エピローグ
帝都に魔獣が出現したときから、
「みんなが……消えた」
聖女様は迷っていた。
露店に売られていた悪役令嬢の小説に目を奪われ、ほんのちょっと立ち読みをさせてもらっていたら――気付けばポツンと一人ぼっち。
「はぁ、まったくもう……ローたちは仕方ないなぁ。私が少し目を離したら、すぐ迷子になるんだから」
彼女はまだ気付いていない。
自分こそが迷子であるということに。
「とりあえず、困ったさんたちを
ルナは「やれやれ」と言った風に肩を
本来こういうとき、迷子が無暗に動き回るのは、悪手とされているのだが……。
自分が迷子であるという自覚のない聖女様は、まったく土地勘のない街を
「ロー? サルコさん? ウェンディさん? どこですかー?」
名前を呼びながら歩くけれど、それらしき姿は、影も形も見つからない。
そうしてしばらく歩いたところで、とある違和感に気付く。
「……あれ? そう言えばここ、さっきも通ったような……?」
当てもなく歩き回ったルナは、ちょうどこの辺りを一周する形で、元の位置に戻って来てしまったのだ。
(まさか……私は今、何か魔法的な攻撃を食らっている!?)
もちろん、そんな攻撃は食らっていない。
本人は決して認めたがらないが、彼女は
以前実施された『聖女適性試験』では、気絶したサルコを
その後は瘴気の森の出口がまったくわからず、グルグルグルグルと同じような場所を歩き回り、制限時間を超過してしまった過去を持つ。
「……もしかして、迷子なのは私……?」
ようやく真実に指を掛けたのだが……ルナの小さなプライドが、必死にそれを否定する。
(い、いやいやいや……っ。そんな……ねぇ? 私、聖女様だよ? もう十五歳だよ? 迷子になんかなるわけ――)
自己弁護と現実逃避に
「うひゃあっ!?」
慌てて跳び下がるとそこには、
「にゃぁーん」
小さな黒猫が大きな欠伸をしていた。
「な、なんだ猫か……っ」
ホッと安堵の息をついたルナは、改めて周囲を見回す。
「……」
見慣れない土地の大通りから外れた裏路地で、たった一人ポツンと取り残された自分――。
そう考えると、なんだか急に怖くなってきた。
何を隠そうこの聖女様、お化けや怪異の類が、文字通り死ぬほど苦手なのだ。
(い、いやいや、大丈夫大丈夫! よく見てごらんよ、ルナさんや? まだ日も全然高いんだし、怖がることなんか何も――)
「――う、うわぁああああああああ!?」
突然、男性の凄まじい悲鳴が響いた。
「な、
素早く警戒態勢を取ったルナ、彼女の目が捉えたのは――百体に迫ろうかという魔獣の大群だ。
「なんだ、魔獣か……」
まるで羽虫でも見つけたかのような薄い反応である。
魔獣が街を
(……みんな本当にどこへ行っちゃったんだろう)
ルナはトボトボと力なく歩く。
(聖騎士の迷子センターに行くのは……嫌だなぁ)
十五歳にもなって、『すみません、迷子です』というのは……さすがにちょっと恥ずかしい。
(でも、このままじゃ全然合流できそうにないし、あんまり一人でウロウロしてたら、みんなに心配掛けちゃうし……。やっぱり恥を忍んで、行くしかないのかなぁ……)
迷子センターに駆け込むか否か、真剣に思い悩んでいると、
「きゃぁああああああああ……!?」
遥か前方で、小さな子どもの悲鳴が聞こえた。
そこにはなんと、巨大な魔獣に襲われる
「お、お母さん……っ」
「あなたは早く逃げなさい……!」
「で、でも……っ」
子どもを背に
素人同然の酷い構え――彼女がこの先どうなるかは、火を見るよりも明らかだ。
「あれは確か……サイクロプス、だっけ……?」
ルナの脳裏に浮かぶのは、つい先日受けたジュラールの授業。
【サイクロプスは非常に弱い魔獣だ。体こそ大きいものの、俊敏性は全種族でも最底レベル。一般聖騎士はもちろんのこと、諸君らでも簡単に討伐できるだろう】
