

 法達は「未だ学ぶべき物が有る人である私は愚鈍で、従来は、ただ、文字に任せて読んでいました。どうして法華経の主旨を明らめる事が私に可能でしょうか? いいえ! 不可能です!」と話した。

 祖師は「あなた、試しに一回、法華経を読んでみなさい。私が、あなたのために法華経を解説しましょう」と話した。

 法達は法華経を読んだ。

 法華経の方便品に至って、祖師は次のように話した。

「法華経の方便品に留まりなさい。

法華経はもとより、ある『因縁』、『理由』による、この世への諸仏(、神の人)の出現を主旨としている。

法華経では、たとえ多くの例えを説いていても、主旨を超える事は無い。

この世への諸仏(、神の人)の出現の『因縁』、『理由』は、何かと言うと、唯一の一大事のためである。

唯一の一大事とは、仏の知見(、神の知見)である。

唯一の一大事とは、仏の知見(、神の知見)を開かせ、示し、悟らせ、入れさせる事である。

仏の知見(、神の知見)を開き、示されたと気づき、悟り、入る事、自体が、仏の知見(、神の知見)である。

既に仏の知見(、神の知見)を持っている人は、既に仏(、神の人)である。

あなたは今、まさに信じなさい。

仏の知見(、神の知見)とは、ただ、(仏、神の人である、)あなたの自らの心である」

 さらに、祖師は詩で次のように話した。

「心が迷えば法華経の主旨に転じられ、心を悟れば法華経の主旨を転じる。

法華経を読む事を久しくしても、自己を明らめなければ、正義に対する敵に成ってしまう。

正義を無意識的に意識する事は正しい。

(いつまでも)正義を意識的に意識する事は誤りである。

意識の有無を共に計らなければ、白い牛の牛車を長く御する事に成ってしまう」

 法達は詩を聞いて祖師に次のように尋ねた。

「法華経には『諸々の大いなる声聞と菩薩の段階の人達が皆、思いを尽くして推測しても、仏の知(、神の知)を量る事はできない』と記されています。

今、祖師は、凡人に、ただ自らの心を悟らせるのを仏の知見(、神の知見)と名づけました。

上等な素質の人でなければ疑い、悪口を言う事を避け難いです。

また、法華経で『三つの車』の例えを説いていますが、『大牛車』と『白牛車』には、どのような区別が有るのでしょうか?

どうか和尚様、再び解説してください」

 祖師は次のように話した。

「法華経の意味は明らかである。

あなたは、自ら迷い、背を向けている。

諸々の『三つの乗り物』の段階の人達が仏の知(、神の知)を量る事ができない憂いの原因は度量に有る。

たとえ諸々の『三つの乗り物』の段階の人達が思いを尽くして共に推測しても、遥か遠くの天に懸かっている月のような仏の知(、神の知)には到達できない。

仏(、神の人)はもとより凡人の為にのみ説き、仏(、神)の為には説かない。

仏(、神の人)は凡人の為にのみ説いている理を信じる事を否定して退いても、『白牛車』に座りながら更に門の外で『三つの車』を求めるような事であると知らない。

法華経の言葉は明らかに、あなたに向かって『(唯一)無二また無三である』と話している。

あなたは、どうして悟らないのですか?

『三つの車』は仮である。

なぜなら、仏の知見(、神の知見)を持つ前だったからである。

『唯一の乗り物』は実である。

なぜなら、今、仏の知見(、神の知見)を持っているからである。

ただ、あなたは、仮の物を過去の物とし、実に帰りなさい。

実に帰れば、実とは名ではない(、存在するものである)。

知りなさい。

存在するものは皆、珍しい宝であり、全て、あなたの物である。

存在するものは、あなたが受用する物である。

さらに、存在するものは父である仏(、父である神)の物である、と思わなくても良い。

また、存在するものは仏の子(、神の子)の物である、と思わなくても良い。

また、存在するものを受用しようと思わなくても受用している。

そして、『存在するもの』を『法華経』と名づけている。

長い時間である劫から劫へ至っても、昼から夜へ至っても、手で法華経を開かなくても、『法華経』と名づけている『存在するもの』の意味を読み取って念頭に置かなくても良い時は無い」

 法達は、啓発を受け、心踊り歓喜し、詩を捧げて称賛して、次のように話した。

「法華経を三千回も読んだが、曹谿山の祖師の一つの詩で忘却した。

この世へ諸仏(、神の人)が出現した主旨を未だ明らめなければ、どうして生を重ねる狂気を止める事ができるであろうか? いいえ! できない!

