第19話 こちらこそ、ありがとう
今日もカフェ『ルージュ』の仕事を終えて翡翠くんと一緒に帰る道。
こうして一緒に付き添ってもらうことは、最初から計画通りだったけれど、それでも彼の温かみが身に染みる。
それに、彼の顔だって近くで見ると、端正な顔立ちをしているのがよくわかる。
きっと男性アイドルとして売り出せば、顔立ちだけでそこそこいけると思うのは、けして私が色眼鏡をかけて見ているからではない。
今日は翡翠くんの……特別なお話を聞いたと思っている。
『結婚の約束』に固執してほしくなくて、強引なことを言ってしまったかもしれない。
なのに彼は怒るどころか、感謝までしてくれて――。
(私の方こそ、ありがとうなんですよね)
林間学校の登山で彼が言った台詞を頭の中で反芻させる。
どこかで自分にストッパーをかけて、クールぶっていたのは……本当だった。
それも、前世からずっと。
私が所属しているアイドルグループ『ハニーリング』はリーダーの考案でキャラ付けというものがされている。
それは日常生活であっても厳しく守るべきアイデンティティであり、前世からずっと自分に課していた設定。
(それでも翡翠くんは、ちゃんと私を見ようとしてくれました)
なんて幸せなことなのだろう。
彼の少し怒った表情なんて、初めて見た。
おかげで当初の計画になかった、「風登水萌」として接点を持つことさえできた。
本当は今すぐにでも、この腕をギュッと抱きしめたい。
だけど、我慢している。
(これで前世の翡翠くんが女子からの告白を避け続けていたことにも、納得できました)
幼馴染の存在と「結婚の約束」をしているという話を聞いて、ピンときた。
あんな話……前世で彼の恋人だった深雪からも聞いたことがない。
(みぃちゃん……ようやく糸口を見つけました。翡翠くんの『意中の相手』――その正体)
彼の高校生以降の話は、彼と同じ大学へ進んだ深雪によって随時情報を仕入れていた。
だから中学時代以前に対して、盲点だった。
とりあえず……彼自身も相手が誰なのか憶えていないのは幸か不幸か。
高校三年間で彼の再会は叶わない。
前世とどんなに些細な違いがあったとしても、出会う人までは変わらないだろうから。
だから……今は私が翡翠くんを独占しても、誰も文句を言えない。
いや――言わせてやらない。
「かぁ~っ、若いもんは遊んでばっかだなぁおい! うっへぇ……げぼっ」
愛しの翡翠くんと幸せな帰り道。
そんな幸せな時間を汚す声がした。
対面上に歩いている五十代くらいのおじさんは、明らかに酔っ払っていた。
「…………ッ」
――酔っ払い。
それには嫌な思い出しかない。
前世で……あの男が酒に溺れながら私に投げかけた言葉は、呪いのように憶えている。
今も残っている恐怖を思い出し、吐き出しそうな酔っ払いの姿を見て、吐き気が写った。
そんな弱い自分に、更に吐き気がする。
「無視しようか」
「……ですね」
翡翠くんは自然と私の手を握って、早歩きで酔っ払いの横を通り過ぎていった。
少し遠回りになってしまうが、すぐに角を曲がってくれる。
そうして追いかけられない距離まで一直線に歩き続けて、やがて止まった。
「大丈夫か? 身体が震えてる」
「ごめんなさい、私……酒臭さが苦手みたいで」
そう言うと、翡翠くんは何も言わず私の背中をそっと撫でてくれる。
落ち着かせようとしてくれているんだろう。
以前のナンパとは違い、本当に恐怖を覚えてしまったらしく、彼の手はとても優しく感じた。
(まだ気持ち悪いですけど……今の状態は最高ですね)
こう考えてしまうのが、私の悪癖であることは知っている。
登山で彼に言われた通りだとも。
しかし、それでも欲望が勝ってしまう。
――仕方ないだろう。
(私はどうしようもなく翡翠くんのことが好きなんですから)
彼のこういった優しさ、そして格好良さに……毎日のように惹かれている。
彼の優しさが別の誰かに向けられるのは本当に嫌だし、独り占めしたい。
少なくとも私は二人分受け取っているけど、もっと欲してしまう。
意識した瞬間、私は遂に欲望を抑えきれなくなった。
「残りの帰り道だけでいいので、こうしていていいですか……?」
翡翠くんの腕にギュッと抱き着いて、気付かれないように頬ずりをする。
「どうぞ。それで安心するなら、腕くらいいくらでも貸すよ」
「ふふっ、ありがとうございます」
本当になんて彼は素敵なのだろうか。
私は幸せ者に違いない。
ズルい私はニヤケた顔を決して彼には見せないようにする。
いつもより少し遠回りの帰り道。
十分ほど長くなった帰り道を堪能したのだった。
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