第4部
第1話:新入生勧誘期間
ルナがレオナード教国を拳で消し飛ばした日から一夜明け――時刻は午前八時三十分。
「……」
聖女学院の制服を着た彼女は、砂糖とミルクたっぷりの『お子様紅茶』を飲みながら、今朝の新聞に目を通す。
■伝説の聖女パーティ『大剣士』ゼル様の生存確認!
■突如現れたゼル様が、聖王国の樹立を宣言! 背後には聖女様とシルバーの影も!?
■タムール砂漠に出現した謎の超巨大クレーター! レオナード教国の魔法実験が失敗か!?
ヘッドラインには、昨日の一件がデカデカと載っていた。
(……どうしよう、思ったよりも凄い騒ぎになってる……っ)
ルナが青い顔をしていると、朝支度を済ませたローがやってくる。
「ルナ様、そろそろ登校する時間です。お忘れ物はないですか?」
「うん、大丈夫」
「では、参りましょう」
学生寮から本校舎までの短い道中、
(はぁ……なんか大変なことになっちゃったなぁ……)
ルナはため息をつきながら、昨日の一件を思い返す。
ゼルが聖王国樹立の宣言をした後、スペディオ領では
四大国の
そんな中、オウル・レイオス・カースの三人は、宿屋をキャンセルし、王都への帰路に就こうとしていた。
【それじゃシルバー、予定よりもちょっと早いけど、ボクたちはもう行くよ】
【スペディオ領の独立、聖女様を頂点とした聖王国の樹立……大至急ニルヴァさんに報告する必要があるのでな】
【嫌やぁ! ボクもう疲れて動かれへん! 今日は大人しく一泊して、明日ゆっくり帰りましょうや!】
泣き
おそらく今頃は
(……聖王国、か……)
あくまで現時点において――ルナはあまり乗り気じゃなかった。
わざわざ国を造る意味を、その必要性を感じていないのだ。
(ゼル、本気なのかな? ……あの感じはきっと本気だよね……)
聖王国の建国宣言が為された後のやり取りを思い返す。
【ゼル、さっきのアレはどういうつもり!? 私、国を造るなんて聞いてないよ!?】
【聖女様、この
彼はその場で
(本人は
この主人にして、この忠臣あり。
ルナとゼルはお互いのことを「抜けたところがある」と認識していた。
「――ルナ様、大丈夫ですか?」
「えっ……あっうん、どうしたの、ロー?」
「先ほどから『心ここに在らず』という感じでしたので、お声掛けさせていただきました」
「あー、ごめん。ちょっと考え事をしてたんだ」
ルナが誤魔化し笑いを浮かべてそう言うと、ローは驚いたように目をパチクリと開く。
「ルナ様が考え事……珍しいこともあるものですね」
「……ローって、たまに失礼なことを言うよね」
「申し訳ございません、つい本音が出てしまいました」
「それ、絶対に謝ってないよね!?」
そんな話をしているうちに一年C組の教室に到着。
やはりというかなんというか、クラスでの話題は『例の事件』のことばかりだった。
「ねぇねぇ、聖王国のニュース見た?」
「えぇ、まさかゼル様が生きておられたなんて……!」
「しかし……凄いことになったねぇ。スペディオ領の独立、こりゃ四大国が黙っちゃいないよ」
ざわつくクラスメイトを横目に見ながら、自分の席へ移動すると――サルコとウェンディがやってきた。
「ルナ、ロー、おはようございます」
「ルナさん、ローさん、おはよう」
「みんな、おはよう」
「おはよー」
朝の挨拶を交わしたところで、サルコが心配そうに口を開く。
「ねぇルナ……スペディオ領って確か、あなたの御家族が治める土地でしたわよね? 今朝の新聞で見たのですが、その……大丈夫なのですか?」
「んー、今のところは平気、かな?」
まさか『私が
ちなみに……ローは
「ほら、言ったでしょう、サルコさん? そんなに心配しなくても大丈夫だって(スペディオ領はルナさんの故郷、そこで建国宣言が為されたということは……ゼル様は聖女様を守ろうとしている。あぁ……よかったぁ……っ)」
聖女の正体を知っているウェンディは、ルナに頼もしい味方ができたことを心の底から喜んだ。
そうこうしているうちに教室の扉が開き、一年C組の担当教師ジュラール・サーペントが入って来た。
教壇に立った彼は、コホンと咳払いをして、生徒の注目を集める。
「――おはよう諸君。早速だが、これより朝のホームルームを始める。本日は連絡事項が三つ、どれも非常に大切なものなので、しっかりと聞くように」
ジュラールはそう言って、二つ折りのバインダーを開いた。
「一つ、大剣士ゼル様が宣言された『聖王国』の件についてだ。スペディオ領は古くから我が国固有の領土であり、独立など決して認められるものではない。……だが、この宣言を為したのは、伝説の聖女パーティ『大剣士』ゼル様。彼の言うところによれば、聖女様とシルバーが、これに賛同しているとのこと。本件は既に王国議会でも取り上げられており、高度に政治的な判断が下されるだろう。どうしても周囲の雑音が気に掛かるだろうが、キミたちは聖女様の卵としての『本業』を――生前の力と記憶を取り戻すよう努めて欲しい」
(王国議会、政治的な判断……うわぁ、どうしよう。やっぱり凄い
聖女様が心の中であわあわしている間にも、ジュラールは次の話へ移る。
「一つ。本日の昼休憩より、新入生勧誘期間――通称『
(新勧、部活かぁ……。うん、ちょっと楽しみかも……!)