法華経の『羊の車、鹿の車、牛の車』の例えは仮に設けられている。

法華経の『最初も中間も最後も善い』という言葉をかかげる。

法華経の『火事の家』の中は、元より、法の中の王である、と誰が知っているであろうか?」

 法達が捧げた詩を聞いて、祖師は「あなたは、今から『法華経の意味を読み取って念頭に置く僧』、『念経僧』と名乗りなさい」と話した。





 【全文】


 十方の仏土中は法華だけが存在する。

 十方の過去、現在、未来の一切の諸仏、無上普遍正覚者達は、法華を転じたり、法華に転じられたりする。

 全ての正しい者はもとより菩薩の道をおこなっている、不退転である。

 諸仏の知は、甚深無量であり、理解し難く入り難い、安らかなつまびらかな三昧である。

 文殊師利仏としては、大海である仏土である、仏と仏だけが能く究め尽せる、ありのままの相である。

 釈迦牟尼仏としては、私だけが、ありのままの相を知っていて、十方の仏もまた、そうである。そのため、諸仏は一大事のために「この世」に出現する、のである。そして、私および十方の仏は、能く、この事を知っていると、全ての生者に悟りを開かせ示し入れさせたいと欲する、一時である。

 普賢菩薩としては、不思議な功徳である法華に転じられる事を成就して、深大久遠である無上普遍正覚をこの世に流布させて、「三草二木」と「大小諸樹」に例えられる修行者を能く生ずる地であり、能くうるおす雨である。

 法華に転じられる事を、知る事が不能な所で、行い尽くして成就するのみである。

 普賢菩薩の流布が未だ終わらないうちに、霊山の大いなる会が来る。

 普賢菩薩は往来し、釈迦牟尼仏は普賢菩薩の往来を白毫光相で証する。

 釈迦牟尼仏の会が未だ半ばに無いのに、文殊師利仏が思惟しゆい忖度そんたくして速やかに弥勒菩薩に、成仏を予言される「授記」を教えた事は、法華に転じられたのである。

 普賢菩薩、諸仏、文殊師利仏、大いなる会は共に、最初も中間も最後も善い、法華に転じられている、という知見に到達するべきである。

 唯一の一乗だけをもって一大事とすとして、諸仏は、この世に出現するのである。

 諸仏の「この世」への出現は一大事であるので、「仏と仏だけが能く究め尽せる、諸法の実の相」と「法華経」に記されているのである。

 諸仏が説く法は必ず一仏乗で、必ず、仏だけが仏だけに究め尽させる事ができるのである。

 釈迦牟尼仏以外の、過去七仏を含む諸仏は各々、仏から仏へ究め尽させて、釈迦牟尼仏に成就させているのである。

 西のインドから東の中国にいたるまで、十方の仏土の中なのである。

 三十三祖の大鑑禅師にいたるまでも、究め尽させる、唯一の仏乗という唯一の一乗の法なのである。

 ただ、一大事であるのは、必ず、唯一の仏乗である。

 今、諸仏は、この世に出現しているのである。

 三十四祖の青原の行思の仏の家風は今にまで伝わり、同じく三十四祖の南嶽の懐譲の法門が世に開演しているのは皆、如来の実のままの知見による物である。

 実に、仏と仏だけが能く究め尽せるのであり、正統な仏が仏の正統な悟りを開かせ示し入れさせてくれているのである、と法華に転じられるべきである。

 これが、「法華経」、「妙法蓮華経」、「妙なる法の蓮華の経」とも呼ばれている、「教菩薩法」、「菩薩を教える法」である。

 これを「諸法」、「全てのもの」と呼んで来たので、法華を国土として、霊山も有るし、虚空も有るし、大海も有るし、大地も有る。

 これが、実の相であり、ありのままなのである。

 これが、仏の知見である。

 これが、この世の相は常に住んでいる、と言うのである。

 これが、実のままなのである。

 これが、如来の無限の寿命の量である。

 これは、甚深無量である。

 これが、(常に法華を転じたり法華に転じられたりするという意味で、)「諸行無常」、「全てのものは変化する」なのである。

 これが、法華の三昧である。

 これが、釈迦牟尼仏(の教え)である。

 これが、法華を転じる事であり、法華に転じられる事である。

 これが、「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼を持ち寂滅した妙なる心を持つ事」なのである。

