第7話:占い


 迎えた翌日、待望の大転生祭が開かれる。


 大転生祭は、聖女に感謝の祈りを捧げ、彼女の転生を願う祭りだ。


 その本義は、『草葉の陰で見守っておられる聖女様へ、人類の繁栄を示すこと』。

 聖女が身命しんめいして救った人間は、深い反省のもとに大きな発展を遂げ、高度な文明を築き上げた。

 彼女の救済は無意味ではなく、大きな意義があった――それを世界に知らしめる祭りだ。


 そのため帝国の中枢である帝都では、賑やかな祭囃子まつりばやしと伝統舞踊が、昼夜を問わずして街をいろどる。


 時刻は正午――ルナ・ロー・サルコ・ウェンディの四人は、帝都中央の大通りを歩いていた。


「おーっ、これが大転生祭!(この時代のお祭りって、三百年前よりも、すっごく華やかだなぁ!)」


 ルナはキラキラと目を輝かせ、


「へぇ、いい感じに盛り上がってんね」


 ローは口笛を吹き、


「さすがは帝国……っ。ちょっと悔しいですが、何をやるにしても、王国とは規模が違いますわね」


 サルコは帝国との国力差に歯噛みし、


「みなさん、何か気になるお店がありましたら、遠慮なく言ってくださいね」


 ウェンディは先頭を歩きながら、優しくみんなに声を掛けた。


 大通りではたくさんの人々が活発に行き来し、道の両端には仮設の屋台がのきつらねる。


(焼きそば・たこ焼き・わたあめ・チョコバナナ・りんご飴……。えへへ、こんなにたくさんお店があると目移りしちゃうなぁ!)


 その後、ルナ・ロー・サルコ・ウェンディの四人は、出店で買い食いしたり、輪投げや射的や金魚すくいで遊んだり、大転生祭をこれでもかというほどに楽しんだ。


 そして現在――聖女様は大きなりんご飴を舐めながら、ニコニコとご満悦な表情を浮かべている。


(みんなと一緒にお祭り……楽しいなぁ。アルバス帝国って、ほんといいところ!)


 ルナの帝国へのイメージと評価がグーンと上昇した。


「ふんふふんふふーん……!」


 彼女が鼻歌交じりに歩いていると――人混みの中から、女性のしわがれた声が、やけにはっきりと聞こえた。


「――おーい、そこのお嬢さん」


 ふと横を見れば、黒いローブをまとった獣人と目が合った。


「えっと……私、ですか……?」


「そうそう、やわっこい顔をしたあんたさね」


 よくよく見れば、彼女は黒狼くろおおかみの獣人だった。

 長い鼻口部マズル、くすんだ黒い被毛ひもう、高い声は少し涸れており、かなりの高齢であることが予想される。


「ルナ……?」


「どうかしたのですか?」


「何か気になる屋台でもありました?」


 ロー・サルコ・ウェンディが振り返ると、ルナはスッと獣人の方を指さした。


「なんか、あの獣人さんに呼ばれてるみたい」


 四人の視線を受けると、黒狼の獣人はヒッヒッと笑う。


「そこのお嬢さんが、あまりにも珍しい人相をしているものだから、占い師の血が騒いじまってねぇ。もしよかったら、ちょぃとだけ占わせてくれないかぃ? あぁ、お金のことなら心配いらないさ。今回はあたしからのお願いだから無料、それに時間も長くは取らせないよ」