三百年前、灰色の春を送ってきたルナは、この手の『学生っぽいイベント』に目がない。
「そして最後に、来週の中頃に予定していた『夏合宿』についてだ。本来は王国東部の
この発表を受けて、教室がにわかに騒がしくなった。
「し、神国聖女学院……!?」
「あの閉鎖的な神国が、合同夏合宿の申し入れって……」
「いったいどんな風の吹き回しでしょうか?」
周囲がざわつきを見せる中、ルナはグッと拳を握る。
(神国には
先日、アルバス帝国の大転生祭で、マーダ・ババラという獣人に占ってもらった結果、聖女の予言書は神国にあると判明した。
(神国は良くも悪くも変わらない国。私の推測が正しければ、予言書はきっと
およそ三百年前、ルナはグランディーゼ神国で生まれ、少なくない時間をそこで過ごした。
そのため、神国のお国柄や地理などは、ある程度把握しているのだ。
「さて、少々長くなってしまったが、ホームルームは以上だ。一限開始まで後五分か、急がねばならんな。――聖女科の生徒は校庭へ、支援科の生徒は第一講義室へ、速やかに移動しなさい」
その後、一限二限三限と授業をこなし、お昼休みのチャイムが鳴る。
「ふぅー……終わったぁ……っ」
聖女
グーッと大きく伸びをして、鞄からお弁当箱を取り出すと――ロー・サルコ・ウェンディが、各自の昼食を持ち寄って、机の周りに集まってきた。
ルナの座席は全員のちょうど真ん中にあるので、昼休みはいつもこの形になるのだ。
「「「「――いただきます」」」」
両手を合わせて食前の挨拶。
ルナは一番右端にあった玉子焼きを口へ運ぶ。
「んーっ、おいしい! ローのお弁当は世界一だね!」
「はいはい、それはよかったよ」
「そう言えばお二人は、同じ部屋に住むルームメイトでしたわね」
「えっ、そうなんですか? いいなぁ……羨ましいです」
四人がそんな話をしていると、教室の扉がガラガラッと開き――体操服を着た五人組の上級生が入って来た。
先ほどジュラールが言っていた、新勧が始まるのだ。
「新入生のみなさん、お邪魔しまーす! バドミントンの魅力を伝えるために面白い企画を用意してきたよー!」
バドミントン部は、魔法を使った実技を行い――それが終わると、入れ替わるようにして、別の集団が入って来た。
「一年C組のみなさん、ごきげんよう。魔道具研究会に入って、新しい知見を広げませんか? うちに入部すれば、こんな魔道具を自分で作れるようになりますわ」
魔道具研究会は、自作の魔道具を披露し――また別の団体と交代する。
「こんにちは、我々は聖女教・王国支部の者です! 突然ですが、みなさんは今『幸せ』ですか? 多分ほとんどの人が、『ノー』と答えるでしょう。では、どうすれば幸せになれるのか? それはとても簡単、聖女教に入信し、聖女様に祈りを捧げればいいのです! さぁ、私の後に続いて一緒に祈りを捧げましょう! せーのっ――」
これまでとは明らかに毛色の違う、『ヤバいレクリエーション』が始まろうとしたそのとき――教室の前と後ろの扉がガラガラッと開き、聖女学院の体育教師たちが踏み込んできた。
「聖女教め、やはり今年も紛れ込んでいたかッ!」
「毎度毎度、ゴキブリのように湧いて出おってからに……今日こそは、とっ捕まえてやる!」
「他にもまだいるはずだ!