 これが、諸仏が身を現して生者を仏土へ渡し終える事である。

 成仏を予言される「授記」による、仏に成る事を、保持させられ任せられる事が有り、住んで保持する事が有る。


 唐の時代の中国の広南東路の韶州の曹谿山の宝林寺の、三十三祖の大鑑禅師の会に、法達と言う僧が来た。

 法達は自身を称賛して「私は法華経を既に三千回も読んだ」と話した。

 祖師は「たとえ何万回に及んでも、法華経の主旨を会得しないのは、自身のとがを知るにも及ばない」と話した。

 法達は「未だ学ぶべき物が有る人である私は愚鈍で、従来は、ただ、文字に任せて読んでいました。どうして法華経の主旨を明らめる事が私に可能でしょうか? いいえ! 不可能です!」と話した。

 祖師は「あなた、試しに一回、法華経を読んでみなさい。私が、あなたのために法華経を解説しましょう」と話した。

 法達は法華経を読んだ。

 法華経の方便品に至って、祖師は次のように話した。

「法華経の方便品に留まりなさい。

法華経はもとより、ある『因縁』、『理由』による、この世への諸仏(、神の人)の出現を主旨としている。

法華経では、たとえ多くの例えを説いていても、主旨を超える事は無い。

この世への諸仏(、神の人)の出現の『因縁』、『理由』は、何かと言うと、唯一の一大事のためである。

唯一の一大事とは、仏の知見(、神の知見)である。

唯一の一大事とは、仏の知見(、神の知見)を開かせ、示し、悟らせ、入れさせる事である。

仏の知見(、神の知見)を開き、示されたと気づき、悟り、入る事、自体が、仏の知見(、神の知見)である。

既に仏の知見(、神の知見)を持っている人は、既に仏(、神の人)である。

あなたは今、まさに信じなさい。

仏の知見(、神の知見)とは、ただ、(仏、神の人である、)あなたの自らの心である」

 さらに、祖師は詩で次のように話した。

「心が迷えば法華経の主旨に転じられ、心を悟れば法華経の主旨を転じる。

法華経を読む事を久しくしても、自己を明らめなければ、正義に対する敵に成ってしまう。

正義を無意識的に意識する事は正しい。

(いつまでも)正義を意識的に意識する事は誤りである。

意識の有無を共に計らなければ、白い牛の牛車を長く御する事に成ってしまう」

 法達は詩を聞いて祖師に次のように尋ねた。

「法華経には『諸々の大いなる声聞と菩薩の段階の人達が皆、思いを尽くして推測しても、仏の知(、神の知)を量る事はできない』と記されています。

今、祖師は、凡人に、ただ自らの心を悟らせるのを仏の知見(、神の知見)と名づけました。

上等な素質の人でなければ疑い、悪口を言う事を避け難いです。

また、法華経で『三つの車』の例えを説いていますが、『大牛車』と『白牛車』には、どのような区別が有るのでしょうか?

どうか和尚様、再び解説してください」

 祖師は次のように話した。

「法華経の意味は明らかである。

あなたは、自ら迷い、背を向けている。

諸々の『三つの乗り物』の段階の人達が仏の知(、神の知)を量る事ができない憂いの原因は度量に有る。

たとえ諸々の『三つの乗り物』の段階の人達が思いを尽くして共に推測しても、遥か遠くの天に懸かっている月のような仏の知(、神の知)には到達できない。

仏(、神の人)はもとより凡人の為にのみ説き、仏(、神)の為には説かない。

仏(、神の人)は凡人の為にのみ説いている理を信じる事を否定して退いても、『白牛車』に座りながら更に門の外で『三つの車』を求めるような事であると知らない。

法華経の言葉は明らかに、あなたに向かって『(唯一)無二また無三である』と話している。

あなたは、どうして悟らないのですか?

