第35話 この子の名前

「はい、どうぞ」

 ロンディーネは淹れたてのコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れ、マグカップを少年に手渡した。そしてふと、まだこの子の名前を聞いていないことに気付いた。

「あなた、名前は?」

 何の気なしにロンディーネは尋ねたが、少年は黙って俯いたまま、答えようとしない。

「名前、何て言うの?」

 出来る限り優しい口調で、ロンディーネはもう一度そう尋ねた。温もりを求めるようにマグカップを両手で包む姿が、相変わらず怯えているように見えたからだ。

 それでも、少年は小さく頭を横に振るばかりで、答えようとはしなかった。子どもとはいえ、年の頃は12、もしくは13歳といった所だろう。それで自分の名前もわからないなんて事はあり得ない。

(言いたくないのかも)

 何か事情が有りそうな気がして、ロンディーネはそれ以上聞くのを止めた。

 ただ、だとするならこの少年をこれからなんと呼べば良いのだろう。少し考えてから、ロンディーネは何か思い付いたように少年を見た。

「あなたの名前、つけてあげる」

 そう言うと、ロンディーネは驚いたような顔でこちらを見る少年に背を向け、部屋の隅の方にある棚から、一冊の古い本を取り出した。

 それをカウンターの上に置いたロンディーネは、分厚い本の目次を開き、目当ての箇所を探すように指を滑らせた。

 そしてようやくそれを見つけたのか、本の真ん中辺りを開き、数ページほど捲った。

「念のため聞くけど、あなたの誕生日は?」

 少年の方へ顔を向けたロンディーネは、俯いたままの相手にそう尋ねた。

 出し抜けにそんなことを聞かれ、少年はまるで思考が停止したかのように呆然とロンディーネを見ていたが、やがて聞かれた事を頭の中で咀嚼出来たのか、さっきと同じような暗い表情を見せ、顔をふせながら首を横に振った。

「でしょうね」

 ロンディーネはそう言うと、穏やかに微笑んだ。名前と同じように、自分の誕生日も言いたくないのか、若しくは知らないのかも知れない。

 いずれにしても、相手の本当の誕生日がわからないことは想定していた。

「それじゃ、あなたの誕生日は今日ってことにしましょう。年齢は13歳ってことでいい?本当の年齢もわからないでしょ」

 何故かうきうきした様子でそんなことを言うロンディーネに、少年は呆気に取られながらも小さく頷いた。

 それを同意と理解したロンディーネは、手近にあった紙に、エプロンのポケットにしまっていたペンで何やら書き付けていた。

「それじゃ、最後は運命に尋ねましょう」

 そう言うと、彼女はペンの入っていたポケットから、サイコロを2つ取り出し、適当に近くにあったグラスの中には振り入れた。

「最後の数字は…、6ね。それじゃあ」

 ロンディーネはグラスの中に放られた2つのサイコロの目を足すと、その数字を紙に書き込み、同じようにメモをしていた他の数字たちと足し合わせた。

「決まった。あなたの名前はトレンタ(30)ね。どう?」

 ロンディーネは少年のもとへ近付くと、さっきまでペンを走らせていたメモ紙を相手の前に掲げて見せた。

 そこには、ごちゃごちゃと書き散らかされた数字に混じって、少し太い筆致で記された【30】の文字が見えた。

 その下には、トレンタの文字がどこか楽しげにも見える筆記体で書き記されていた。

「…なんで数字なの?」

 紙とロンディーネの間で困惑気味に視線を行き来させながら、少年がぽつりと呟いた。

 少年と男性の間で、自分の自我の向かう場所がわからずにいるような、そんな細くて高い掠れ声だった。

「数字は大切よ。数秘術って知らない?知らないか。単なる占いか何かだと思ってるでしょ」

 ロンディーネは再びもとの場所に戻ると、広げたままにしていた本を手に取り、トレンタの方へ掲げて見せた。

「普段はその日のラッキーナンバーを調べるくらいで、ここまでしっかりとはやらないけど、最初が肝心だからね。30って数字は、きっとこれからあなたの人生に深く関わってくる数字になるはずよ」

 そんなことより、と、ロンディーネは本を棚に戻すと、トレンタへ声をかけた。

「名前も決まって、あんたもここの家族になったことだし。今からシャワー浴びてきな、風邪引いちゃうから。着替えは用意しとく」

 そう言うと、ロンディーネはキッチンの奥に目を向け、シャワールームはこの先にあると、トレンタに視線で示してやった。

 トレンタはまだどこかぼんやりとした目でロンディーネのことを見ていたが、蝋のように白かった頬に、ほんの少しだけ赤みがさしていた。

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