教師陣が確保に動き出すものの……聖女教の面々は窓を蹴破って外へ飛び、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……嵐のような人達でしたね」
ルナがポツリと呟くと、
「噂通りの無茶苦茶っぷりだねー」
ローが呆れた様子で同意し、
「ほんと……どこにでも湧いて出ますわ」
サルコはやれやれと首を振り、
「最近は本当に活発ですよね。帝国でも社会問題になっています」
ウェンディは苦笑いを浮かべるのだった。
そうして迎えた放課後。
ルナ・ロー・サルコ・ウェンディの四人が、みんなで楽しくお喋りをしながら、いろいろな部活を見て回っていると――。
「あら、そこの二人……なんだか動けそうな感じね! どう、軽くやっていかない?」
テニスラケットを持った上級生が、活発そうな見た目のローとサルコに声を掛けてきた。
「あー、すみません。私、ちょっとパスで」
汗を
「1ゲームでよければ、お付き合いさせていただきますわ」
サルコは意外にも、その誘いに乗った。
「おっ、いいね! やろうやろう! あっちのコートが空いてるから、行きましょう!」
「ふふっ、お手柔らかにお願いしますわ。――みなさん、申し訳ないのですが、五分ほどお待ちくださいませ」
サルコは自信ありげに微笑み、テニスコートの方へ移動する。
そうして始まった1ゲームマッチは――酷く一方的な試合展開だった。
「おーっほっほっほっ! まだまだ行きますわよォ!」
「くっ、やるなぁ~……っ」
正確無比なショット・フォア、バック、ボレー、サーブといった基礎スキルの高さ・変幻自在の風魔法――サルコは試合の主導権を握り続け、そのままの勢いで押し切った。
「さ、サルコさん、凄い……!」
「サルコ、上手いじゃん」
「サルコさん、かっこいいです!」
ルナ・ロー・ウェンディが絶賛すると、
「ふふっ、そんなこと……あるかもしれませんわぁ!」
上機嫌なサルコは、嬉しそうに笑った。
「う、うそ……。この私が、一年生にボコされるなんて……っ」
「いや、めちゃくちゃいい試合だったよ。ちょっと相手が上手過ぎた、もしかしてあの子『プロ』かも……?」
「ちょっと待って……っ。金髪縦ロール、超攻撃的なテニススタイル、優雅な風魔法……もしかしてあなた、サール・コ・レイトンさん!?」
たくさんのテニス部員の視線が注がれる中、サルコは不敵な笑みを浮かべる。
「バレてしまっては、仕方がありませんわね。昨年の
彼女が正体を明かした次の瞬間、
「サールさん、ようこそ硬式テニス部へ!」
「あなたがいれば、帝国のテニス部にも勝てる! なんなら
「ねねっ、これからちょっと時間取れる? よかったら近くの喫茶店でお茶しない? もちろんお金は、うちの部が持つからさ!」
テニス部の面々は凄まじい勢いで『勧誘』を――否、『囲い込み』を始めた。
「お誘い、ありがとうございます。硬式テニス部への加入、前向きに検討させていただきますわ。ただ……今は大切なお友達と部活巡りの最中ですので、お茶会はまた別の機会にお願いします」
サルコはそう言って、ルナたちのもとへ戻った。
それから吹奏楽部・ダンス部・陸上部を見学し、「次はどこを見に行こうか?」と話しながら、学院内を適当に歩いていると――『ボスッ』という鈍い音が響き、ちょっとした歓声があがる。
ルナがそちらへ目を向ければ、ぽっかりと空いた広場に十人ほどの人だかりができていた。
「あれ、なんだろう……?」
「んー、多分ボクシング部じゃない」
「あんなところで、何をやっているのでしょう?」
「部活の紹介? レクリエーション? ここからでは、ちょっとわかりませんね」
興味を惹かれたルナたちが足を向けるとそこでは――グローブを
どうやらここを通り掛かった新入生に声を掛け、ボクシング部の勧誘に繋げているようだ。
「――おっ、そこの黒髪のあなた、ストレス発散に一発どう?」
「えっ、私……?」
いきなり指名されたローは、困り顔で自分のことを指さした。