『三つの車』は仮である。

なぜなら、仏の知見(、神の知見)を持つ前だったからである。

『唯一の乗り物』は実である。

なぜなら、今、仏の知見(、神の知見)を持っているからである。

ただ、あなたは、仮の物を過去の物とし、実に帰りなさい。

実に帰れば、実とは名ではない(、存在するものである)。

知りなさい。

存在するものは皆、珍しい宝であり、全て、あなたの物である。

存在するものは、あなたが受用する物である。

さらに、存在するものは父である仏(、父である神)の物である、と思わなくても良い。

また、存在するものは仏の子(、神の子)の物である、と思わなくても良い。

また、存在するものを受用しようと思わなくても受用している。

そして、『存在するもの』を『法華経』と名づけている。

長い時間である劫から劫へ至っても、昼から夜へ至っても、手で法華経を開かなくても、『法華経』と名づけている『存在するもの』の意味を読み取って念頭に置かなくても良い時は無い」

 法達は、啓発を受け、心踊り歓喜し、詩を捧げて称賛して、次のように話した。

「法華経を三千回も読んだが、曹谿山の祖師の一つの詩で忘却した。

この世へ諸仏(、神の人)が出現した主旨を未だ明らめなければ、どうして生を重ねる狂気を止める事ができるであろうか? いいえ! できない!

法華経の『羊の車、鹿の車、牛の車』の例えは仮に設けられている。

法華経の『最初も中間も最後も善い』という言葉をかかげる。

法華経の『火事の家』の中は、元より、法の中の王である、と誰が知っているであろうか?」

 法達が捧げた詩を聞いて、祖師は「あなたは、今から『法華経の意味を読み取って念頭に置く僧』、『念経僧』と名乗りなさい」と話した。


 法達禅師の曹谿山で悟りに参入した因縁は、この様な物であった。

 三十三祖の大鑑禅師以降、法華に転じられる事と法華を転じる事の法華は開演しているのである。

 三十三祖の大鑑禅師以前には、聞いた事が無い。

 実に、仏の知見を明らめられるのは、必ず、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼を持つ」仏祖だけである。

 いたずらに砂や石を数えている様な、霊感が無い文字だけの学者は知る事ができない、という事を、今この法達の従来によっても見る事ができる。

 法華の正しい主旨を明らめるには、祖師の開示が唯一の一大事の因縁であると、究め尽くすべきである。

 祖師以外の他の者に尋ねようとする事なかれ。

 今、法華に転じられる、実の相、実の性質、実体、実の力、実の原因、実の結果が、ありのままである事は、三十三祖の大鑑禅師以前には、中国で未だ聞かない所であるし、未だ存在しない所である。


 法華に転じられる、というのは、心の迷いである。

 心の迷いは法華に転じられる、のである。

 その主旨は、心の迷いが、たとえ(森羅)万象の様に多様でも、迷いという、ありのままの相は、法華に転じられる、のである。

 心の迷いが法華に転じられる事は、喜ぶべきではなく、待ち望むべきではない。

 法華に転じられる事は、得るのではなく、来るのではない。

 けれども、法華に転じられるのは(唯一)無二また無三である。

 唯一の仏乗だけが存在するため、ありのままの相の法華なので、能く転じたり転じられている所であったり、といえども、唯一の仏乗であり、一大事である。

 全くの真心だけが存在するのである。

 だから、心の迷いを恨む事なかれ。

 あなた達の行っている所は全て菩薩の道であり、全ての正しい者がもとより菩薩の道を行っている、のであり、「諸仏を見る」事なのである。

 悟りを開き、示されたと気づき、入る事は皆、各々が法華に転じられた事なのである。

 「法華経」の「火事の家」で心に迷いが有り、当の門で心に迷いが有り、門の外で心に迷いが有り、門の前で心に迷いが有り、門の内で心に迷いが有る。

 心の迷いによって、門の内と外、ないし、当の門や「火事の家」等が形成されて現れるので、「白牛車」の上でも悟りを開き、示されたと気づき、入る事が有るであろう。

 この車上の荘厳として悟りに入る事を承知する時、露地に入っている所であると期待してよいのであろうか? 「火事の家」を出ている所であると認めてよいのであろうか? 当の門は経歴として通過する所であるとだけ究め尽くすべきであろうか?

