【227】

 つまりこれは翻訳であり、日本語にすると意味不明だ。日本語にするのでもちろんそれぞれの単語の意味はわかるが、文章としては不可解であり、小説としては台無しである。遠い辺境の星で、ここ数光年に渡って画期的な大ベストセラーとなったそれを、邦訳することになったのが僕であるが、自分でもそろそろ何を書いているのかわからない。あまりにも意味がわからなさすぎて、何度も辞書を引き直す。

 つまりこれは地球においてはなかなか理解しがたい感性を綴った物語であり、日本語にはない機能をもった言語で書かれてこそ効果を発揮するもので、地球産の小説とは異なる。連続しない。起承転結のない。登場人物がようやく現れたかと思ったら話が終わる。書きかけの原稿を寄せ集めて無理矢理一本の小説にまとめたような、なんとも言えない食感。ボソボソのハンバーグ。むしろ挽き肉と玉ねぎ炒め。よそで売れたならうちでも売れるだろうと踏んだ出版社の考えを、つい浅はかだと馬鹿にしたくなる。

 翻訳者は小説家ではないが、それでも訳しているうちに、あ、これは売れるな、とか、これはあんまりよくないな、とかがなんとなくわかる。実際その通りになるので、野生の勘とも言うべきか、或いは、長年の経験に基づくなんらかのなにではあるのだろうが、いずれにせよ、さすがにこれはいただけないな、と僕は思う。話題性で、ある程度売れはするだろう。研究として買う団体も出てくるだろう。それでも最初の一頁すら読めずに終わる類いの話の運びであるし、真面目な言語学者でさえ匙を投げて、これは邦訳が悪いと言いそうな代物だ。僕は忠実に訳しています。ええ。

 恐ろしいのは、僕にしか翻訳出来ないということだ。つまり、誰も間違いを指摘出来ない。I love you 《月が綺麗ですね》はまだいいが、



 実にありがとうお前はくたばれ《こんな奇跡は今までなかった阿呆な事をよくぞしてくれた》

 


 このような事態をわざと引き起こすことも可能であり、単語がぽんぽんと並ぶ言語を文章にまとめるのは至難の技だ。

 連続しない。脈絡のない。スパーク。点描画。花。火。花と火が並んだらつまりこれは花火であり、植物についての文節ではない。ラーメンのスープの表面上に浮いた脂を箸で繋げるがごとく、僕は作業をちまちまと進めていく。直訳から意訳へ。超訳にならぬよう、細心の注意を払いながら。子供の頃から内向的な性格だったのが幸いした。長時間の一人作業は気にならず、寂しいと病むことがない。孤独は、集団を認識したときに生まれ、あんたこれは一体どういうつもりでここをこんな風に訳したんですかと言われると凄く困る。訳そうと思って訳しましたとしか言いようがない。そうすると今度は相手が困ってしまって、上手く伝えられぬことを悔いては、ああ僕は孤独だと心のなかで嘆く。

 昔、テレビの画面にじっと額をへばりつけて、光の三原色を不思議がったことを思い出す。最終話で全てが繋がるオムニバスの仕様を期待する。翻訳の自由なところはどこから訳してもいいのであり、全文訳し終えたあとに修正することが出来る点だ。滅多にしないことだが、後ろから訳してみる。まったくもって意味不明な日本語がこちらに出来上がる。ある程度まとまったので訳文を最初から読んでみる。わかるようでわからない。まだ主題が見えないのだから仕方ない。小説の中盤あたりにメスを入れてみる。同じ作業を繰り返す。読んでみる。やはりわけがわからない。これじゃまるで知らない機械の取り扱い説明書だ。ごくたまに見かける、異国の商品に書かれた下手な日本語だ。レジュボンダを押してグーグリッドを回してください。対面を保つ場合は行程①へ、ネジが余った場合はオプション説明の欄へ進んでください。夜更けのカニバリズムに最適な紫色の液体が、支払期限の切れたの公共料金みたく心の隅に重く沈殿しても、昨日は昨日です。たまに今日なこともありますが、品質にはなnら問題がなぃのデ安心Uてお召U上り下ちぃ。非常に高度な文明のクッキー。なつかしい! 漂白剤!

  丁寧に冒頭から訳してもさっぱりで、全体が訳せればさすがに何か理解出来るはず、と僕は甘ったるいカフェオレに心を落ち着かせながら、また作業に取りかかる。さっきのは象の耳。さっきのは象の鼻。これは角《ツノ》。…………角?

 麻生田から電話がかかってくる。僕が飲み会に来なくなったのは自分に会いたくないからだと由美子ちゃんが悲しんでいると麻生田は言う。その翻訳は間違っている。解釈違いに僕は憤然とする。

「仕事が忙しいんだよ」

「一晩くらい来れるだろ。自由業なんだからさ」

「あの女、自分がいろんな男にちやほやされたいだけだろ」

「そうだな」

「そんなの、胡麻虫から胡麻を取るようなもんだ」

「ええ、なに?」

 おっと。

 なんでもない、と言って、本当に仕事が忙しいことを説明する。机の上にモソモソ歩く胡麻虫を、指で潰してティッシュペーパーで拭き取る。窓を開けて空気の入れ換えをしながら、肌色《紺色》の夜空を眺め、今夜も花《星》が綺麗だと和む。

「男同士の飲み会なら、行くんだがなあ《あなたには会うし誘いも素直に嬉しい》」

「ははは。そんなんだからお前はモテないんだぜ《理解。からかいをこめて長年の友情を表現する》」

 しばらくして電話を切り、僕はまた文字を別の文字にしていく。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る