 なんとも胡散臭い話だが……。


「……無料……」


 前世で貧しい農家に生まれたルナにとって、その言葉は非常に強力だった。


「占いかぁ、ちょっと面白そうじゃん」


「無料だなんて、太っ腹ですわね」


「せっかくですし、お願いしてみてはいかがでしょう?」


 祭りで気分が上がっているローたちも、みんな賛同の意を示した。


「うん、ちょっとやってみようかな。――すみません、ぜひお願いします」


 ルナとて年頃の女の子。

 星座占い・血液型占い・手相占いなど、『占い』というものに対して、人並み程度に興味があった。


「ヒッヒッ、ありがとうねぇ。それじゃ、そこに掛けておくれ」


「はい」


 謎の占い師に促されたルナは、ボロイ木の椅子に腰を下ろす。


「まずは自己紹介をば――あたしはマーダ・ババラ。当然ながら、真名まなは教えないよ」


 マーダはそう言って、ヒッヒッヒッと笑う。


 獣人は殊更ことさらに『名前』を大切にする種族であり、彼らの名前は、個名こめい真名まな家名かめいの三段構成となっている。


 個名は親から与えられる、個人の名前。

 家名は代々引き継がし、家系の名前。

 真名は獣人がこの世に生まれ落ちたとき、祖霊より授かる大切な名前であり、気安く誰かに明かしていいものではない。

 この真名を教えてもよい相手は、世界でたった一人――自分が生涯を賭して忠誠を誓うと決めた主君だけだ。


「お嬢ちゃん、あんたの名前は?」


「ルナ・スペディオです」


「ほぅ……ルナ・スペディオか、中々変わった名前をもらったね」


「えっ、そうですか?」


「あぁ、獣人ではまず見ない名前だ」


「ま、まぁ、人間ですからね……っ」


 ルナは苦笑いを浮かべた。


「さっ、それじゃ早速、始めていこうか。ルナ、何か占ってほしいことを言ってごらんよ」


「うーん……そう、ですね……」


 あごに手を添えながら考え込むことしばし――頭にフッといい質問が浮かんだ。


「……実は私、けっこう前にとある『ブツ』をくしちゃって……。今なんとかそれを搔き集めようと、必死に動いているんですけど、どこにあるかわかりますか?」


 占い師マーダの実力が本物かどうか、それを見極めるためにも、わざとさがしているブツの詳細を伏せた。


せ物かぃ、ちょっと待ちな」


 彼女は両手を水晶玉にかざし、その中をジィーッと覗き込んだ。


「…………ほぅ、ほぅほぅほぅ、見える、見えるよ、見えてきた。んー……こりゃ書物かぃ? いや、ノートだね」


「は、はい、そうです!(凄い……っ。この占い師さん、本物だ!)」


「しっかし、奇妙だねぇ。たかだかノートの癖して、えらく厳重に保管されているじゃないか」


「そのノートがどこにあるか……どこの国にあるかだけでも、わかりませんか!?」 


 ルナは前のめりになって質問した。

 原典くろれきしの回収は最優先事項の一つ、自然と熱が入ってしまう。


「ヒッヒッ、ピンポイントで『ここ!』ってわけにゃいかないが、大まかな位置ならわかるよ。この反応からして、帝国から南西の方角……住宅の建築様式からして、グランディーゼ神国しんこくだね」


「グランディーゼ神国……!(そこに私の黒歴史が……!)」


 まさに『棚から牡丹餅ぼたもち』を手にしたルナは、頭のメモ帳にしっかりと情報を書き記した。


 一方、


「ノート……?」


「神国に落とし物、ですか?」


「王国から神国までは、かなり距離がありますけど……?」


 黒歴史の存在を知らないロー・サルコ・ウェンディは、不思議そうに小首を傾げている。


「ま、まぁ……ちょっとね……っ」


 返答にきゅうしたルナが曖昧な笑みを浮かべていると、水晶玉に紫の布がかぶせられた。


「――さて、時間を取らせて悪かったねぇ。おかげで楽しめたよ」


「えっ、もういいんですか?」


「あぁ、もう十分に占えた、ありがとうねぇ」


「……?」


 その後、ルナは無料で占ってもらったお礼を伝え、大転生祭の雑踏の中に消えていった。


 ルナたちがいなくなってすぐ――マーダは水晶に被せた布を取り、その中をジッと覗き込む。


(……おっかしいねぇ、どうしてこうも見えないのか……。占いを稼業かぎょうにして早100年、こんなことは初めてだよ)


 先ほどからずっと、マーダ―は失せ物を捜すのと同時並行して、『ルナの過去』を占っていたのだが……。

 何をどうやっても『これ』というものが、見えてこなかった。


 そして今再び、もう一度同じように占ってみたけれど……結果は何も変わらない。


「んー……あたしが耄碌もうろくしたか? はたまた腕が落ちたか? それともそろそろ、水晶玉どうぐの買い替え時かねぇ?」


 三年・五年・十年――ルナの過去をさかのぼっていくけれど、水晶玉はなんの反応も示さない。

 まるでその期間、彼女が世界に存在しなかったかのような反応だ。


「はぁ……どうしちゃったんだろうねぇ」


 マーダが気の抜けたため息をつきながら、適当にバララララッと遥か過去へさかのぼったところ――とある時代で、水晶玉が初めて反応を見せた。


「お……おぉ……!?」


 浮かび上がる像は酷くぼやけており、とても判別がつくものではない。

 しかしそれでも、いくつかの情景と感情の断片らしきものは読み取れた。


「『裏切り』・『十字架』・『虚無』……? これ、もしかして……あの子がせい――」


 そこまで考えたところで、彼女は自嘲気味に笑う。


「ヒッヒッヒッ、ないない、それ・・はない。あの間抜け顔が、聖女様の転生体だなんて……そんなこと天地がひっくり返ってもあり得ない。はぁ……どうやら今日は、疲れちまっているようだ。まったく、年は取りたくないもんだねぇ」