 まさに知るべきである、車の中に「火事の家」を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 露地に「火事の家」を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 当の門の全門を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 普門の一門を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 悟りを開かせ示し入れさせる各々で、普門を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 門の内を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 門の外を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 「火事の家」で露地を悟りとして開かせ示し入れさせて転じる事も有る。

 このため、「火事の家」も単なる煩悩などとして会得するべきではなく、露地も単なる悟りとして理解するべきではない。

 法の輪が転じている三界を誰が車として一乗としてよいであろうか?

 悟りを開かせ示し入れさせる事を誰が門であるとして出入りしてよいであろうか?

 「火事の家」から外へ車を求める様では、どれだけ輪に転じられてしまうであろうか?

 露地から「火事の家」を望めば、とても深遠なだけである。

 露地で霊山を安穏あんのんとさせていると究め尽くすのであろうか?

 霊山で露地は平坦であると修行するのであろうか?

 全ての生者が遊び楽しんでいる所(である「火事の家」)を「我が清浄な国土は不壊である」と常に存在していて、よいのであろうか? をも明確に詳細に疑う事をもとより行うべきである。

 一心に仏を見る事を欲する者は、自分であると坐禅に参入して究めるのであろうか? 他者であると坐禅に参入して究めるのであろうか?

 分身として悟りという道を成就する時が有り、全身として悟りという道を成就する時が有る。

 共に「霊鷲山」、「霊山」に出現できたのは、身の命を自ら惜しまない事によってである。

 この説法は常に存在するとして悟りを開かせ示し入れさせる事が有る。

 方便として「涅槃」、「寂滅」を現して悟りを開かせ示し入れさせる事が有る。

 仏は近くに遍在するといえども見えさせないのである。そのため、誰が、心一つ次第で会得できたり会得できないのであると信じるであろうか?

 天人が常に充満している所は、釈迦牟尼仏である毘盧遮那の国土である「常寂光土」である。

 自然に「四土」という四種類の世界を備えている我々は、唯一普遍絶対の仏土に居るのである。

 微小なちりを見ている時に、法界を見ていないわけではない、のである。

 法界を証している時に、微小なちりを証していないわけではない、のである。

 諸仏が法界を証している時に、我々を証に存在させていないわけではない、のである。

 諸仏の教えは、最初も中間も最後も善いのである。

 そのため、今も証の、ありのままの相である。

 (「既に仏の知見を持っている人は、既に仏である」という言葉に)驚き疑いを抱き恐れを成すのも、ありのままなのである。

 ただ、それは、仏の知見をもって微小なちりを見るのと、仏の知見無しに微小なちりに坐しているのは、異なるだけなのである。

 仏の知見をもって法界に坐している時は広くなく、仏の知見無しに微小なちりに坐している時は狭くない理由は、仏の知見を保持させられ任せられなければ坐しているべきではないからであり、仏の知見を保持させられ任せられれば広かったり狭かったりで驚いたり疑いを抱いたりしないからである。

 これは、法華の実体、実力を究め尽くしている事によってなのである。

 であれば、我々の今の相と性質では、法界でもとよりおこなっているとしてよいのであろうか? 微小なちりもとよりおこなっているとするべきであろうか?

