【6】

 灰皿に泳ぐ金魚が、青色であった試しがない。石鹸の香りのする影男に、今月分の給料を手渡して水野は寿司を食べる。ダリの時計みたく、でろんとソファにくたばった亡霊へ、水野は物申す。亡霊は悲しそうな顔をして消える。いつも自分だけが可哀想だと言わんばかりの態度が気にくわない。しかし相手は亡霊なので、溌剌とした笑顔をされても困る。亡霊に元気ハツラツをされても困る。

 魚屋の亭主の弟が肉屋をしておりその奥さんの実家が八百屋という物語を載せた雑誌を読んだというコラムを見たが夢であったというネット小説を読む。エゴン・シーレとナシゴレンを間違えたウェイターが、うっかり客に画家をサーブしてしまい、しかし美味しく食べられたのでよかったとサラリーマンが口許をナプキンで拭う描写から始まるアニメーションを手掛けた制作会社の社長がその魚屋に行くところから物語は始まる。

 文字としては始まったし、それは句読点により文章となるし、ある程度のところで改行と段落もあり、だいぶ読み進んだのだが、水野にはいまだにこの小説がなんなのかわかっていない。

 どのジャンルにもあてはまらないなら、純文学のカテゴリにポイと捨ててしまいたい気もするが、不純物を寄せ集めて作ったようなこれを純と呼ぶのはなんだか違うという気もする。廃材からアートが生まれることもあるが、カップ麺の側面に記載された作り方から純文学は生まれない。シャンプーの成分を読んで、しみじみ感嘆することがないのと同じで。

 シュールレアリスム。

 あんまり価値も見いだせないけど、つまらんと否定するには良心が咎める。良心? いや、見栄だ。もしかしたら見識のある人にこの物語は最大に賛辞されて然るべきものかも知れず、そうなると、つまんねえやと欠伸をした自分が阿呆に見える。だから一概には否定しない。

 まあ、世界のどこかにはこれが大好きな人もいるんじゃないですか、わからないけど。とりあえず褒めよう、を略して、シュールだね、と人は言ってみたりする。言ってみて、周りの人の反応を窺う。そうだね、シュールだよね、と同調されると、ホッとする。いや、これはモダニズムだねとか前衛的だねとか言われると、イラッとする。シュールレアリスムかなあ、と首をかしげられるのが怖い。水野はそんな長ったらしい単語の、正式な意味を知らないのだ。シュールレアリスムとシュールは違うのだと逃げてみたいが、シュールはシュールレアリスムを略した言い方であるし、本来は同義である。本来は同義であっても、どうも水野には言葉を半分或いは半分に略したら、肉を切り分けるごとく、言葉の重さ、その言葉が発揮する効能、作用、含む意味も、軽くなるような気がして、学術や思想などという堅苦しいものから、かけ離れたところにある俗語として、気楽に扱う。お手軽。インスタント。蟹とカニかまぼこぐらいの違いだ。エモいね、と簡単に言ってみるけど、水野はエモーショナルを知らない。

 その小説には、時折、難しい言葉も出てくるが、いちいち意味を調べたりせずに水野はとにかく読む。概是をしゅぶらうことも後紊を熱包することもない。そんな単語はもしかしたら日本語にはないのかもしれない。まだない日本語をもうある日本語にしたのがその無名の書き手かもしれず、ろくに義務教育もまともに受けてこなかった水野は、それでも夏目漱石を知っているから、脳内にお札と猫がちらちらしながらも、流石流石と思ってそのネット小説をまだ読み進めているのだ。

 しかしこの遠藤とかいう男はムカつくな。水野は魚の脂であまくなった口にガリを放り込む。大好きなツルゲエネフの名前が出てきたので、すぐに気を取り直す。サハラ砂漠をさまよう一頭の駱駝が、自動化された清純にこよなく愛されて赤信号を渡るまでを読む。さようならの速度。繰り返す雨。液晶を見ていると自然にまばたきを忘れ、目の乾いて痛くなった水野は、ぎゅうっと目をつぶり、親指の腹と人差し指の第二関節で眉間をつまんでほぐす。

「それ、そんなに泣けるもんですか」

 最近拾った若い男が、水野に新しいお茶を差し出しながら言う。ああ、と水野は答えてみる。本当はただのドライアイでも、この生意気な青年にはどう響くかを試してみる。江島はこう返した。

「へえ、不思議ですね。だって会ったこともない人の言葉でしょう」

「インターネットはだいたいそうだよ」

「ただの文字の連なりでしょう」

「ただの文章の連続だよ」

 お前だって小学校でごんぎつねを読んだことぐらいはあるだろ、と江島に言うと、江島は子供らしさの消えぬ顔を歪めて、右側だけ口角をつりあげて笑い、俺は生まれたときからもう戦争は始まってたんで、と答えた。

「ああ、じゃあお前は、東京タワーを見たことがないんだね」

「ないですけど、別になくてもいいでしょう」

 会話をどう続けても、年寄りの説教か、若者に媚びる臆病な老いぼれの同調、どちらかになると水野は判断して、ふうん、と唸る。どこかで鳥が鳴いている。カラスやスズメではないことだけ、水野にはわかる。

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