第29話 戻れない世界へ

「そうかい、そいつは嬉しいね」

 静かに、小さくズィオはそう言った。なんだかんだ付き合いの長いロンディーネには、ズィオが嬉しさと気恥ずかしさを懸命に押し込めようとしているのだとすぐにわかった。

 ただ、ズィオはそんな可愛らしい一面をすぐに心の奥にしまいこみ、緊張感のある顔を少年に向けた。

「そんじゃ、今日からお前はうちの人間だ。そうなった以上、もう陽のあたる側で生きていくことはない。妹さんとも会えなくなる。いいな」

 さっきのどこか気を遣うような様子とは打って代わって、ズィオは鋭い声音で少年に語りかけた。

 少年は黙って頷くと、居ずまいを正すように背筋を伸ばした。

「よろしくお願いします」

 ズィオを見据えて、しっかりした声でそう言った少年に、ズィオの方がかえって気後れしたのか、苦笑いを浮かべた。

「堅苦しい挨拶なんてのは要らねえ。そういう世界だ。それとな、お前の名前は今日からC(ツェー)だ。エエドゥアルド·サビーニの名前とは今日限りだ」

 ズィオの言葉に、少年は静かに頷いた。ロンディーネは彼の名前がエドゥアルドであることを、今知った。

(それは良いとして、Cねぇ)

 自分にとって三番目の弟子、だからC。相変わらずの安直さにロンディーネは呆れていたが、何も言わずCの前にエスプレッソを差し出した。

「冷めないうちにどうぞ」

 Cは差し出されたカップとソーサーを手に取ると、それをテーブルの上に置き、カップの取っ手に指をかけた。

 だがそのまま、Cは何をするでもなくエスプレッソの決め細やかな泡を見つめたまま、黙って俯いてしまった。

 ズィオもロンディーネも、そんなCの姿を訝しげに覗き見たが、ふと、Cの手元のカップが小さく震えている事に気づいた。

 どうした。そうズィオが尋ねるより早く、ぽたり、ぽたりと、カップの周りに雫が落ちた。

 Cは顔を歪めながら、両の瞼をつよく瞑っていたが、少年のあどけなさを残した輪郭線に沿って、涙がとめどなく流れていった。

 この涙の意味はなんだろうか。もう戻れない、過酷な世界へと向かう事への不安の表れだろうか。

 それとも、二度と妹には会えない、それどころか、両親の思い出に触れることすら許されない世界へ放り込まれる事への悲しみの涙だろうか。

 ズィオもロンディーネも、ただ想像することしか出来なかった。

 Cの気が済むまで泣かせてやろう。二人はそう考えながら、何も言わず痩身の少年の背中を見守っていた。

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