 驚かず疑いを抱かず恐れを成さず、ただ、法華に転じられる事をもとより行っているのは、深遠長遠であるばかりである。

 微小なちりを見たり、法界を見たりする時に、作為は無く、思い量りも無いのである。

 また、作為するにしても、思い量るにしても、法華の所作を習うべきであり、法華の思い量りを習うべきである。

 「悟りを開かせ示し入れる」と聞いたら、「諸仏は全ての生者に悟りを開かせ示し入れたいと欲している」と聞いたとするべきである。

 仏の知見を開くためには、また、法華に転じられるためには、諸仏が仏の知見を示した通りに習うべきである。

 仏の知見を悟るためには、また、法華に転じられるためには、仏の知見に入った時の様に習うべきである。

 仏の知見を示されたと気づくためには、また、法華に転じられるためには、仏の知見を悟った時の様に習うべきである。

 悟りを開き、示されたと気づき、入る事は、法華に転じられる事であり、各々、究め尽くすための道が有る。

 諸仏、如来の知見に到達する事は、広大深遠な、法華に転じられた事による物なのである。

 成仏を予言される「授記」は、自分が仏の知見を開いた事による物なのである。

 成仏を予言される「授記」や、仏の知見は、他者が授けたわけではないのであり、法華に転じられたのである。

 これが、「心が迷えば法華に転じられる」という言葉の主旨なのである。


 「心を悟れば法華を転じる」というのは、「法華を転じる」という事である。

 法華が我々を転じる力を究め尽くす時に、逆に、自らを転じる、ありのままの力を形成して出現させるのである。

 ありのままの力を形成して出現させる事が、法華を転じる事である。

 従来の転じられている状態は今も止まない、といえども、逆に、自ら法華を転じるのである。

 驢馬ロバの事が未だ終わらないけれども、馬の事が到来するのである。

 諸仏が「この世」に出現している一大事の因縁だけが存在するのである。

 「法華経」の「従地涌出品」で、地からき出た三千大千世界の菩薩達は、久しき法華の大聖尊であるといえども、自らに転じられて地からき出たり、他者に転じられて地からき出たりしたのである。

 ただし、地からだけき出ると知って、法華を転じるべきではない。

 虚空からもき出ると知って、法華を転じるべきである。

 地と虚空からだけではなく、法華からもき出るという仏の知を知るべきである。

 法華の時は、必ず「法華経」の「父は若く、子は老年である」のである。

 子は子であり、父は父である。

 しかし、「父は若く、子は老年である」と習うべきである。

 この世の大衆の不信心を見習って驚く事なかれ。

 この世の大衆が不信心である時は、法華の時である。

 一時、仏が「この世」に住んでいたと知って、法華を転じるべきである。

 諸仏が悟りを開かせ示し入れさせて、転じられて、菩薩達は地からき出たのであり、仏の知見に転じられて菩薩達は地からき出たのである。

 法華を転じる時、法華が心を悟る事が有り、悟った心が法華を悟る事が有る。

 下方と言うのは、空中の事である。

 下とくうとは、法華を転じている事による物なのである。

 仏の寿命の量は無限である。

 仏の無限の寿命、法華、法界、一心は、下とも形成されて出現し、空とも形成されて出現すると知って、法華を転じるべきである。

 そのため、下方をくうと言うのは、法華を転じている事により形成されて出現しているのである。

 この時、法華を転じて「三草」の修行者に成らせる事が有り、法華を転じて「二木」の修行者に成らせる事も有る。

 覚が有るはずである、と待ち望むべきではない。

 覚が無い、と怪しむべきではない。

 自ら転じて無上普遍正覚を発した時は、南方である。

 この仏道の成就は、もとより南方で集会している霊山であり、霊山は必ず法華を転じるのである。

 虚空で集会している十方の仏土が有り、これは法華を転じる事の分身である。

 十方の仏土であると知って、法華を転じていると、一つも微塵も入るべき所が無い。

 「色即是空」が法華を転じる事が有り、如来の実のままの相は「この世」から退いたり「この世」に出現する事は無いのである。

 「空即是色」が法華を転じる事が有り、如来の実のままの相には「この世」での生死は無いのである。

 「如来(の実体)が、この世に存在する」と言うべきではなく、「如来(の実体)が、この世で滅んだ」と言うべきではない、だけではないのである。

 如来が私と親友である時は、私も如来と親友なのである。

 如来は、親友への礼に勤める事を忘れていないから、髪の中に宝玉をも隠し与えておき、衣の裏に宝玉をも隠し与えておいた時期が、いつなのか、(「最初」からなのか、)よくよく究め尽くすべきである。

 仏の前に宝塔が存在する、法華を転じる事が有る。

 宝塔の高さは五百由旬である。

 宝塔の中に仏が坐禅している、法華を転じる事が有る。

 宝塔の広さの量は二百五十由旬である。

 地からき出てくうの中に住んで存在する、法華を転じる事が有り、心でも触れられず、色としても触れられない。

 くうからき出て地の中に住んで存在する、法華を転じる事が有り、目にも触れて見えるし、身でも触れられる。

 宝塔の中に霊山がある。

 霊山に宝塔がある。

 宝塔は虚空を宝塔にするし、虚空は宝塔を虚空にする。

 宝塔の中の古代の仏は座を霊山の仏に並べ、霊山の仏は証を宝塔の中の仏に証する。

 霊山の仏が宝塔の中へ証として入るには、霊山の報いとしての依り所である環境と正体である心と身のまま、法華を転じる事に入るのである。

 宝塔の中の仏が霊山にき出るには、古代の仏土のまま、肉体が滅んで久しいまま、き出るのである。

 き出る事も、転じる事に入る事も、凡人や「二つの乗り物」の段階の人に習わず、法華を転じる事を学ぶべきである。

 肉体が滅んで久しい事は、仏の上に備わっている証の荘厳である。

 宝塔の中と仏の前、宝塔と虚空は、霊山ではなく、法界ではなく、半分ではなく、全体ではなく、法の位だけに関わっているのではなく、「非思量」、「思い量れないのではなどと思い量らずに思い量る」だけである。

