第10話 わぁーい、私の勝ちっ!

 口約束であってもしてしまった以上、いまさら林間学校に行きたくないとは言えない。

 しかし後悔があるとすれば――。


「どうしたんですかぁ? 浮かない顔ですね」


 南さんが不思議そうに首を傾げる。

 カフェ『ルージュ』にはほぼ毎日通っており、今や俺の日課……ルーティンと化していた。

 それが、一泊とはいえ向かう時間を考えると、このカフェに二日行かないこととなる。


「実は今度の週末、学校のオリエンテーションで合宿に行くことになったんですよ。だから土日はここに来れません」


 すると南さんはなぜか目を丸くして、次にはまたニヤリと笑う。


「んふふ、そんなに名残りそうに言うってことは、ここのカフェが恋しいってことですよね〜?」

「コーヒーは絶品ですよ」


 豆が良いのはさることながら、南さんが淹れてくれるコーヒーには身にみる温かさがある。

 彼女とこうして話しているだけでも肩の力が抜けてくるし、ここは俺にとって憩いの場だ。


「ほんと翡翠くんは口が上手いですねぇ。サービスにもう一杯どうぞ〜」


 空っぽになった俺のマグカップを手に取って、一から入れ直してくれる。

 ここのおかわりは元々半額だが、サービスしてくれるなら遠慮しない。

 二日来れないと決まっただけで、今のうちに飲んでおきたい気持ちになったのである。


「やっぱりいいな。ここは」


 ボソッと独り言が零れた。

 気付けばいつもこのカフェに居着いている。

 実は気づかぬ間にホームシックにでもなっているのかと心配するくらいだ。

 今日の店内には俺と南さんだけだし、こういう日は特にリラックスできる。

 そんなことを考えながらコーヒーを置くと、目の前には俺をまじまじと見てくる南さんの顔。


「……翡翠くんって普段タメ口なんですか?」

「えっ? ああ、はい。流石に南さん相手には使いませんけど」


 まあ日頃は、もっと楽な口調かもしれない。

 だけどここのカフェで疲れる事なんてないし、敬語一つで無理をしている訳じゃない。

 南さんには日頃お世話になっているし、俺がそうしたいのだ。


「ど、どうして私には敬語なんですかぁ……!? 楽に話してくださいよーっ」

「子供っぽく言っても、嫌です。南さんは尊敬している先輩ですから」


 勉強や物知りな点。

 そして毎日のようにバイトしている姿を見れば、尊敬しないわけにはいかなかった。

 彼女のことを本当にすごい人だと思っている。


「むぅ、むむっ……仕方ありませんね。私の敗北です」


 毅然とした態度を見せていると、南さんはすんなり折れてくれる。

 しかし――。


「でも、タメ口にしなきゃ許しませんっ!」

「えぇ!?」


 敗北を認めたのに、ダメなのか……。

 南さんらしくない横暴な態度に、どうすればいいのかわからなくなってしまう。


「不思議そうな顔しちゃって~~……私が敗北したのは、翡翠くんの勘違いを正すために本当の事を言わなければいけないからです」


 本当のこと? 一体何だろう。

 俺に勘違いがあるというのも、どの点を指しているのかわからない。

 すると南さんは、自身の胸に手を当て宣言した。


「私は翡翠くんと同じ高校一年生なのです! なので、敬語は許しませんっ」


 秘密主義の南さんが、今まで教えてくれなかった事を教えてくれた。

 俺は完全に南さんが上級生だと思っていたので、そこそこ衝撃的だ。


 同時に同じ高校に通っていない事は確定してしまったのは、やはり残念と言わざるを得ない。

 頭の良い南さんが高渓で同級生ならば確実にAクラスになるだろうけど、あの中に南さんの姿はなかったのだから。


「あの……」

「何ですか、翡翠くん。これに限って不平不満はぜーったい受け付けませんよ〜?」


 ――そうじゃなくて。


「俺がタメ口で話すのはわかった。でも、なんで同い年の南さんは敬語のままなんだろうって」


 そうじゃないと公平じゃないと思う。

 同い年なのだと言い出したのは南さんなのだし、文句は言えないはずだ。

 しかし彼女は余裕の表情で、こちらを見た。


「そんなの私がこのカフェの店員さんだからに決まっているじゃないですか〜。お客様には敬語で接しないといけませんので~」


 ドヤ顔を浮かべる南さん。

 それはそうかもしれないけど、カフェ『ルージュ』は立地のせいか客が少ない。

 今のような二人きりの時はお互いタメ口でも良いのではないかと思うのだが……。


「というより、こういう話し方が楽なだけですけどね。翡翠くんの場合は、そっちが素じゃないですか。そこは治してもらわないと私も困っちゃいます」


 そう言われてしまうと、何も言い返せない。

 本当か嘘かはわからないけど、普段から幸せそうになる笑う南さんのことだ。

 きっと……そうなのだろう。


「わかったよ。じゃあそっちは今まで通りで」

「わぁーい、私の勝ちっ! わぁ翡翠くん今どんな気持ち〜?」

「…………」


 不敵に微笑む南さん。

 彼女の方はどうしても敬語で話したいと言ったくせに……俺が認めた瞬間、初めて聞くタメ口で煽ってきた。

 結局のところ、俺は彼女に翻弄されっぱなしだったということらしい。


 本当に同い年なのか、疑わしいくらいだ。

 南さんには色んな面で敵う気がしない。


「でも仕方ありませんねぇ。翡翠くんの性癖ですもんね〜。あっ、メイドカフェにするようオーナーに打診してもいいですよ? ご主人様の為に精一杯頑張りますっ」


 何を言うかと思えば……。


「オーナーさん困っちゃうだろ。南さんの言い分には納得したから勘弁してくれ」


 カフェ『ルージュ』にはほぼ毎日通っているがオーナーさんらしき人物はいつもいない。

 ただ南さんほどの愛嬌でお願いされれば、どんな気難しいお爺さんでも簡単に説得できそうだ。

 なので、冗談であっても控える。


「わかれば良いのですっ、ドンッ!」


 そう言って再び自分の胸を叩く南さん。

 彼女の胸が揺れる部分に目がいかないように、そっと逸らした。

 この人は偶に無意識ながら俺をドキドキさせてくるから、本当に困る。

 だけど、そんな日常がやっぱり楽しい。


 ますます合宿なんかに行くと約束してしまった事を後悔した。

 まあ……これも経験として考えておこう。

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