「そう、あなた! わかる、わかるわよ。見たところ、凄くストレスが溜まっているわね? どう、ここで一発スッキリしていかない? サンドバッグをバシーンって叩けば、それはもう気分爽快だよ!」
「『ストレス』というよりは、『気苦労』なんですけど……まぁいいでしょう」
ローは小さな声でポツリと呟き、サンドバッグの前に向かう。
「ささっ、日ごろの
ローは「あはは、検討しときます」と生返事をしながら、渡されたグローブを右手に
そして――。
「ハッ!」
彼女の繰り出した右フックは、サンドバッグに深々と突き刺さり、『ドゴシャッ』という凄まじい破裂音が響いた。
あまりの衝撃にチェーンは引き千切れ、本校舎三階まで跳ね上がったサンドバッグは――そのまま重力に引かれ、ドスンと地面に落下する。
「「「す、すっご……ッ」」」
ボクシング部の面々が呆然とする中、
「ふぅ、スッキリ……!」
晴れやかな笑みを浮かべたローは、グローブを返却し、ルナたちのもとへ戻った。
「ロー、あなたとてもいい『右』を持っていますわね! きっと全国を狙えますわよ!」
サルコは興奮気味に褒め、
「す、凄いパンチ……っ。ローさんって、お強いんですね!」
ウェンディは驚きながらも感心し、
(……ローのストレスって、私が原因……じゃないよね?)
いくつか心当たりのあるルナは、一抹の不安を覚えるのだった。
そうしていろいろな部活を見て回り、そろそろ解散になろうかという頃――ウェンディが控えめに右手をあげる。
「あの……実は私、文芸部がちょっと気になっているんですけど……。もしよかったら、一緒に見に来ていただけませんか?」
「はい、もちろんです」
「文芸部ってどこだっけ?」
「確か特別棟の四階、多目的室ですわね」
多目的室への道中――ルナは以前からずっと話したかった、とある話題を口にする。
「そう言えばウェンディさん、自己紹介のときに『趣味は読書』って言ってましたよね?」
「凄い。あんな一瞬の自己紹介、よく覚えていましたね」
「ふふっ。私もけっこう本を読む方なので、『あっ一緒だ!』って思っていたんです。それで、どんなジャンルがお好きなんですか?」
「え゛っ。あー、いや、その……」
ウェンディは珍しく
「実は私……悪役令嬢の小説に目がなくてですね……っ」
「う、うそ!?」
「あ、あはは……っ。ちょっとマニアック、ですよね……」
「いえ、私も大好きなんです! 悪役令嬢!」
「えっ、本当ですか!?」
驚くウェンディに対し、ルナはコクコクと頷く。
「ほんとほんと! 最近のだと、『転生した聖女様は、ポンコツ悪役令嬢!?』とか面白かったなぁ!」
「あっそれ、私も読みました! 最後のシーンが、特によかったんですよねぇ。圧倒的な腕力で、悪い公爵と野党の集団をやっつけるところ! かっこよくて、痺れちゃいました!」
「わかるわかる! そのときの台詞もよかったよね! 『――弱いですね、相手になりません』ってやつ!」
「あははっ、ちょっと似てるかも!」
「なんか楽しそ……」
「悪役令嬢……。今はそういう小説が、
まったく話に入れないローとサルコは、「今度読んでみようかな」と真剣に考えた。
そうこうしているうちに、特別棟の四階『多目的室』に到着。
「ここが文芸部の部室ですか」
「んー、なんか静かじゃない?」
「まぁ文芸部ですからね。活動内容的にも、あまり騒ぐようなことはないのかと」
「明かりは
四人が多目的室の前で頭を悩ませていると、
「――むむっ!? 入部希望者、はっけーんッ!」
「特に銀髪のあなた! 私たちと同じ、
「えっ、ちょ、わっ!?」
超が付くほどの『巻き込まれ体質』なルナは、小動物のようにガシッと小脇に抱えられ、そのまま多目的室へ連行されていく。
「ちょっ、ちょっと……!」
「お待ちなさい! どこへ行くのですか!」
「追い掛けましょう!」
ロー・サルコ・ウェンディは、慌てて二人の後を追った。
多目的室は