(私の記憶が正しければ……サイクロプスは確か、とっても弱い魔獣だったはず……)
一般聖騎士はもちろんのこと、聖女学院の生徒ならば、楽に討伐できるレベルの魔獣。
それはつまり――あれを倒したところで変に目立ったりはしない、ということだ。
「ウ゛ォオオオオオオオオ……!」
興奮したサイクロプスは、けたたましい雄叫びをあげながら、
(……うん、やっぱり遅い)
ルナはそれを遠目に眺めながら、冷静に思考を回転させる。
(周囲に人目はないし……最悪誰かに見られても、サイクロプスは弱いから、いくらでも言い訳は利く)
あのサイクロプスを
しかしここで、一つ大きな問題がある。
(私は聖女をやめた。もう誰かが困っていても、絶対に助けたりしないと誓った。だから――助けない。あの二人には悪いけど、こっちにもこっちの事情がある)
ルナは心を鬼にして、確実に起こるであろう悲劇に背を向けた。
(……)
コンマ一秒後、彼女はチラリと振り返る。
興奮したサイクロプスは、
もちろん、勝ち目などない。
我が子を守るため、決死の覚悟で挑み掛かったのだ。
(ま、まぁ……現代に転生してから、サイクロプスとは戦ったことないし? みんなが『弱い』っていう魔獣の強さを知るのも、大切なことだよね? せっかくの機会だし、戦ってみる価値は、十分にあるよね? いやいやもちろん、全然これっぽっちも、あの二人を助けたいだなんて思ってないんだけどさ?)
素直じゃない聖女様は、誰にしているのかわからない、謎の言い訳を始めた。
(周囲に人目はない。最悪見られても、弱い魔獣だから大丈夫。現代のサイクロプスとは初めて戦うから、経験値的なリターンは十分にある……)
サイクロプスの
(よし、行こう!)
軽く地面を蹴り付けたその瞬間、彼女の足元――
「よっと」
「バガラッ!?」
ルナの右ストレートを受けたサイクロプスは、水風船でも割ったかのように弾け飛んだ。
母子は二人とも無傷であり、これで一件落着かと思われたそのとき――『特大のイレギュラー』が発生する。
「ふー、危ないところでし……あ゛ッ!?」
「……る、ルナ、さん……?」
そこには一人、『予想外の目撃者』がいたのだ。
それはよりにもよって、王国聖女学院のクラスメイトであり、アルバス帝国の秘密諜報員――ウェンディ・トライアードだった。
「あ、あの……今のはいったい……!?」
「こ、これは……その……っ」
一瞬大きな動揺を見せたルナだが、すぐさま立ち直ってみせる。
(いいや、大丈夫だね! だってさっきの魔獣は、サイクロプスだもん……!)
『通常種』と『変異種』の違いを理解していない聖女様は、自信満々の表情で、ボロ
「やっぱりサイクロプスは、とっても弱い魔獣だね。見掛け倒しというかなんというか、私のへなちょこパンチでも一撃だったよ!」
「そ、そうですね。
ウェンディは静かに考え込む。
(……さっきのルナさんの速度は、明らかに『異常』だ……。
ウェンディは五歳の頃より、厳しい戦闘訓練を積んだ秘密諜報員。
そんな彼女が、文字通り何も見えなかった。
ルナの動き出しはもちろんのこと、いつ・どこに・どんな攻撃を加えたのか、その全てが何も見えなかった。
気付いたときには、変異種の上半身が吹き飛び――そこに彼女が立っていた。
(……今思い返してみれば、やっぱりあのポーションはおかしい。ルナさんに渡したのは中位の素材、それなのに出来上がったのは、エリクサーレベルの逸品……いや、違う。きっとあれは『正真正銘のエリクサー』だったんだ)
ウェンディの
(伝承によれば、聖女は恐ろしいほどに強く、無限にエリクサーを生成できたという……。陛下が聖女だと
点と点が繋がっていき、やがて『一本の線』ができあがる。
(……間違いない)
確信した。
未だ証拠は完璧に揃っていない。
しかしそれでも、第六感とも言うべきものが、確実に
(――ルナさんが、聖女の転生体だ)
