第31話 教頭から強迫される晶
あの日、学校で優希に会うとは思っていなかった。
約三十年ぶりに見る優希の容姿は、すっかり変わっていた。まあ、向こうから見れば、私もそう見えただろうけれど。
優希は保健室の先生らしい白衣姿で、長い髪を後ろで一つに束ね、昔と同じように穏やかな雰囲気を身に纏っていた。
『今日はサラちゃんの三者面談の日だったのね』
少しキーが高くなっていたけれど、その声に一瞬懐かしさを感じた。
優希は……私が晶だと気づいていたようだ。
ほんのわずかに止まった視線と動きが、その証拠だ。
あの日からあまりに変わってしまった私を、優希はどう思っただろうか?
いや、ほんとはそんなことはどうでもいい。
優希にどう思われたとしても、サラにはその事実を黙っていて欲しかった。
サラは正美に似ているから、彼女がサラの生みの母であることは察しているだろう。
保護者の名簿にも、金子正美と書いているし。
きっと、混乱していることだろう。優希とは、一度ちゃんと話をしたい。
サラに、私が晶だということは黙っていて欲しいと頼むことも含めて。
ああ、それにしても頭が痛いのは教頭に持ちかけられた話の方だ。
私はスマホの画面を凝視した。
震える手で画面のボタンを押そうとしたけれど、やっぱりできなかった。
押せば、三百万円が指定した口座に振り込まれる。
それが、教頭先生が私に示した条件だった。
あの三者面談の日、私は教頭先生に呼び出された。
嫌な予感がした。
去年の三者面談の日も、同じように校長室に呼び出されたからだ。
そこで言われた事に、当時の私は仰天して黙り込んだ。
こんなこと、真面目に言っているのか……
でも、私にはピンときた。
校長先生は、これを本当にやってきたのだ、と。
『冗談ですよね?』
無理だ、私にはできない。
サラは、確かに成績があまり良くなかった。
だからといって、私が校長先生と関係を持ってまで内申を良くしたいとは思わなかった。
それに、私の本当の姿……男性の肉体を持っていると知られるのは困るのだ。
『冗談ですよ』
しばらくの間をあけて、校長先生は笑いながら言っていた。
だけど、その目は少しも笑っていなかった。
私はひいていく血の気を感じながらも、なんとか目を細めた。
私以外のお母さんが、この流れに巻き込まれませんように。私には、そう祈ることしかできなかった。
そんなことがあったから、私は教頭先生から何かを提案されても、すべて煙に巻こうと思って応接室のドアをノックした。
『あなた、本当は男性なんじゃないですか?』
二人きりになった部屋で、教頭先生はいきなり切り出した。
どうしてそれを?
予想だにしなかった教頭先生の言葉に、私の頭は一瞬で真っ白になった。
『うちの保健室の先生ねぇ……あなたによぅく似てるんですよ……ほら、そのスカーフ。喉元をそれで隠してるところも、まったく同じ。あ、うちの保健室の先生ね、美女にしか見えないんだけど、なんと体は男なんですよ、ハッハッハ』
笑う教頭先生の三日月形をした目が、冷たく光っていた。
私には去年の校長先生に言ったように、それは冗談ですよね、と返せなかった。
それでは、無言の肯定になってしまう。なにか、なにか言わないと……
『私は校長みたいに、女性に興味はないんです。あ、男性にもね。私が好きなのはギャンブル……それを思う存分楽しむ為の軍資金がいるんですよ。最近までは、それが割と自由に手に入ったんですが……まあ、それはいいとして』
教頭先生は、私に名刺のようなものをすっと差し出した。
銀行口座が書いてある……ということは……
『お子さん、知らないんでしょ? あなたの顔色、真っ白だからわかりやすいですよ……口止め料と考えれば安いもんでしょ、三百万なんて』
三百万?
ふらっと手にした紙を眺めながら、それくらいなら……という思いがよぎった。
『一度だけ、ですよね?』
『さあ……ギャンブルの神様は気まぐれなんで、こればかりはなんとも言えませんな』
『そんな……』
三百万円は、我が家にとって大金だ。
私が水商売をしていた頃にコツコツと貯めていたお金から、出せない額ではないものの。
でも、それはサラや正美の為に使いたいと思って手をつけてこなかったお金だ。
本当は、一度だって教頭先生なんかに渡したくない。
『期限は二週間にしておきましょうかね。二週間後の火曜日……それまでに振り込んでおいてくださいね、では』
教頭先生は、薄ら笑いを浮かべながら一方的に話を切り上げ、応接室から出ていった。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
迷い、悩んでいる内にあっという間に一週間が過ぎてしまった。
サラや正美が、私をとても心配してくれているのも心苦しい。
彼女達との穏やかな暮らしを望んでいるだけなのに、どうしてこんなに苦しまなきゃいけないんだろう……
涙が出た。
自分の部屋の鏡の前で、スカーフを取る。
喉の出っ張り……私が手術で削ることを拒んだ部分。
それをそっとなぞる。
ありのままの姿で生きられたら……サラに本当のことを伝えられたら、どんなに気が楽になるだろう。
サラは優希を否定せず、受け入れていた。でもそれは、優希が学校の保健室の先生だからだ。
「お母さんが実は男で、お父さんが女……生みの母だと知ったら……」
サラは、きっと傷つくだろう。
生みの母は、既に亡くなっていると嘘をついてきたのだから。
今まで積み上げてきた幸せな日々。
崩れるのは、あっけないほど簡単だ。
怖い、怖い……
サラが、私から離れていってしまうのが。
まるで底なし沼のような、私の暗く淀んだ世界を打ち破ったのは、リビングの電話のコール音だった。
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