第10話 二重スパイ
せまい半地下の部屋に、しばしの沈黙が流れた。ダニーもアルバも、互いに向かい合ったまま一言も発しない。
「状況によってというのは、具体的にどういうのを想定している」
沈黙を破ったのは、ダニーの方だった。
「さあな、情報機関が殺す必要があると判断すれば、それがその“状況”ということになる。俺はその指示に従うだけだ」
はぐらかしているのか、それとも本当に情報機関の指示に従うだけのつもりなのか、アルバの石膏像のように不変の表情からは、そのどちらも読み取ることは出来なかった。
「そうか。俺としちゃ、その状況が訪れないことを願うばかりだが、情報機関の判断しだいだな」
ダニーはそう言うと、深く椅子に背を預けた。
「長く接点を持ちすぎて、オルブライトに情が湧いたか?」
アルバの言葉が、ダニーの心の芯に突き刺さるように届いた。
「だとしたらどうする?確かに、ガキの頃から知ってるからな。そんなことはないと俺が思っていても、無意識に甘さを見せてるかもしれん。もしあんたが俺とじゃ仕事にならないと思うなら、そう正直に情報機関に言えばいいさ」
ダニーは開き直ったような態度を見せたが、アルバは何一つ動じることなく口を開いた。
「オルブライトとの繋がりを持つ人間は限られている。それをこっちから手放すこともない。というより、今はあんたに頼る他無い。俺も、情報機関もだ」
「そんな手の内を晒すようなこと言って、大丈夫か?」
苦笑いを浮かべてそう尋ねたダニーに、アルバはなんでもないことのようにこう言った。
「オルブライトが情報機関に睨まれるような動きを見せなければ問題ない。仮に妙な動きをして、あんたもオルブライトの側についたとわかったときは、二人まとめて始末するだけだ」
そう言い終えると、アルバは席を立った。
「もう行くのか?」
アルバを見上げながら、ダニーが尋ねた。
「情報の共有はもう十分だろう。あとは情報機関からオルブライト殺害の命令があれば、俺はそれを実行に移す。あんたはオルブライトの動静や居場所を俺に伝える。やることはそれだけだ。それと・・・」
アルバは一枚の紙切れを差し出した。
「連絡先はそれに書いた。あんたのはすでに聞いている」
アルバはそれをダニーに放り投げると、振り返ることなく半地下の部屋を出ていった。
「まぁ、すぐにでも殺し屋がそっちに向かうような状況じゃないが、念のため耳には入れておこうかと思ってな」
自分以外、誰もいない半地下の部屋で、ダニーはそれでも周りを警戒するように声を潜めながら通話をしていた。
「冗談だと思ってるか?俺もそう思いたいよ。でもブリタニカの情報機関は甘くない。殺す必要があると判断すれば、躊躇はしないぞ。それに・・・」
ダニーは一瞬沈黙したあと、さっきまで目の前の椅子に座っていた石膏像のように無表情で、感情の読めない殺し屋の顔を思い浮かべながら、口を開いた。
「雇われた殺し屋、要警戒だ。まぁ殺し屋がやばい奴なのは当たり前なんだが、なんというか、俺はあいつと会ったとき、言葉にならない怖ろしさを感じた。これは俺の勘としか言えないがな。とりあえずあっち側の動きは逐一伝えるから安心しろ」
ダニーは電話口の相手を気遣うようにそう言ってから、電話を切った。
(さて、情報機関はもちろんだが、あの男にどこまで隠し通せるか・・・)
背もたれに身体を預けたダニーは、自分の身体がいつも以上に重たく椅子に吸い付いていることに気がついた。
疲れを感じやすくなったのは年齢のせいもあるが、それでも今日は格別だった。何か命拾いをしたような気さえする。ひりついた緊張感からの解放が、疲労に姿を変えてダニーに覆いかぶさっていた。
電話の相手は、ダニエル・オルブライトだった。数年前に偶然の再会を果たしてから、今日に至るまでずっと、かつてのような付き合いが続いている。
オルブライトはもちろん、ダニーが情報機関の人間であることを知っている。情報機関やあの殺し屋には嘘を伝えたが、そのことに後ろめたさなど感じていない。
情報機関がオルブライトの何を警戒し、彼の活動のどこに注意を向けているのか。
そのことをオルブライト本人に教えてやることは、彼自身が危険と判断されるような行為を差し控えるよう仕向ける、一種の抑止効果を持つのだから、ある意味では国家にとっても有益なのだ。
そんな理屈を弄びながら、ダニーはまるで二重スパイのように情報機関とオルブライトの間で立ち回っていた。
それに、情報機関にも再三言っていることだが、今のオルブライトにかつてのCIの影を重ね合わせるのはナンセンスだ。今や名声も社会的地位も得たオルブライトが、情報機関に狙われるようなリスクのある行為をするなど考えられない。
彼が代表を務める政党にしても、今はもっぱら対外交流推進、人やモノの移動自由化に焦点を絞った穏健な政治活動に終始している。
セルツランドとの統合を夢想する老議員もいるにはいるが、党内での影響力は低い。なによりオルブライト自身、代表は務めるが自らが議員になることはなく、そろそろ代表を引退し、自分の商売に専念したいとさえ考えているくらいだ。
ダニーボーイと呼んでいた頃から知っているオルブライトに、情が湧いていないかと言えば、自信を持って無いとは言えない。甘い見方をしていると言われても、反論は出来ないだろう。
だがそれを差し引いても、今のオルブライトに情報機関が躍起になってその動静を負う価値があるとは思えない。
「今回の協定案に絡んだ疑惑だって、ほとんど嫌がらせみたいなもんだよなぁ」
誰に言うでもなく、ダニーは一人ぼっちの部屋の中で呟いた。
CIの残党なんて、今や数えるほどしか残っていない。いずれもダニーより年上か同年代、若くともオルブライトより十数歳上の人間ばかりだ。そんな年寄りをまとめ上げて、今更何ができるというのだ。
或いは、情報機関は火のない所に煙を立てて、オルブライトを追い落とそうとする腹積もりなのだろうか。
(いくらなんでもなぁ・・・)
情報機関もそこまで暇ではないだろう。そもそも、それをしなければならない理由も思い当たらない。考えすぎることは悪いことではないが、この想像は合理的でないようにダニーには思えた。
(なんにしても、やることは変わらない。情報機関にオルブライトの情報を渡して、人畜無害なただの金持ちであることをアピールし続けるだけだ。そんで、あの殺し屋には仕事をさせないで帰ってもらう)
考えを整理しながら、ダニーはふと、新聞が玄関のポストに挟まったままであることに気づいた。
まだ今日は新聞を読んでなかったな。ダニーは疲労で重くなった身体を椅子から引き剥がし、ポストに挟まった新聞を取った。
一面の見出しは、セルツランドで外国からの移民に反対する抗議活動が暴徒化したというニュースだった。
外国からの移民の一部が、テロリストとして移民元の国に戻り、実際に事件を起こしたことが引き金になったと新聞は伝えていた。
他にも、その移民元の国を拠点とする、武器の秘密売買に関わる組織の存在も取り沙汰されていると記事にはあった。
(セルツランドにもあっちからの移民が来るようになるなんて、時代だな)
記事に目を通すダニーの頭の中で、幼い頃に食い詰めて移り住んだ新大陸での日々がフラッシュバックした。
叔父の会社が同じ北セルツランド系移民のギャング組織と懇意にしていたせいもあって、自分もガキなのにギャング扱いされたことがあったなと、ダニーはしみじみ思い出した。
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