9-4 モブリーマンの……
「うげえ……」
その日は、目覚めとともに絶望感から始まった。
「頭痛え……」
果たしてどうやって家に帰ってきたのか、何時ごろに解散になったのか、もはやなにも記憶にない。ただ、散乱した昨日の服と、ガンガンと痛む頭と、カラカラの喉だけが、昨日の出来事が現実だったのだと示している。
(やっぱり、ゲームの世界には行けなかったな)
昨夜から今朝の睡眠の間、この10日ほど続いてきた転生は起こらなかった。詩月の作ったゲームの世界は、もう完全に消えてしまったのだ。
そんな現実が、いよいよ事実として突きつけられてしまった。
「また現実に逆戻りだな」
散らかった部屋を見ながら、苦笑混じりにつぶやいた。昨日はゲームが完成した後、片付けることもせずに詩月の墓参りに行ったため、部屋には4人で過ごした痕跡が色濃く残っている。
この狭い部屋に4人で集まって、必死にひとつのゲームを作ったこと。それは決して夢なんかではなくて、確かに現実の出来事だった。
「とりあえず、着替えるか」
気持ちを切り替えるためにつぶやいて、それから二日酔いの身体に鞭を打ちつつ、どうにか智章は出社した。
二日酔いの人間にとって、道中の揺れる電車がどれほど苦痛だったのかは言うまでもない。
まったく仕事に身が入りそうにない智章を待っていたのは、東京開発不動産に関する大量の事務手続きだった。
営業の立場とは違い、セールスエンジニアの仕事は、契約を取ってはい終わりではない。受注した条件で実際にシステムを構築していけるよう、エンジニアチームに引き継ぐための準備が待っている。考えることも決めることも多く、感傷に浸っている余裕もないほどに忙しかった。
ただ、余計なことを考えずに済んだ分、仕事に追われていたのは却って良かったのかもしれない。
昼の休憩時間、オフィスビルの1階にある飲食店街の周りを歩く。普段は節約のために自席で適当なコンビニ飯を食べているが、今日くらいはと思って店を探していた。
(二日酔いはマシになったけど、さすがにちょっと疲れたな……)
なにか二日酔いにも優しい店を探していると、ふと人波の中に見知った顔を見かけた。
「渡邊さん」
「あ、甲斐くん。珍しいね」
同じようにして店を探して歩いていたのは円香だ。土日の2日間を挟んだだけなのに、どうしてか、やけに久しぶりに会ったような気分がした。
「たまには贅沢しようかと思って」
「そっか。甲斐くんは倹約家なんだね」
ふと、円香が智章の顔を見て何かに気づいた。
「ねえ、なんだか顔白くない? 大丈夫?」
「うそ、そんなに顔に出てる?」
「うん。相当真っ白」
円香は近づいて智章の顔を覗き込む。
顔の近さに、思わずドキリとした。
「ごめん。実は完全に寝不足と二日酔いです……」
智章が素直に打ち明けると、円香は「そうなの?」と苦笑した。
「でも、なんだかすっきりした顔してる」
「それも見て分かる?」
「分かるよ。ここ最近、ずっと見てきたんだから」
この10日間ほどの激動の期間、常に隣には円香がいた。この程度の変化は、簡単に見通せてしまうのかもしれない。
「やっとね、いろいろと落ち着いたんだ」
「お疲れ様。なにかは分からないけど、ちょっと羨ましいな」
「うん。大変だったけど、楽しかったよ」
円香はこの10日ほど、智章がなにに巻き込まれていたのかを知らない。それでも、これまでの会話の断片から、大事なことは伝わっているような気がしていた。
「だからさ、もう打ち上げはいつでもいけるよ」
智章が言った。
東京開発不動産の案件が片付いて、打ち上げに行こうと話をしたのが先週末のこと。その時は誘いを断ってしまって、代わりの日程をまだ決められずにいた。
円香が顔をほころばせる。
「本当? じゃあ、今日は疲れてるだろうし明日とか」
「分かった。絶対定時で上がれるようにする」
智章の言葉に、円香がはにかむ。それはとても珍しい表情だと思った。
「よろしくね。実は相談したいことがあるんだ」
智章は「分かった」と言った。相談の内容は読めないけれど、円香がわざわざ相談を予告するのだから、きっと真剣な話なのだろう。
入社した頃のように、こうして親しく話せるようになったことが智章は嬉しかった。
それから流れで2人で食事をとった後、それぞれの席まで戻る。そして再び、午後の仕事が始まった。
4人でゲーム制作に打ち込んだ土日が嘘のように、あまりにも現実的な日常の時間が続いていく。
だが、あれほど退屈に思っていたはずの日常も、不思議と悪くないと思えるようになっていた。
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