第34話 校長の奥さんを訪ねる東條先生
私が彼女を訪ねたのは、五月のゴールデンウィーク明けのことだった。
慣れない土地……辺り一面に立ち並ぶ立派な一軒家はどの家もどっしりと重く、その家に暮らす人々の社会的地位の高さを物語っているようだった。
ワンDKの古いアパートに暮らし、自由を満喫している私は、心の何処かで少し居心地の悪さを感じていた。
これから向かう先に、あまり長居をするつもりはない。
ただある一つのことだけを確認するだけでいいのだ。
「東條先生と校長先生の家に行く日が来るなんて、思いもしませんでした……それにしても、さすが校長先生ですね、こんな高級住宅街に住んでるなんて」
私の隣で松田さくら……約四年前に行方不明になった松田智子さんの娘さんが言った。
「お母さんがいなくなっちゃった時、すごく心配してくれて、必ず帰ってくるよ、って励ましてくれたんです。校長先生も教頭先生も」
「そうなんだ……あれから、もう四年も経つなんて、早いわね」
私は心がズシンと重くなるのを感じた。
他でもないその校長と教頭こそが、彼女のお母さんの行方不明に関わっている重要人物だからだ。
今のところ掴んでいる真実を、私は彼女に伝えられないままでいた。
「お母さん……あの時、もしかしたら家にいるのが嫌になって出ていっちゃったのかな、って……今になって思うんです」
ぽつり、さくらさんが話し始めた。
「なぜ、そう思うの?」
私は歩く速度を落とした。
「お母さん、お父さんとの仲がずっと微妙だったし、あの頃は中学生だった弟も荒れてたんですよ。私も割りといい加減に過ごしてたし……だから、そんな生活が嫌になっちゃったのかも」
「そうなの……」
「うちのお父さん、自分が興味のあること以外、無関心な人なんです。もちろん、家の事も。だから、成績の悪かった私や暴力沙汰を起こす弟の事で、お母さんが悩んでいても全部知らんぷりしてた」
『もう飽きたし、正直どうでもいい』
私の頭に、元夫に言われて一番傷ついた言葉が浮かんだ。
「それは……お母さん、辛かったでしょうね」
「あの頃……私、お母さんがお父さんと笑って会話していたような記憶が全然ないんです……お母さん、なんでお父さんと結婚したんだろう……」
「先生が、元旦那さんと別れた理由もそんな感じよ」
私はつい自分の話をしてしまった。
「もう、ずっと前の話……結婚して家を出た一人息子が、まだ二歳くらいの頃のね」
教員として働いていたから、私には安定した収入があったし、実家が近くにあって手助けを頼むことができた。
だから、精神的にさほど追い詰められずに子育て期間を乗り越えられたのだ。
「そっか……もしかしたらお母さんも、お父さんと別れたかったのかもしれないな……それが言い出せなくて、現実から逃げたくなっちゃったのかもしれない」
私はいつの間にか、バッグの紐を強く握っていた。
まだ、彼女のお母さんの生死は決まっていないのだ。かと言って、望みを捨てないで、と軽々しく言いたくもなかった。
「これね」
さくらさんが、自分のリュックにぶら下げたビーズ細工のペンギンのキーホルダーを示して笑った。
「お母さんが作ってくれたの。お母さんも私も、ペンギンが大好きで」
あぁ、そうだ。確かあの傘の持ち手のキャラクターも、ペンギンだったっけ。
「かわいいね」
「うん。お母さんが作ったやつだから、ちょっと形が歪んでるんだけど、そこが味よねって笑ってた。私も個性だよねって思ってるんだ」
「そうね……」
夫への気持ちは冷めたけれど、子どもへの気持ちは、私は冷めなかった。
これから訪ねる先の校長の奥さんも、そうだといいのだけれど。
桐崎。
私は静かにその表札の前で足を止め、深呼吸したのだった。
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