そんな部屋の最奥――来客用のソファにルナはちょこんと置かれ、机一つ挟んだ対面に誘拐犯Aと落ち着いた雰囲気の女性が座っている。
「喜べ、ミレーユ! 入部希望者っぽいのがいたから、
「リズ……攫ってきちゃ駄目でしょう? はぁ……ごめんなさいね。ビックリしたでしょう?」
「えっと、はい……」
急に話を振られたルナは、小さくコクリと頷く。
「それで……あなたたちは、この子のお連れ様?」
ミレーユが視線をあげると、
「えぇ、そんなところです」
全員を代表して、ローが返事をした。
「おぉっ、いつの間にかこんなに入部希望者が!? ――っと、そういや自己紹介がまだだったな! あたしは二年A組リズ・ドット、よろしく頼む!」
リズ・ドット、十六歳。
身長165センチ、すらっとした体型、赤茶けたミドルヘア。
赤い眼鏡を掛けた、快活な美少女だ。
「私は二年A組ミレーユ・スロウプ、ここで会ったのも何かの縁ですし、みんな仲良くしてちょうだいね」
ミレーユ・スロウプ、十六歳。
身長167センチ、ほっそりとした体型。
長い黒髪が特徴的な、落ち着いた雰囲気の美少女だ。
「ルナ・スペディオです」
「ロー・ステインクロウ」
「サール・コ・レイトンですわ」
「ウェンディ・トライアードと申します」
お互いに自己紹介を済ませたところ、ミレーユが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ルナさん、うちのリズがごめんなさいね。これ、お詫びの品というわけじゃないんだけれど……もしよかったら、みんなで食べてちょうだい」
「あっ、ありがとうございます」
甘いお菓子が大好きなルナは、赤いパッケージのクッキーを手に取り――そこで『違和感』を覚えた。
(……ん……?)
指先に濡れたような湿ったような、なんとも言えない妙な感触が走ったのだ。
「……赤い、インク……?」
何故か
彼女が疑問に思った次の瞬間、
「――チェストォッ!」
リズが勢いよく手刀を振り下ろし、ルナの右手を机に叩き付けんとした。
しかし――聖女の超人的な反射神経により、それは
「ちょっ、いきなり何をするんですか!?」
抗議の声をあげるルナに対し、
「くっ、今のを避けるとは……っ」
「このパターンでやれないなんて、あなた中々やるわね……ッ」
リズとミレーユは、驚愕に目を見開いた。
よくよく見れば、ルナの右手の真下には『文芸部の入部届』が敷かれており――もしもあの手刀を食らっていれば、押印欄に親指の指紋が刻まれていただろう。
(こ、この先輩たち……関わっちゃいけないタイプのヤバイ人だ……っ)
ルナは椅子から立ち上がり、そ回れ右をして帰ろうとする。
そんな彼女へ、リズとミレーユが
「る、ルナさん……! あたしたちが悪かったから、もうズルしたりしないから、せめて文芸部の活動を紹介させてくれぇ……っ」
「私からもこの通り、お願いするわ……! このままじゃ
昨年度末に三年生が卒業した結果、文芸部の部員はリズとミレーユのみ。
聖女学院の学則では、活動団体として認められる最少人数は三人。
文芸部は現在これを割っており、今年度の新勧中に新たな部員を獲得できければ、廃部となってしまうのだ。
「……えっ、廃部……?」
「あぁ。後一人……後一人いれば、定員割れを回避できる! もうほんと形だけの幽霊部員とかでもいいから、うちに入ってもらえないか!?」
「私達、こんなんだから友達がいなくて、同級生に声を掛けても相手にしてもらえないの……。だからもう、一年生を確保するしかなくて……っ。うちは部費も年会費もないから、ルナさんにデメリットは何もないわ! だからこの通り、お願しますぅ……!」
リズとミレーユは、必死に頼み込んだ。
(私が入らなかったら、文芸部がなくなっちゃう……。それに先輩達、友達がいないって……)
心優しい聖女様は、泣き落としに弱く……早くも同情の念を抱いていた。
しかしそこへ、冷静な三人組が忠告を発する。
「ルナ、ちょっと共感性が高過ぎかも。将来、変な男に引っ掛からないためにも、スパッと断ることを覚えた方がいいよ」
