第8話 村上君に相談する田口先生 前編
「定期連絡……異常なし……次に注意しなくちゃなのは、個人面談期間かな」
「うん、そうだね……気をつけておくよ」
閉館間際の図書館のベンチで、短い会話を交わす。
相手は去年クラスを受け持った生徒、村上陽君だ。
「で、報酬は?」
出た、報酬の要求! 実はこの瞬間が一番辛かったりする。
「残念だけど、変化なし」
「あ、そう……了解……じゃ、また二週間後」
村上君は余計なことは一切言わない子だ。
次の約束を確認し、場を離れる。
それは、同じ学校の生徒や教員に私達が一緒にいるところを見られないように、という意味もあった。
この図書館から徒歩十分のところにある、普通科の公立高校。私は数学教師、村上君は二学年の生徒だ。
私は村上君が図書館を出ただろう頃を見計らって、ベンチから立ち上がった。
この契約は私の方から村上君に依頼したものだけど、そろそろ終わりにしたい……という気持ちとは裏腹に、現実は危険な時期に入ってしまった。
危険な時期……それは六月に行われる三者面談期間だ。
三者面談は、教員、生徒、生徒の保護者で顔を合わせて進路などの話をする機会だ。この時に来校する保護者は、父親より母親の方が圧倒的に多い。
この期間に起きる可能性がある、危険なこととはなにか?
それは教頭と校長による物色である。
教頭は、あくまで校長の為に動いているに過ぎない。校長の色眼鏡に叶う母親がいるか、いればどのクラスの生徒の保護者様かを探るのだ。
まったく、気色悪いことこの上ない。
私はこの学校に五年もいる。
それなのに、この二人が裏で何をしているのかを、私は去年までまったく知らなかった。
教頭と校長の悪事を知るきっかけになったのは、去年私が村上君に話しかけたことだった。
始めは、ほんの少し悩みを聞いてもらうだけのつもりだったんだ。
同僚にではなく、高校に入学してまだ数ヶ月しか経っていなかった一年生の村上君に。
それがなぜなのかは、うまく説明できない。
だけど、彼は色んな人から悩み相談を受けていたらしく、私の悩みを聞くことも拒否しなかった。
「ここだけの話なんだけど」
去年の夏休み明け、私は悩んだ末にたまたま一人でいた村上君に話しかけた。
場所は図書館……村上君は館内のベンチに腰掛けて、本を読んでいるところだった。
うちの高校には、一年生は必ずどこかの部か同好会に所属しなければならないというルールがあった。
村上君は手芸部の幽霊部員……つまり部費だけ出して部の活動には参加していない。
「田口先生からそのセリフを聞くとは思わなかったな」
村上君はそう言うと、読んでいた本を閉じた。
その表情は教室での村上君と少しも変わらない。
私は村上君が友達と楽しそうに過ごしているところを見たことがなかった。
休み時間にはいつも読書か寝ているか。教室の移動時もずっと一人だった。
だから、意外だったんだ。
その年の六月に行われた三者面談の時、困った時に誰かに相談しているか、軽い口調でクラスの全生徒に聞いてみた。すると、約二十人いる男子生徒の半分の口から村上君の名前が出たのだ。
『なぜかはわからないけど、悩みごとを相談しやすいんだよな』
私の問いかけに答えたある男子生徒の言葉だ。
なぜかはわからないけど
私はその部分に引っかかりを覚えてから、ずっと村上君が気になっていた。
私の悩みも、聞いて欲しい。
「まあ、先生も人だからね……どうぞ」
私は村上君に促され、一人分の間をあけてその横に座った。
「競馬って知ってる? 村上君?」
こんなことを訊いて、村上君に見損なわれたりしないだろうか?
「知ってますよ。二十歳から遊べる賭け事ですよね」
だけど、そんな私の心配をよそに村上君の態度は実にあっさりとしたものだった。
「そうか、知っているんだね……実は、私は競馬に誘われていて……一度は仕方なく行ったんだけど、特に面白みを感じなくて、正直もう行きたくないんだ」
「ふぅん……先生には、それでも行かなきゃいけない理由があるんですね? それは上司命令だからですか? それともなにか弱みでも握られてるんですか?」
村上君の言葉に、なぜかヒヤリとしたものを感じた。
村上君の問には無駄がない。
それに同情や驚き、くだらないという見下したようなもの、感情のゆらぎが一切感じられなかった。
「上司だから……誘いを断りにくいんだ……弱みは握られていないよ」
「相手が上司、目上の存在ってだけで、暗に弱みを握られていますよね……今は思い当たる節がなくても、先生が思い通りにならないと判断した時、向こうが勝手になにかをでっち上げるかもしれない」
確かにその通りだった。だから私は断りきれないのだ、教頭からの誘いを。
「なんで、わざわざ嫌がる田口先生を誘うんですかね? 嫌がらせが趣味のどSですか?」
「えっ……理由……」
思い返せば、仕方なしに教頭に付き合った時に私はそれを聞いていた。なぜ、私を誘ったのか?
「私が独身で時間があるだろうからって……そう言ってたような気がする」
「独身でヒマそうな先生なら、他にもいますよね……生物の北山先生とか世界史の増田先生とか……誘われてるのは田口先生だけなんですか?」
村上君、そんなことよく知ってるね。
「いや、北山先生や増田先生にそれとなく聞いてみたんだけど、教頭からは声を掛けられてなかった……あ、しまった」
私は慌てて口に手を当てたが、村上君は相変わらず無表情だった。
「それは知ってますよ。教頭と校長がタヌキだっていうのは……そう、僕が教頭なら、やっぱり田口先生に狙いを定めますね」
「え……それはなぜ?」
「北山先生は偏屈だし、増田先生は口が立つ。田口先生は素直で優しい……気をつけた方がいいですよ、この先も。人相や簡単な会話、家族構成なんかで簡単に見抜かれるんです、人の良さって」
う……そこについては心当たりがありすぎて何も言えない……
「教頭は田口先生を金づるにしたいだけだから」
「えっ……そ、そんなバカな!」
「じゃあ、他に思いつく理由がありますか? 大して興味もない相手を自分の趣味にハマらせようとする理由が」
理由、理由……だめだ、思いつかない。
いや、本当はおかしいと思っていたんだ。
どうして私を……教頭本人からその理由を聞いても、どこか釈然としなかった。だから、余計に思い悩んでいたのかもしれない。
「断り方、教えましょうか?」
私はハッとして村上君を見た。
私が一番知りたかった答えを、村上君は私が問う前に口にしたのだった。
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