第32話 林先生からの電話を受ける晶

「はい、金子です」

『晶? 私、優希です』

 受話器から聞こえてきたのは、三者面談の日に廊下で聞いた、あの優希の声だった。

 それにしても、いきなり晶? と聞いてくるとは……

「やっぱり……わかったんだね、私のこと」

『そりゃあ、昔好きだった人なんだもの、すぐにわかるわよ』

 昔……か……

「混乱してるでしょう、私のこと?」

『まあね……でもサラちゃんが、私はお父さんに似てるからって言ってたから、前から変だとは思ってたのよ。サラちゃんは正美にそっくりだからね……正美は……父親として生きてるってことで合ってるのかしら?』

 そうか……サラは優希に話してたんだ……

「うん。合ってる」

『サラちゃんのお父さんは、晶なの?』

「…………」

 私は言葉に詰まった。

 サラの本当の父親は、昔正美が勤めていた会社の上司だ。しかも、彼女の同意がない状態での関係でできた子どもだった。

『……そう、晶は優しいのね。サラちゃんはあなたのこと大好きなの。お母さんに似たかったって悔しそうに言ってたわ』

 事情を察したはずなのに、まったく調子の変わらない優希の声がじんと沁みた。

「そうなの……あの子、昔からすぐそうやって言うのよ……」

 なぜか、涙がこみあげてくる。

 嬉しかったのだ。

 私は、彼女の母になりたかったから。

『私は養護教諭よ。生徒と生徒の保護者の身と心の健康維持が私の使命なの。晶、単刀直入に聞くけれど、いったいなにを悩んでるの?』

 私ははっとした。

「私のこと……サラから聞いたの?」

『えぇ、あの子も優しい子だからね……自分を責めてる。それは違うのよって言ったけれどね……だからといって、あなたが無理して笑っても意味がないのよ。わかるでしょ?』

「えぇ……」

 私は胸がサアッと冷たくなった。

 私は自分が思い悩んでいたから気がつかなかったけれど、サラをも無駄に悩ませてしまっていたのだ。もちろん、正美も同じに違いない。

『もしかして、教頭か校長からんでる?』

 どきりとした。

 そして、脳裏に去年の校長先生とのやりとりが浮かんだ。

 きっと他の保護者にも、あの取引を持ち掛けているに違いないのだ。

「な、なにか相談が寄せられてるの?」

『まあ、詳しくは言えないけど……この夏休みにシメる予定なのよ』

 シメる?

 唐突に、過去の映像が蘇る。

 それは昔から物静かだった優希が、理不尽に対して激しく怒った時の光景だ。

 ほとんど無傷の優希に対し、意識を失って伸びている優希よりガタイのいい相手。

 そう、優希は昔から体格差がある相手でも、それを素早く地に沈める体術を身につけていた。確か、おじいちゃんから習ったとか言ってたような……

 便利だから、お前にも教えてやるよ……って優希に言われたけれど、当時の私はきっぱりとそれを断っていた。

「もしかして優希……まだあの技使えるとか?」

『日々の鍛錬を怠ると、取り戻すのに時間がかかるのよ。ねぇ、晶……どっちからされてるの?』

「……教頭先生……」

 ああ、言ってしまった。

 その瞬間、私の体から力が抜けた。

 ガクガクと震え始める受話器を握っている方の手首を、逆の手で掴む。

『了解。で、期限はいつなの?』

「来週の火曜日」

『なるほど、さっそく効いてるってことだな』

 効いてる?

『ごめんね……こっちで金づるの流れを止めたから、晶……保護者の方に手がいったんだわ』

 金づるを止めた……そうか、だから教頭先生はああ言ったんだ……

 最近までは、それが割と自由に手に入ったんですが……まあ、それはいいとして。

 って。 

『晶、向こうの言う通りにしなくていいからね』

「でも……そうしないとサラに私のこと話すって……」

『はあ?』

 あ……久々に聞いた、優希がキレた時のどすの利いた低い声。

『わかった、そういうことね……ちょっと予定を早めるかな』

 あ、もう元に戻った。

「優希?」

『大丈夫、こっちのことは心配しないで……晶は、サラちゃんと正美を信じること、それだけに集中して? いいわね?』

「う、うん……」

『話してくれてありがとう、晶……昔と変わってなくて、嬉しかったよ。気になることがあったら、この間渡したプリントのアドレスにメッセージちょうだい。じゃあね』

 そうかなあ……変わってないのかな、私? 外見はだいぶ変わったと思うけど……

「ありがとう、優希」

 またいつか、正美と三人で会えたらいいな。

 私はそう願いつつ、電話器の通話終了ボタンを押したのだった。

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