 仏の身を現して人のために法を説いたり、この世での身を現して人のために法を説いたりする、法華を転じる事が有る。

 (仏が近くで教えてあげたのに、裏切った邪悪な)提婆達多デーヴァダッタを現在は形成している、法華を転じる事が有る。

 法華経を説く前に、退席するのもまた善い連中を現在は形成している、法華を転じる事が有る。

 仏が法華経を説くのを合掌し仰ぎ見て聞いて待つ時間は、必ず六十小劫であると思い量る事なかれ。

 一心に待つ量を要約して、無量劫と言っていても、仏の知を測り知る事は不可能である。

 待っている一心を、どれだけの、仏の知の量とすればよいのであろうか?

 法華を転じる事とは、全ての正しい者がもとより菩薩の道をおこなっている事だけであると認める事なかれ。

 「法華経」が説かれている一座の所で「今日、如来は大乗を説く」と記されている、法華を転じる功徳が有るのである。

 法華が今でも法華である事は、覚できず知る事ができないけれども、理解できていないだけであり、会得できていないだけなのである。

 五百塵点の量は毛一つ分ばかりである、法華を転じる事が有り、全くの真心から、仏の寿命の様に無限に、開演されているのである。

 中国に「法華経」が伝わり、法華を転じてから、今までの数百年、注釈を作る輩は多いし、「法華経」によって上の人の法を得る者もいるが、今、我々の高祖である、曹谿山の、古代の仏と等しい、三十三祖の大鑑禅師の様に、法華に転じられる事の主旨を得た人はいないし、法華を転じる事の主旨を使った人もいない。

 今これを聞き、今これに出会うのは、古代の仏が古代の仏に出会う所に出くわしたのであり、ここは古代の仏の仏土ではないであろうか?

 喜ぶべきである。

 劫から劫へ至っても法華であり、昼から夜へ至っても法華である。

 劫から劫へ至っても法華であるため、昼から夜へ至っても法華なのである。

 たとえ、自分の身心が強く成ったり弱く成ったりしても、法華である。

 あらゆる、ありのままの存在するものは、珍しい宝であり、光明であり、道場であり、広大深遠であり、深大久遠である。

 心が迷えば法華に転じられ、心を悟れば法華を転じるのは、実に、法華が法華を転じるのである。

 心が迷えば法華に転じられ、心を悟れば法華を転じる。

 ありのままの存在するものを能く究め尽くせば、法華が法華を転じる。

 この様に、捧げものを捧げ、うやうやしく敬い、尊重し、たたえて感心するのは、法華が法華であるのである。


 正法眼蔵 法華転法華


 千二百四十一年の夏、「正法眼蔵」の「法華転法華」を書いて慧達禅人に授けた。

 慧達禅人が出家して仏道を修行している事に喜びを感じたからである。

 ただひげと髪をるだけでも、好ましい事である。

 髪をり、また、髪をる者は、真の出家者、仏の子である。

 今日の出家は、従来の法華を転じる、ありのままの力による、ありのままの果報である。

 今の法華は、必ず、法華(という原因)による、法華という結果が有るであろう。

 釈迦牟尼仏の法華ではなく、諸仏の法華ではなく、法華の法華である。

 日頃の法華を転じている事は、ありのままの相も、覚できず、知る事ができない。

 けれども、今の法華は、理解できていないだけで、会得できていないだけで、あらわれる。

 昔の時も呼吸の様な物であり、今の時も呼吸の様な物である。

 これを、妙なる、思い難い、法華と保持させられ任せられるべきである。


 開山観音導利興聖宝林寺で、かつて宋の時代の中国に入り、仏法を伝えている沙門である道元が記した。

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