ローは侍女として親身なアドバイスを送り、
「人を想う優しい心は、あなたの美徳ですが……。相手は選んだ方がよろしいかと」
サルコは友達として優しく忠告し、
「ルナさん、この人達はどう見ても『駄目な先輩』ですよ? 足を引っ張られないようにしましょうね」
ウェンディは聖女のサポート役として、秘密諜報員らしい冷徹な判断を下す。
「ま、待て待て待て……! 我が文芸部には『ここが凄い!』ってところが、『イチ推しポイント』が山ほどあるからさ!」
「そうそう! せめて部活紹介だけでもさせてくれないかしら? そんなに時間は取らせないから……ね?」
リズとミレーユの説得を受けたルナは、とりあえず話だけは聞いてみることにした。
「それじゃ……文芸部って、具体的にどんな活動をするんですか?」
「うーん、そうだな。放課後とか部室に集まって、本を読んだり、お喋りしたり、お菓子を食べたり……?」
「後はみんなで協力して、『同人誌』を作ったりもするわね」
「ど、同人誌……っ」
その言葉はルナの胸に深く突き刺さった。
「そそっ。あたしがシナリオ担当で、ミレーユが作画担当なんだ」
「『リズミレ』って名前で活動しているの。王都の
「へ、へぇー……っ。でも、同人誌を書くのって、なんか恥ずかしくないですか? 例えば、数百年後の世界で、全人類に晒されたりだとか……。そんなことを考えたら、怖くなりませんか?」
ルナの問いに対し、リズとミレーユは即答する。
「――恥ずかしくないし、怖くもないよ。自分の作品を世に出すことは、誇らしいことさ!」
「自分の作品を誰かに読んでもらえると、とても幸せな気持ちになるのよ」
二人の創作活動に対する姿勢は、
(変な先輩だけど、創作に対する情熱は……本物だ。もしかしたら、何か学べることがあるかも……)
ルナはかつて私小説・同人誌・ポエム集など、幾多の黒歴史を生み出してきた過去を持つ。
今でこそ後悔し、必死に回収しているが……その当時は楽しかった。
血と死に
そして――彼女の心の奥底では今でも、熱い創作意欲が
(まぁ……私が作品を書くかどうかは、一旦置いておくとして……。文芸部に入るのは……ありかも。多目的室を自由に使えるのは助かるし、部費も年会費もないし、幽霊部員でも大丈夫みたいだし……)
文芸部に入るメリットはあるが、デメリットは特に見当たらない。
(ふむ……)
三百年前とは違い、『無条件の救済』ではなく、『自分の利益』を考えたルナは――決断を下す。
「あの……私、文芸部に入りま――」
「――それにほら、聖女様なんか
「もう……リズったらほんとお馬鹿ね、あれは予言書なの。聖女様が
二人は無自覚のうちに、ルナの古傷をこれでもかというほどに
(く、くぅ~~……っ)
聖女様は
「……すみません、やっぱりけっこうです」
「えっ、ちょっ、なんで!? 今の絶対に入る流れだったじゃん!」
「ご、ごめんなさい。私達、何か気に障るようなこと言ったかしら……?」
「ふんっ、もう知りません」
ルナは完全にヘソを曲げていた。
「ま、まぁまぁそう言わず……っ。ほら、ここにおいしい茶菓子があるぞ~?」
「文芸部に入れば、いろんなお茶菓子を好きなだけ食べられるわよ?」
もはや打つ手なしとなった二人は、最終手段『
「そんなお茶菓子で釣られるほど、私は安くありませ……これ、おいしいですね。もう一ついただいても……?」
聖女様は餌付けに弱かった……。
「はいはい、いくらでもありますよー!」
「さぁほら、遠慮せずに食べてちょうだい。チョコもクッキーも
そうしてお菓子に釣られたルナは、文芸部に入ることを決め――。
ローは侍女の任を果たすため、ウェンディは
サルコは硬式テニス部に入部しつつ、一人だけ仲間外れになるのを嫌がり、文芸部にも籍を置くことにしたのだった。
新勧編、完結!
次回、神国編スタート!
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