第26話 進路先に悩むサラちゃん
高校を卒業したらどうしたいのか、具体的に考えなきゃならない。
それは去年の6月……まだ入ったばかりの高校に、ようやく慣れてきた一年生の個人面談の時に、担任の先生から言われた言葉だった。
高校の三年間は、あっという間に過ぎてしまう。
二年生以降に勉強する教科も進路により変わる……とも言われたから、その時の私はほんとうに卒業後のことを考えなきゃって焦った。
でも、正直早すぎるよね……だって、ついこの間だよ? これで受験勉強から解き放たれたぁって、喜んでたの。
「優斗君は、東京の大学受験するんだ……私は専門学校かな……って、専門学校もたくさんあるよねぇ……どうしよう」
私達は、二年生になってしまった。
毎日メッセージをやり取りしている遠距離恋愛中の彼氏、優斗君の進路は去年の内から聞いていたから知っていた。
卒業後の未来を描くことは、私にはなかなか難しいことだった。
リアルの、どことなくたらんとした空気に溺れてしまうと、ほんとうに
私はすっかりそんな調子なのに、ここから遠く福岡に住む優斗君は、高校卒業後のプランを実行するために着実に行動している。
塾に通っている上、アルバイトまでしているのだ。ほんと、尊敬しちゃう。
「私も優斗君みたいにバイトでもしようかな……」
「いいんじゃないか、世間に出てお金を稼ぐことの大変さを知るのは、大事な社会勉強だと思うぞ」
リビングのテーブルでぼんやりと呟いた私に、のんびり新聞を読んでいるお父さんが言った。
今日は土曜日で、お父さんは仕事がお休みだった。
「社会勉強とか、固っ苦しい言い方……ねぇ、お父さんは高校生の時、バイトしてた?」
「してたよ、パン屋さんで」
「パン屋さんかあ……いいかもなあ、パン屋さん……パン美味しい……ご飯ほどじゃないけど」
「パンの種類と値段を覚えるのが楽しかったぞ」
楽しいだって?
私は耳を疑った。私は記憶力にものすごく自信がないのだ。
目の前の新聞の横から、私にそっくりな笑顔が見える。
ああ、やだやだ、そのぷっくりした頬から顎のライン。
「なんでそんなに嫌そうな顔するんだよ」
お父さんの
自然と自分の頬に手を当てていた私は、そんなに嫌そうな
「だあってさあ……私もお母さんみたいに、しゅっとした顔が良かったあ……整形したい」
「お前、彼氏いるんだろ? それなのにそんな風に思うのか?」
「だあって、優斗君から顔を褒められたことなんか一度もないもん。服は、かわいいねって言われたことあるけど。もう、それ全部、お父さんのせいだからね!」
わかってる、これは八つ当たりだ。
「気になるなら、彼氏に顔のことを聞いてみればいいじゃないか」
お父さんの不機嫌そうな顔が、新聞に隠れて見えなくなった。
「お母さんは、お父さんの顔好きよ。だから、サラの顔も好き。可愛いよ」
にっこりと笑ったかっこいいお母さんが、白地にピンクの花が咲いているコーヒーカップを手にテーブルにやってきた。
ふわりと漂ってくるこの甘い香りは……モカブレンドだな。
「だってさ、良かったね、お父さん!」
からかい半分に言った私の言葉に、お父さんは無言のまま新聞をめくった。
「駅ナカのパン屋さんで働こうかな……あ、でもパンの種類とか覚えられなさそう……ねぇ、お母さんはバイトしてた?」
「ええ、スーパーでしてたわよ。品出しとかレジとかね」
「ああ、スーパーもいいかもしれない……パン屋さんより覚えること少なさそうだし」
「そうでもないわよ。この商品の売り場はどこですか、とかけっこう聞かれたわ。なにかを覚えなくちゃいけないのは、どんなお仕事でも同じよ」
うん……確かにお母さんの言う通りだよな……自分の好きなものだったら、覚える気になるかな……おにぎり専門店のおにぎりとか。
「今はバイト先より、卒業後の進路先を決めないとね……とりあえず、専門学校ってところはブレないんでしょう?」
「うん。あとは職種と学校を決めるだけなんだけど……これがまた難しいんだよなぁ」
「サラ、今決めた進路が絶対じゃない。なんでもそうだけど、やってみなきゃわからないんだから。とことんやってみて違う道を選びたくなったら、その時は違う道を選び直せばいいんだ。あまり気負うなよ」
言うお父さんの手が、新聞紙の横からにょきっと出てきた。
そのままコーヒーカップを掴むお父さんの手を、まじまじと見つめる。
日に焼けて茶色い、大きくて、華奢な手。
私の手は、色白で小さくてむくむくしている。
きっと、私を生んでくれたもう一人のお母さんに似ているんだろうな。
「学校の三者面談って、確か明後日だったわよね?」
「うん、明後日の一番最後の枠だよ……時間空くから図書室で時間潰そうっと」
「サラは今、どんな本を読んでるの?」
私が読書好きなことを熟知しているお母さんが、にこにこしながら聞いてくる。
「えっと……ジェンダーがらみの本……かな? なんか、保健室の先生がアレだからさ」
「アレ……って?」
「男として生まれたけど、心は女なんだって。めちゃくちゃキレイで優しいから、男子からも女子からも懐かれてるよ。私も好きだな、なんかさっぱりしてて」
「へぇ……そんな先生いるのねぇ……名前はなんていうの?」
「林先生。下の名前は優希っていうんだけど、男性でも女性でもアリな名前でラッキーだったって先生笑ってたな」
ガタリと音を立てて、新聞を手にお父さんが立ち上がった。そして足早に部屋に向かって行く。
「なんだろ急に……今の話、つまんなかったかな?」
まあ、別にいいけど……とお母さんを見ると、お母さんはコーヒーカップを手に固まっていた。
「あれ……もしかしてお母さん、そういうの反対派? でも、林先生、いい人だよ?」
「そう……そうね、サラがそう感じてるなら、きっとそうなのね……ごめんね、ちょっと珍しい話だから、お母さんびっくりしちゃって」
ぎこちなく笑うお母さんに、ほんの少しの翳りを感じるのは気のせいか……しまったなあ、時代ねぇって言って笑ってくれるかと思ったのにな。
「大事なのは、ハートだと思うんだけどな」
コーヒーカップを手に席を立ったお母さんは、私がこぼした一言に一瞬だけ足を止めた後、振り返らずにシンクに向かって歩いて行く。
明るくて強い初夏の日差しが、テーブルの上の観葉植物の影をテーブルに作り出していた。
少しだけ開けた窓から入ってくる風に、影がゆらゆらと揺れる。
それをぼんやりと見つめながら、私はうっすらと感じたもやもやを頭の片隅に追いやったのだった。
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