ウェンディはついに、聖女の正体へ辿り着いてしまった。
一方、かつてない窮地に立たされた聖女様は――。
(ふぅ、危ない危ない。まさかウェンディさんがこんなところにいるなんて……。でも、サイクロプスが弱い魔獣だって知っていたから、なんとか無事にやり過ごすことができた。これぞまさにジュラール先生が言っていた、『知は身を
自分が助かっていないことに、彼女はまだ気付いていない。
(皇帝陛下の命令は――『聖女の暗殺』。でも、ルナさんは涼しい顔をしながら、変異種を一撃で仕留める正真正銘の化物……。ここは一度
ウェンディがそんなことを考えていると、サイクロプスに襲われていた母子がゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「危ないところを助けていただき、本当に……本当にありがとうございました……っ」
「お姉ちゃん、ありがとう……!」
「いえいえ、御無事で何よりです」
ルナが柔らかく微笑むと同時――街の一角から、人々の歓声があがる。
「や、やった……帝国軍が来てくれたぞ!」
「皇帝陛下が派遣してくださったんだわ!」
その後、現場に到着した帝国軍は、まさに
通常種は単騎で倒し、上位種は数人掛かりで囲み、変異種は複数の隊長格が協力して討つ。
帝国軍は非常に強く、士気・軍備・練度――そのどれもが王国軍とは比較にならない。彼らは
(な、なんかかっこいいかも……っ)
帝国軍の『対魔獣討伐作戦』を見たルナが、キラキラと目を輝かせていると、
「や、やっと見つけた……っ」
「はぁはぁ……ルナ、こんなところにいたんですわね!」
ローとサルコが合流し――ルナの足元に転がる、見るも無残な魔獣の
「い゛っ!? こ、
「な、中々の
二人は若干、否、かなり引いていた。
「ち、違う違う! そうだけど、ちょっと違う! これ、サイクロプスなの! 軽くパンチしたら、ドーンってなって――」
「なんだ、サイクロプスか」
「それなら納得ですわね」
ルナの主張は一切の疑いなく、すんなりと受け入れられた。
(す、凄い、サイクロプスって言い訳……とっても便利だ!)
もしまた同じようなことがあったときは、サイクロプス先生にお願いしよう――ルナは心の中でそう決めたのだった。
その後、魔獣の襲撃を受けて、大転生祭の中止が正式に決定。
皇帝は本事件の首謀者とされる、指定犯罪組織『魔獣共生会』の潜伏場所を特定し、直属の近衛兵によって既に制圧済みだと発表した。
それから少し時は流れ――時刻は十八時、
「みんな、本当にもう行っちゃうの? せめて後一日でも泊まっていってくれたら、主人が間に合うのに……」
テーラーはとても名残惜しそうだ。
ちなみに……不運にも遠方に出張中だったトライアード侯爵は、十年ぶりに目覚めた愛する妻に会うため、ルナ・スペディオという大恩人に感謝を伝えるため――殺人的に詰まったスケジュールを全て蹴り、この屋敷へ馬車を走らせている。
「すみません、お気持ちは嬉しいのですが……」
「明日は学校があるので、そろそろ帰らないとヤバイんですよ」
「二日間、お世話になりましたわ」
ルナ・ロー・サルコの言葉を受け、テーラーは「それなら仕方がないわね」と残念そうに呟いた。
「それじゃウェンディ、また明日学校でね」
「うん、また明日ね、ルナさん」
ウェンディとは、一旦ここでお別れ。
彼女はこの後、母と家族水入らずでゆっくりと食事を楽しみ――明日の朝一番に早馬で、王国聖女学院へ向かうのだ。
トライアード家の馬車に乗ったルナたちは、王国聖女学院への帰路に就く。
学生寮までの道中――。
「大転生祭、とっても楽しかったね!」
ルナがそう問い掛けると、ローとサルコはコクリと頷く。
「途中ヤバめのトラブルもあったけど、まぁ面白い小旅行だったかな」
「来年もまた、みんなで一緒に行けるといいですわね」
「うん!」