 ルナの何も考えてなさそうなボンヤリ顔が、奇跡的に聖女バレを防いでくれていた。



 占い師マーダと別れたルナたちは、しばらく大通りを真っ直ぐ進み――ぽっかりと開けた広場に出た。


「ふぅ……ちょっと疲れちゃったかも」


 ルナはそう言って、小さな吐息を漏らす。

 もちろん体力的に疲れたのではない。

 基本インドア派な彼女が、珍しく人混みに乗って歩いたため、精神的な疲労感を覚えているのだ。


「まぁあんだけ人がいると、歩きにくいからねー」


「ちょうどいい具合にスペースもありますし、ここで小休憩を挟みましょうか」


「はい、賛成です」


 ルナ・ロー・サルコ・ウェンディの四人は、広場の片隅に移動。


「いやぁそれにしても、帝国は本当に楽しくて、いいところですねぇ」


 ルナがしみじみとそう呟くと、他のみんなもそれに同意した。


「お祭りの空気ってのも、あるかもだけどさ……。なんかここ、『解放感』がハンパないよねぇ。建物がこう、パラパラっていい感じに建っているからかな?」


「この十年、帝国は――特に帝都中央部は、皇帝陛下指導のもとに再開発を推し進めてきましたからね。建蔽率けんぺいりつを低く設定して建物の密集度を抑え、緑地を設置することで、ローの言うような広々とした解放感を実現しておりますの」


「さ、サルコさんって、帝国事情に明るいんですね。ずっとここに住んでいた私よりも、お詳しいかも……っ」


 みんなで楽しく談笑していると……ルナの視界の端に白いローブを纏った、十人ほどの集団が目に入った。


(……なんだろ……?)


 謎の集団は互いに目配せをし合い、スーッと大きく息を吸い込んだ。


 そして――。


「――とある晴れた日のこと、私が畑仕事から帰ると、自宅に手紙が届いていました」


「――びっくり、それはラブレターでした。差出人は第三皇子バース・センチュリー殿下。なんと、王族から婚約を迫られてしまったのです」


「――あぁ、どうしましょう。私はとても思い悩みました。なぜなら、私と殿下の間には、凄く大きな身分の差があるのです」


 彼らはよく通る大きな声で、世界的に有名な『とある物語』の暗唱を始めた。


 次の瞬間、


(あdかjfkさjflkdさjfdj……!?)


 ルナの言語機能が崩壊した。


「こ、ここ、こっこここここ……っ(このつたない文章は間違いない、私が書いた私小説くろれきし――『赤の書』だ……っ)」


「ルナ、それ……にわとりの真似?」


「あら、お上手ですわね」


「だ、大丈夫? 突然どうしたの……?」


 見るからに挙動不審なルナは、帝国暮らしの長いウェンディを目標ターゲットに定め、その服の袖をがっしりと掴んだ。


「うぇ、ウェンディさん……っ。あの人達は、いったい何を……!?」


「あの人達……? あぁ、『輪唱会りんしょうかい』のことですね」


「りん、しょう、かい……? なんですか、聖女に強い恨みを持つ人達の集まりですか?」


「いえいえ、違いますよ。むしろその逆、聖女様をした敬虔けいけんな人達の集まりです」


「……えっ……?」


 本当に自分のことを慕っているのならば、今すぐ赤の書に関する記憶を抹消してほしい――聖女様の切実な願いだった。


「ルナさんもご存じの通り、聖滅せいめつ運動によって、聖女様に関する遺物は、そのほとんどが処分されてしまいました。人間は愚かな生き物ですから、もしかするとまた同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。その防衛策がアレです」


 ウェンディはピンと人差し指を立てて、解説を続ける。


「輪唱会の人達は、赤の書を丸暗記し、こういったイベントの場で歌ってくださいます。万が一、赤の書の原典が何者かに奪われても、もしも複製が全て破棄されたとしても、親から子へ、子から孫へ、子々孫々へ、聖女様の遺してくださった予言を口承こうしょうで伝えていくのです」


(何それ、いじめ?)


 ルナの率直な感想である。


(あぁもぅ、最悪だよ……っ)


 彼女は震える両手で頭を抱え、グルグルと目を回す。


(原典を回収しても、複製がたくさん残っている。世界中の複製を全て処分できたとしても、私の黒歴史は歌物語として、後世に引き継がれていく。……こんなのもう、人類を滅ぼすしかないんじゃないの……!?)


