第30話 お母さんの異変に気づくサラちゃん

 最近、お母さんの様子がおかしい。

 それは、先週の三者面談の後から始まったような気がする。

 なんだかぼうっとしているし、顔色も冴えない。

 それに、今まであまり見たことのない仕草が増えた。

 首に巻いたスカーフに手を当てる仕草。

「湿疹かなにかできたの?」

 もしかして痒いのかな? と思って聞いてみると、はっとしたようにスカーフから手を離し、にこりと笑う。

「なんでもないのよ」

 というお母さんの言葉は、あまり信じられなかった。

 私は知っている。

 お母さんが、なにかを思い詰めたような顔でぼんやりしている時、その手が首元にあることを。

 今さらながら思う。

 私は、お母さんの首を見たことがない。

 見られたくない傷跡があるから、一緒にプールやお風呂には入れない。

 それは、お父さんとまったく同じ理由だった。

 私が小さい頃に行ったプールや温泉は、いつもお婆ちゃんやお父さんの妹……叔母さんが一緒だった。

 一度だけ、どうしてもお母さんと一緒がいいとわがままを言って泣き喚いたことがある。けれど、なにをしてもやっぱり駄目なものは駄目だった。

 そんなにひどい傷なんだ……怪我? まさか暴力をふるわれたとか?

 スカーフで隠している理由を聞いてみたいと、何度も思ったけど、なんだか怖くてできなかった。

 お母さんが、思い出したくない過去に苦しむなんて嫌だ。私は、いつもにこにこしてる、かっこよくて優しいお母さんが大好きだから。

 このままでいい。ずっと、このままがいい。

 そう思ってきた自分の気持ちが、少しだけぐらついていた。


 三者面談の日。

 私は、あらかじめ専門学校への進路希望を学校に提出していた。

 三者面談は、それが変わりないことを担任の先生とお母さんと私の間で確認し合うのがメインテーマだった。

 面談は短時間であっけなく終わった。

 私は特に問題行動を起こすタイプじゃないから、先生も話題がないのだ。

 唯一引っかかる点といえば、どこの専門学校を選ぶのか、くらいだった。

「今年の内にどっか見学したほうがいいのかな……来年でもいいかなあ……」

「そうねぇ、早い内に何校か見学に行ったほうがいいんじゃない……」

 言うお母さんの足が止まった。

「あ、林先生!」

「今日はサラちゃんの三者面談の日だったのね」

 保健室の林先生が、いつもの白衣姿で立っていた。

「お母さん、この間私が話してた林先生だよ! すごいよね、全然男っぽくなくて」

「あら、サラちゃんは私のことお家でお話したの?」

「うん、先生は心が女性なんだって喋っちゃった、エヘヘ……お母さん? なんかぼうっとしてる?」

「えっ、ああ、ほんとにきれいな方ね……お母さん、ちょっと驚いちゃって」

 私はぼうっとしているように見えるお母さんと、林先生とを見比べた。

 なんか似てる、と言いかけて私は慌てて口をつぐんだ。

 背が高くてすらっとしてて、首にはスカーフ。

 先生は高い声を出せるよう手術はしたけど、喉仏は削らなかった。だから、スカーフを巻いて喉元を隠しているのだと言っていた。

 違う。お母さんは、昔負った傷があるから隠してるんだもん。

「これ、保護者の皆さんにも渡してるんです。なにかに悩んだ時に、相談できるメールアドレスです。私に話しにくいことなら、下に別のアドレスがあります。そちらは女性のカウンセラーに繋がりますので、なにかありましたら利用してください」

「はい……ありがとうございます」

 林先生は、お母さんに折りたたんだプリントを手渡していた。

 私は私で、生徒用に配られたものを持っている。

「さようなら、サラちゃん」

「さようなら、林先生」

「失礼します」

 廊下を歩き、私は生徒用玄関へ、お母さんは二階へと続く階段に向かう。

「教頭先生と少しだけお話して帰るから、先に帰っててね、はい、鍵」

「うん、わかった」

 教頭先生とお母さん、なにを話すんだろう? PTA絡みのことかな?

「今日の晩ご飯、なに?」

「今日は煮込みハンバーグよ」

「やった! 大好き、ハンバーグ! じゃあ先に帰ってるね!」

 そうだ。あの日の晩ご飯。

 結局ハンバーグは食べられなかったんだ。

 帰ってきたお母さんは、頭が痛いからってすぐに自分の部屋に行ってしまったから。

 私はお父さんと二人、たまには家事を手抜きしたってバチなんか当たらないよね! って笑いながら、カップ麺を食べた。

 少し休めば元気になるから、大丈夫。

 部屋を覗き込んで声をかけた私に、返ってきたお母さんの声は微かに震えているように感じた。

 大丈夫? 本当に?

 私はその場で動けなくなってしまった。

「大丈夫、あとはお父さんに任せなさい」

「うん……」

 私はそっとドアを閉めた。

 私じゃ、駄目なんだ。お父さんじゃないと。

 なんだか急に切なくなって、私は自分の部屋に駆け込んだ。

 あの日心の奥底に追いやった心配の種は、一週間で、立派な悩み事に成長したのだった。


「悩み事があるなら相談に乗るよ……なにか悩んでるでしょ……お母さんのこととか」

 放課後、皆が部活動などに散っていく微妙なタイミングで話しかけてきたのは、村上君だった。

『森君の時の成功報酬は、苺牛乳一週間奢りコースだった……コースは相談内容によって変わるよ。なにかあったら、金子さんの悩み相談にものるからね』

 あぁ、そういえばこの間、図書館でいきなり話しかけられたんだっけ。

「なんで知ってるのよ、私がお母さんのことで悩んでるって……あっ、そうか、またスパイか!」

 確か、優斗君と仲良くしてる従兄弟がいるとか言ってたっけ。

 きっとそのルートから情報が行ったんだろう。

 私、お母さんのことで悩んでるって、優斗君にメッセージを送ってるし。

「まあ、それもあるけど別件もあってね。意外と軽くないよ、これは」

「なによそれ……脅す気?」

 私は愛想のあの字もない村上君を睨んだ。

「いいや……軽くないっていうのは、僕が掴んでる案件の事だから、金子さんのお母さんのことじゃないんだけど……もしかして、ヤバそうなの?」

 くっ、しまった、ひっかかった……

「大丈夫だし! それに、もしなにかあったとしても、私は林先生に相談するから!」

 村上君には、頼らないもん!

「うん、その方がいいよ。立場が違う人間が間に入ったって、きっとどうにもならないだろうからさ」

 村上君、帰り支度早……私の方が先にバッグ持ってたのに、追い越された……

「立場が違う、か……私は子どもだもんなぁ……」

 お父さん、この間、お母さんとどんな話をしたんだろう?

 私も、もう高校生……小さな子どもじゃない。

 だけどお父さんには、お母さんと過ごした私の知らない時間があるわけで……

「はあーあ、やめやめ、もう考えるのやめよ」

 お母さん、早く元気になるといいな。

 私が願うのは、それだけ。

 私にできるのは、願うことだけなんだ。 

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