アルバとトレンタ

第1話 懐かしい名前

「知らん」


 例のごとく、アルバは何の感情もうかがい知れない声で電話の向こうにいる相手に答えた。


『おいおい、そんなばっさり斬って棄てるような言い方せんでも。ホントに知らんのか?』


 ズィオが電話の向こう側で、困ったように顎をさする姿が、アルバの頭の中にありありと浮かんだ。


(随分ぬるいしゃべり方になったな)


 アルバはなぜかふと、そんなことを考えた。ズィオとはカプランが崩壊してからも何かと連絡を取っている。すっかり丸くなった師匠は見慣れているはずだ。


 だから今更、相手の過去の姿と今のそれとに思いを馳せるなんて、おかしな話だと思った。


(急にトレンタの話を振られたせいだな)


 ズィオの口から久々に出てきた男の名を反芻するにつけ、アルバはもう遠い過去になりつつあった若い日々の思い出の中に、自分の意識が吸い込まれていくのを感じた。


『聞いとるか~い?』


 スマートフォンの奥の方から、ズィオの声が遠く聞こえた。


「聞いている。トレンタとはもう随分前から連絡は取っていない。あいつはカプランが健在の頃から表の仕事と裏の仕事を行き来しながら活動していたし、俺と仕事で絡むことは少なくともここ五、六年はなかった。カプランが潰れてからの動向も関知していない」


 必要な内容を簡潔に答えると、もう切るぞとアルバは電話口のズィオに告げた。


『まぁ、知らねぇんなら仕方ねぇわな』


 ズィオは少し気まずそうな、そしてなぜか寂しそうな声でそう言ったあと、そんじゃあなと電話を切った。


 冷たくあしらい過ぎたろうかとアルバは思ったが、もとより自分はこういう物言いなのだし、ズィオもいちいち気にするようなタマではないだろうと思い直した。


(トレンタ、どうして今になってあの男の連絡先なんて聞いてきた?しかもズィオが…)


 どちらかと言えば、そちらの方が気になった。だがズィオに理由を問いただしたところで、適当にはぐらかされるのがオチだろう。


 とはいえ、他でもないズィオがトレンタの連絡先を知りたいと言ってきた事実は、妙に頭に残った。


 誰かに頼まれたのか?誰に?今更トレンタのことを気にするような人間で、ズィオと接点がある者…。


(ロンディーネか?)


 アルバの思考が、トレンタのかつての師匠の名に行き着いた。同時に、また別の疑問も頭をもたげてきた。


(もしそうなら、それこそ今更だな。かつての弟子の今が気になるのか?そんなに情の深い女だとは思えないが…)


 疑問は絶えないが、どちらにしてもさっきズィオの頼みを断った時点で、この話はもうアルバには関係のない事だった。


 アルバは通話の切れたスマートフォンをテーブルに置くと、一人掛けのソファに深々と腰を下ろし、ふと窓の外へ目をやった。


 もう何個目の潜伏場所か思い返すのも面倒だが、最近越してきたこの住処は、窓から空しか見えない寂しい眺望の部屋だった。それでも、身分の怪しい人間が簡単に借りられる場所があるのは有難い話だ。


 そしてふと、アルバはトレンタも同じように住む場所に難儀しているのだろうかと考えた。


 関係のないことだと今しがた切って捨てたばかりなのに、壁の隙間から染みるように流れる水のごとく、トレンタの名前がアルバの心のうちに入り込んでくる。


(今日はもう、どうしようもないな)


 アルバは観念したようにソファに身体を預けると、味もそっけもない白い壁紙の張られた天井に目をやっり、自分の思考の赴くままトレンタの事を思い返した。

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