第36話 厄介事

 こうして、ロンディーネはこの店でトレンタの面倒を見てやることになった。

 もちろん、ロンディーネもただトレンタを置いてやるようなお人好しではない。店の主人が病に臥せるようになってから、彼女が一人で回していた店の切り盛りをトレンタにも手伝わせようと考えていたのだ。

 トレンタの方も、それくらいは心得ていたようで、むしろ素直に、そして積極的にロンディーネの言葉に従い、店の仕事を覚えようと頑張っていた。

 健気なトレンタの姿は、同情と、そして少しの気まぐれで彼を受け入れたロンディーネの心を、少しずつ前向きなものに変えていった。

 ここに置いて正解だったかもしれない。店もまわるようになってきたし、時には臥せったままの主人の面倒まで看てくれる。寝たきりの主人も、甲斐甲斐しいトレンタのことは気に入っているようだ。

 トレンタが来て、色々なことがうまく行き始めている。


 そうして1ヶ月が過ぎた頃、主人の体調が目に見えて悪化し始めた。

 年齢も年齢だから、劇的に良くなることは無いだろうと医者からも言われていたが、それでもここ最近はどうにか小康状態を保っていた。

 それがここに来て、俄に体調を崩し、三度の食事もうけつけないほどに弱っていったのだ。

「まぁ、これまでも気力で持ちこたえていたようなものだったからなぁ。でもそれも、そろそろ限界なんだよ」

 主人を診察した医者は、客のいない店のホールで、どこか他人事のようにロンディーネに告げた。

「多分そう長くはない、覚悟はしておいた方がいい。それに…」

 四人掛けのソファ席でロンディーネと向かい合うように腰かけていた医者は、そう言っておもむろに立ち上がると、いやらしい笑みを浮かべながら彼女のとなりに腰を下ろした。

「君の今後のことも考えないと。あれが死んでもまだこの店を続けるつもりかい?」

 医者は身体を擦り付けるように近付け、粘着質な声をロンディーネの耳元で響かせた。

 またか、と、ロンディーネはうんざりした気持ちを抱いた。言い寄って来る男は珍しくもないが、ここまで不快な気持ちを抱かせる口説き方には滅多にお目にかからない。

 なにより、多少なりとも情の湧いていた相手を"あれ"呼ばわりされるのは腹に据えかねた。

 それでも、ロンディーネはそんな感情を冷静に殺し、言葉を返した。

「それは私が決めることじゃないわ。上が続けろと言うなら続けるし、やめろと言うならやめる、それだけ」

 この医者はカプランとも繋がっている性根の悪い医者だが、それだけに組織の命令だと言えば引き下がらざるを得ない筈だ。

「そうか…。それじゃあ、僕が君の正体をこの界隈の連中に暴露してしまえば、君のミッションは終わりを迎えざるを得なくなるわけだね」

 良いことを思い付いた、とでも言いたげな表情で、医者はさりげなくロンディーネの太腿に手を置いた。

「そんなこと考えないことね。ただじゃすまないわよ」

 ロンディーネは医者の手を叩き落とすように自分の太腿からどけると、軽蔑の眼差しとともにそう言い返した。

「知ってるよ。でも怖いことになる前に、ここから逃げればいい。そうだ、外国まで逃げてしまおう。医者なら海外でもそれなりに仕事はあるし、カプランだってこの国の外まで力を及ぼすことは出来ない」

 ただ、と、医者は自分が優位に立っている事を誇示するように尊大な声で話を続けた。

「君はどうなるかはわからないね。僕が君の正体を晒せば、カプランの作戦は失敗する。それは君のミスでもある。カプランにいられなくなるのは君も一緒なんじゃないかな?」

 ロンディーネの顔を舐めまわすように見ながら、医者はそう言った。ロンディーネの心の動揺を期待しているのが、そこからありありと看て取れた。

 だがそれくらいの脅しで心乱されるロンディーネではなかった。

「そんな安っぽい思惑で、カプランから自由になれると本気で思ってる?」

 小馬鹿にしたようなその態度に、医者は明らかに気分を害したようで、険しい表情のままソファから立ち上がった。

「まぁ、良く考えたらいい。賢い選択はなんなのかね」

 そんな捨て台詞を残して、医者は店を出ていった。

 一人ソファに残ったロンディーネは、ふと、誰かの視線を感じ、カウンターの方へ目をやった。

 そこには、タオルと水差しを手にしたままこちらを不安げに見つめるトレンタの姿があった。

 

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