こうしてルナは幸せいっぱいの気持ちで、エルギア王国へ帰るのだった。
■
大転生祭が中止に終わったその日の晩、ウェンディは呼び出しを受け、皇帝の執務室を訪れた。
中ではアドリヌス・オド・アルバスが
静かに
「ダイヤ、よくぞ来てくれたな。早速だが、本題へ入ろう。――ロー・ステインクロウの尻尾は掴めたか?」
その問いに対し、ウェンディは即答する。
「申し訳ございません。今のところはまだ何も」
ルナ・スペディオという『本物』に対しては、尻尾を掴むどころか、華麗な一本釣りを決めてしまったのだが……。
ロー・ステインクロウの尻尾に限って言えば、未だ何も掴めていない。
正直に答えた。
嘘は何も言っていない。
ただ、もちろんこれは
聖女の正体を知りながら、皇帝に
言い逃れのしようもない
しかし――。
(ルナさんは私の大恩人で、とても大切な友達……)
たとえ皇帝に
ウェンディ・トライアードという少女は、メインヒロインに足る、誇り高き精神の持ち主だった。
そのうえさらに――彼女の中では今、『とある疑念』が浮上している。
(……皇帝陛下は、母に呪いを掛けていた可能性が極めて高い……)
テーラーの解呪に成功した後、
もちろん皇帝の派遣した医者が、独断で呪いの魔道具を置いた可能性もゼロじゃない。
ゼロではないが……やはり『アドリヌスの指示で動いていた』と考えるのが自然だろう。
(もしもルナさんが、うちへ来てくれていなかったら、エリクサーを作ってくれなかったら……。きっとお母さんは、苦しみ抜いた末に……亡くなっていた……っ)
母が無事であったことへの安堵・歯車が違えば母を失っていた恐怖・ルナへの途方もない感謝――そして皇帝アドリヌスへの疑心と
皇帝はトライアード家から奪った。家族みんなで楽しく暮らせていたはずの十年間、お金では買えない二度と取り返すことのできない
今すぐにでも皇帝に飛び掛かり、真実を問いただしたい。
だが、そんなことをすれば、家族全員が処刑されてしまう。
(それに……アドリヌスは全身を強力な『聖遺物』で守っていると聞く……)
この場で一騎打ちを仕掛けたとしても、返り討ちに遭うだけだろう。
(今は……我慢のときだ)
彼女はまだしばらくの間、この仕事を続け、皇帝の手足となって働くと決めた。
帝国の秘密諜報員という立場は、
ウェンディが冷たい復讐の炎を燃やしていると、皇帝は一瞬だけ彼女の瞳の奥を見つめ――「ふむ」と喉を鳴らした。
「……そうか。
「はっ」
執務室を後にしたウェンディは、帝国の上級魔法士官が展開した<
「はぁ……疲れた」
自分の部屋に戻った彼女は、真っ先にシャワーを浴び、今日一日の疲れを洗い流す。
「ふぅ……すっきり」
桃色のキャミソールにベージュの
「……ルナさん、大きい人だな……」
ウェンディは、聖女の器の大きさに圧倒されていた。
(転生直後の聖女様は、力と記憶が著しく劣化しているらしい。だから、シルバーという代行者に守ってもらっている。つまり今、聖女様が身バレするのは――聖女バレするのは、その身を危険に晒す、絶対に避けなければならないこと。それなのに……ルナさんはリスクを承知で、お母さんを助けてくれた)
あそこでエリクサーを生成し、テーラーの呪いを解くことで、ルナにはなんのメリットもない。
むしろ、聖女バレという特大のリスクを背負うだけだ。
(……かっこいいな)
ルナの
(ルナさん、あなたは私を、私の大切な家族を救ってくれた。だから、今度は私の番――)
あのお
ウェンディはそう固く心に誓うのだった。
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【※読者の皆様へ、大切なお知らせ】
第2部を最後まで読んでいただきありがとうございます!
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