 自分の過去に追い詰められた聖女様は、魔王のような危険思想に染まっていた。


 彼女が闇落ちしそうになっている間にも、輪唱は佳境かきょうを迎える。


「――あぁいけません、殿下……っ。私とあなたはまだ、知り合ったばかりではないですか」


「――恋に時間など関係ありません。あなたを一目見たその瞬間に感じたのですから、『運命ディスティニー』を……」


「――殿下はとてもロマンチックな方で、私の胸はトクンと、ときめいてしまいました」


 自分が書いた、自分が主人公の物語で、架空の皇子おうじに口説かれる。

 そんなキッツイシーンを青空の下、大勢の人達へ向けて朗読されるのは――控えめに言って『地獄』だった。


(はぁ、はぁ……だ、駄目だ……っ。これ以上こんなところにいたら、頭がおかしくなっちゃう……ッ)


 過呼吸を起こしそうなほどに動揺したルナは、


「こ、ここはアレです! なんかアレが、アレなので……向こうへ行きましょう!」


 相も変わらず語彙力ごいりょくゼロなことを言いながら、ロー・サルコ・ウェンディの手を取り――スタタタタッと走り出した。


「えっ、ちょ、ルナ!?」


「いきなりどうしたのですの……?」


「ルナさん、どこへ行くんですか!?」


 みんなの制止の声を振り切って、ルナは走った。


 黒歴史の音読が聞こえないところまで、必死に走って逃げた。


「ふぅふぅ……ここまで来れば大丈だいじょう……はぅ!?」


 彼女が顔を上げるとそこには、聖なる十字架を握り締めた、既視感のある集団がいた。


「――みな、今日はめでたい大転生祭だ! いつもより気合いを入れて、聖女様に祈りを捧げるぞ!」


 指導者らしき男がそう言うと同時、その場に集う人たちが全員、張り裂けんばかりの大声をあげる。


「「「聖女様……ッ! 聖女様……ッ! 聖女様……ッ!」」」


 思想の強めなこの異常者集団のことを、ルナは知っている。


「こ、この人達はまさか……っ」


「あぁ……聖女教ですね」


 ウェンディが困り顔で答えた。


「王国の博物館でも、見かけた気がするんですけど……?」


「聖女教は世界各地に活動拠点があるので、文字通りどこにでもいるんですよ。横横よこよこの繋がりが異常に強くて、『一人見たら百人はいる』と言われています。……正直、あそこは強引な布教が有名なので、あまり関わらない方がいいかと」


 彼女はそう言って、優しく忠告してくれた。


(くぅ……挟まれた……っ)


 前方からは熱烈な聖女様コール。

 後方からは赤の書の輪唱りんしょう


(前言撤回、帝国は……最悪の国だ……ッ)


 ルナの帝国に対する評価が、地の底まで落ちた。


(こんなところにいたら、恥ずかしくて死んじゃう……っ)


 ルナは再びみんなの手を取って走り出し――帝都中央の大通りから一本筋を外れ、雑多な喧騒けんそうから離れたところで停止する。


「ふぅふぅ……すみません。なんだか頭と胸が苦しくなっちゃって、人の少ないところに駆け込んじゃいました……っ」


 ルナがとても申し訳なさそうに謝ると、ローたちは「問題ない」という風に微笑む。


「なんか人酔いでもした感じ? まぁルナはインドアだからねぇ」


「でも、こういう本道から外れたところもまた、『ご当地感』が増し増しでいいですわね!」


「ここは観光客にあまり知られてない、地元の人達がよく利用する裏道なので、むしろこういうところの方が、帝国情緒を味わえるかもしれませんね」


「ロー、サルコさん、ウェンディさん……っ」


 ルナはみんなの優しさと気遣いに触れて、ちょっとだけ泣きそうになった。


 その後、ルナたちは人の少ない裏道を歩きながら、大転生祭名物の聖女様グッズ・帝国聖女学院で流行中のスイーツ・地元民御用達ごようたしの雑貨屋など、大転生祭のつうな楽しみ方を満喫する。


