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 さようならの速度を計算する数学者があり、一度も作品を書いたことのない小説家がある。ピアノしか出来ないヴァイオリニスト、喋らない落語家、割れない卵、駱駝ラクダの皮を被った兎、天才詐欺師のためのエチュード、機械的な輪ゴム、こんなところにそんなもの。

 小説にうっかり意味を求めてしまって、期待外れにがっかりするあなた。魅力的な登場人物、意外な展開、ときめき、謎、教訓、切なさ、笑い、痛感、いや、感動も欲しいと、あれこれ求めては、求めすぎてさまよって変にいじけてこじれて、これじゃまるで、条件に合う人など見つからないで、ガッカリして帰るお見合いパーティーのようだ。解散。

 不貞腐ふてくされたあなたは、もう本など読まないと決めるが、その決心は、土曜の午後にはあっさり揺らぐ。寂しさ。ようは暇なのだ。

 本屋の平台に並べられた、装丁だけは可愛らしい文庫本に、こんなんでいいやと、半ば自棄になりながらそれを手に取る。有能な編集者の書いたあらすじを読んでも、ピンと来ない。ナニナニ賞受賞と胸を張られても困る。有名な他の作家や、俳優からの推薦文が帯にデカデカと踊っている。

 あなたは、なんだか急に大きく息を吸い込みたくなる。胸いっぱいに吸ったので当然吐き出される量も多く、自然と深い溜息になってしまう。なんでもいいと開き直りながら、なんでもいいはずがなく、二、三時間は小説のコーナーをうろつく。

 人生をひっくり返すような出会いを求めている。

 理想は、平台に積まれるようなものでなく、棚にたった一冊、その作家の本があるとよい。棚卸しのときにうっかり取り除くのを忘れられてしまったような、もしかしたら開店当初からそこにいたのに、店員さえ見逃すほどの存在感で、きっとどのお客さんもその本を棚から抜いてみようともしなかったぐらいの、薄いとは思わないけど、分厚くもない文庫本。タイトルが気になって、試しに棚から引き抜いて冒頭を読んでみる。二、三行。もうそれだけで天啓、雷鳴、萌芽、あらゆる衝撃。東京駅でうっかり爆弾を見つけてしまったときより緊張し、上司が溺愛しているチワワを、うっかり誤って蹴飛ばしてしまったときより背中に汗をかき、すぐそこの時代小説の棚を吟味している、脂ぎったおじさんのパンティが、女物でレースでショッキングピンクだったことにうっかり気づいてしまったような心持ちで、しばし固まる。駄目だ、これ以上先をここで読んではいけない。

 連続のうっかりに、いかに自分の脳が、普段から極小な世界しか認識していないかを思いつつ、なに食わぬ顔していそいそとレジに並ぶ。早くカバーをつけてください。誰にも見られぬことのないように。

 理想は理想だ。現実ではない。

 夢の中で美味しいケーキを食べる寸前で目覚めたときのような悔しさを微かに感じながら、あなたはまた目の前の棚をいちから精査する。有名どころは好きではない。映像化されるような作品も苦手だ。欲しいのは押しつけられる興奮ではなく、自分だからこそ見いだせる価値だ。

 そのうち足と腰が疲れてきて、なんかもういっそ漫画とか買って誤魔化しちゃおうかなとすら思う。そして仕方なく、買ってよと言わんばかりの艶やかな若い表紙を手に取る。

 だいたいそうやって適当に選んだ本には、一度の時間を許し、二度はなく、年末の大掃除のときに、なんでこんなもん買ったんだろうと、己の散財を悔いる。こんなもんを集めてこんなもんらにして、段ボールに積めてブックオフへ。

 税抜600円。この作家にはどれだけの収益が入るのだろうと想像する。売れると踏んだから本は売られるのであり、誰かが買うと予想したから本屋にこれは置かれた。そして今、あなたの手元に一冊ある。あなたは想像する。他に誰が、この本を読んだのだろうか。自分のような物好きが、全国にどのくらいいるのか。果たしてこの作家が、やがてメディアにもてはやされることはあるのだろうか。稼げるのか? 600円。アルバイトの時給だってもっと高い。

 たまに行くカフェのカプチーノは同じ税抜600円。あれは儲かっている。チェーン店だから。駅前だから。他にメニューも豊富だし。

「もう少し肩の力を抜いたらどうですか」

 町屋があなたに言う。よく彼は小綺麗な白いシャツを着ているので、その胡散臭い清潔感に、あなたはどうしてもときめいてしまうし、大嫌いだ。大嫌いなのは単純な自分なのか、それとも、彼が自分が他人からどう見えるのかをわかっていて、そんな清純な服を選んで会社に着てくることなのか、あなたにはまだわからない。分析の必要を感じないので、わからないままを継続している。

「婚活は本を選ぶときみたいにはいきませんよ」

 年下のくせに説教すんなよ、とあなたは思う。思うだけで言わないでいると、町屋がぐいぐい訊いてくる。

「結婚相手の条件は?」

「うちで空豆茹でてくれる人」

「好きなんですか? 空豆」

「嫌い」

 町屋の整った顔が崩れるのを見て、顔のいい人は怪訝を綺麗に楷書で表せるのだなと思う。はねとはらいが完璧だ。

「どういう心理ですか?」

 聞かれても困る。

「言語化出来たらそれはもう恋じゃないと思うの」

「恋したいんですか? 結婚ではなく」

「多少のときめきは必要でしょう」

 なるほど、と町屋が頷いたので、あなたはほっとする。仕事でない会話の際にあなたはあまり考えず、耳と口を使う。こういう音がきたら、こういう音で返す。挨拶。テニスのラリー。右手がハ長調なら左手もハ長調であり、ヘ短調はあり得ない。あとから自分の言ったことを思い返しては、あれはどういう意味だったのだろうと思う。恋、か。随分と乙女なことを言い出したものだ。

 何一つ恥のない青が好きだ。水色ではなく緑でもなく、青。紺色を冷やして固めて薄くスライスして透き通ったそれがじんわり溶けだしたときの青が好きだ。今日はそんなスカートを履いている。膝から下がアシンメトリーになっており、フレアがふんわりと広がる。動くたびに裏地の山吹色が見える。派手だなとは思うけど派手な服が好きだ。それが自分に最適かどうかは別として。そういえば私も今日は白いシャツだったと、あなたはふと気付く。

「僕が茹でましょうか」

「それって何か意味あります?」

「意味っていうのは成果物ですか。利益ですか。理由ですか」

 あ、雨の音だ。町屋の問いに考えるふりをして音を感じる。実際に雨が降っているわけではなく、彼が今問い詰めるように私に浴びせた言葉と視線と熱気が、夏の雨のようだとあなたは感じたのだ。さて、この音には何を返す。雨が降っているなら傘をささなければいけないが、これは室内で聴いているから安全だ。土曜の早朝。はめ殺しの大きい窓ガラスの、その冷たさ。外はほのかに青く、薄暗く、アラームが鳴るまでにまだ時間もある。朝から天気の悪い日に、出勤しなくていい喜びを感じながら再びベッドへ戻る。湿って停滞する空気。

「あなたとはハーゲンダッツが食べたいです」

 出来れば適切に溶けかかったバニラがいい。

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