 そうして時は巡り――『十五時』。


「くくっ……さぁ、どう動く? 聖女の代行者シルバー?」


 皇帝アドリヌスの悪意が、帝都に振り撒かれた。


「――う、うわぁああああああああ!?」


 楽しい祭囃子まつりばやしを掻き消すようにして、男性の凄まじい悲鳴が響き渡る。


 周囲の人々は一瞬硬直し――驚愕に目を見開いた。


「ギャロロロロロ……!」


「グォグォグォ……ッ!」


「オ゛、オ゛、オ゛、オ゛、オ゛オ゛オ゛ォオ゛……!」


 突如として、帝都の中心部に大量の魔獣が出現したのだ。


 しかもその数は、十や二十ではかない。

 軽く見積もっても、百体は超えているだろう。


「ど、どうしてこんなところに魔獣が……!?」


「皇帝陛下に……近衛兵や聖騎士たちに連絡を……!」


 次の瞬間、


「「「グルゥアアアアア゛ア゛ア゛ア゛……!」」」


 まるで合図でも受けたかのように、魔獣たちが一斉に暴れ出した。


 道行く人々を食らい、目に付いた建造物を破壊し、本能のままに帝都を蹂躙じゅうりんしていく。


「「「きゃあああああ゛あ゛あ゛あ゛……!?」」」


 大転生祭はかつてない大パニックに見舞われた。


「ルナ様……っていない!?」


 ローは慌てて振り返り、ルナの安全確保に努めようとしたのだが……。

 つい先ほどまで後ろに付いていたはずの主人は、いつの間にか霧やかすみのように消えていた。


(くっ、どうしてあの子は、こういうときにいつもいないの……ッ)


 ローはギリッと奥歯を噛み締め、ルナを探すために颯爽さっそうと駆け出す。


(……単独で動き出した。やはり陛下の睨んだ通り、ロー・ステインクロウが聖女の転生体……このまま監視を続けよう)


 ウェンディが尾行を開始しようとしたそのとき、


「きゃぁああああああああ……!?」


 遥か後方から、小さな子どもの悲鳴が聞こえた。


 一瞬だけ視線を向けるとそこには――巨大なサイクロプスに襲われる母子ぼしの姿があった。


「お、お母さん……っ」


「あなたは早く逃げなさい……!」


「で、でも……っ」


 子どもを背に庇った母親は、棒切れのようなものを握り締めながら、サイクロプスの前に立ちはだかる。

 素人同然の酷い構え――彼女がこの先どうなるかは、火を見るよりも明らかだ。


(……任務が優先)


 この戦乱の世の中、あんな悲劇は珍しくもなんともない。


 ウェンディは感情を殺し、ローを追うために視線を切った。


 その瞬間――脳裏をよぎったのは、十年前のトラウマ。


【お、お母さん……っ】


【ウェンディ、あなただけでも逃げなさい!】


【で、でも……】


【いいから、早く行きなさい……!】


 気付いたときにはもう――走り出していた。


 自分の意思に反して、体が勝手に動いていた。


(私は、いったい何を……っ)


 十中八九、この騒ぎは皇帝が作り出したもの。

 今すべきはロー・ステインクロウの監視であり、母子の救出ではない。


 これは明確な命令違反。

 頭ではわかっている。

 しかし、体が言うことを聞いてくれない。


 魔獣に襲われる母子の姿が、あの日の――幼き自分と母の姿に重なってしまった。


 ウェンディは今、『理性』ではなく『心』で動いているのだ。


(あのサイクロプスを最速で討伐し、ロー・ステインクロウを捜し出す……!)


 今できる『最善』を選択した彼女は、千本せんぼんという特殊な暗器を取り出し――目標に狙いを定めたところで、とんでもない事実に気が付いた。


(あの赤黒い瞳、まさか……『変異種』!?)


 サイクロプスは通常種こそ非常に弱いものの、変異種は驚異的な腕力・敏捷性・再生力を誇り、討伐には聖騎士大隊長クラスの実力が必要だとされている。


(あんな化物、私一人じゃ絶対に勝てない……っ。せめて<影縫かげぬい>で、あの母子が逃げる時間を作る……!)


 ウェンディは魔力で強化した右腕を振るい、サイクロプスの影を狙って、勢いよく千本を投げ放つ。


 しかしそれと同時、


「ウ゛ォオオオオオオオオ……!」


 サイクロプスの変異種は途轍とてつもない速度で、母子のもとへ走り出した。


(は、速い!? あの巨体でなんて速度なの……ッ)


 ウェンディはすぐさま左手を振るい、追加の千本を全力で投げる。


(くっ、駄目、間に合わない……ッ)


 次の瞬間――血肉の華が咲き誇った。


 ウェンディの<影縫い>は、間に合わなかった。


 血肉と骨と臓物が飛び散り、思わず目を背けたくなるような悲劇的な死が訪れる。


 しかし、そこに悲鳴はない。


 あるのは――困惑。


「……え?」


 見るも無残にはじけ飛んだのは――サイクロプスの変異種。


 母子は二人とも、まったくの無傷だ。


「ふー、危ないところでし……あ゛ッ!?」


「……る、ルナ、さん……?」


 そこにはなんと……変異種を一撃でほうむり去った、大恩人ルナの姿があった。

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