第3話 スパイ ダニエル・フランクリン
ダニエル・フランクリンが北セルツランドから大陸の方へ移住したのは、彼が5歳の頃だった。
父が職を失い、大陸で事業を行っていた兄、ダニーにとっては伯父にあたる人物を頼ることになったのが、移住の理由だった。
高校までを大陸で過ごしたダニーは、大学進学とともにブリタニカへと戻るが、進学したのは北セルツランドではなくブリタニカ本島の大学だった。
大学で法学を専攻する傍ら、警察官になる道を探っていたが、残念ながらその目的は叶わなかった。その代わり、その年に特に募集の多かったブリタニカ陸軍へ入隊することとなった。
軍人としてのキャリアを歩み始めたダニーに転機が訪れたのは、入隊から3年が経った頃のことだった。
その日の訓練を終えたダニーは、帰宅の準備を始めていたところで上官に呼び出された。特段呼び出されるような事に心当たりは無かった。不安と緊張を抱えたまま、ダニーは上官の部屋のドアをノックした。
「入れ」
部屋の奥から聞こえた上官の声に身を引き締め、ダニーは失礼しますと言ってドアを開けた。
「すまないな、帰り際に急に呼び出して。お前に出向の話が来ている」
部屋に入るやいなや、上官はそう言いながら目の前のテーブルに書類を数枚広げ、ダニーにイスに座るよう促した。
「はい、失礼致します」
ダニーが席に着くのを確認すると、上官は書類の一枚をダニーの方に向けた。
「情報機関の方から、人事交流の話が来ている。何故かお前をご指名で、人事交流と言いながら向こうからは誰も来ない。これは事実上の出向辞令だと考えてくれ、断ることは出来ない。が、形式的だが一応お前の意向は確認しておく」
上官が矢継ぎ早に放つ言葉のすべてを消化しきれたわけでは無いが、Noと言うことはあり得ないとわかっていたダニーは、立ち上がると敬礼の姿勢を取った。
「お受けさせていただきます」
「そうか、では明日からよろしく頼む。明日はいつも通りここに来るように。詳細はその時に説明する。以上だ」
そう言うと、上官は書類を回収して自分の机に戻っていった。ダニーは再び敬礼すると、足早に部屋を出て行った。
情報機関が軍人をリクルートする話は無くはない。だが、余り多い事例ではない。しかも向こうは自分を指名してきたという。一体どこに目を付けられたのか、ダニーには思い当たる節が全くなかった。
だが軍人である以上、よほどの緊急事態でない限り上からの指示にNoを言うことなどあり得ない。任務を与えられた以上、それを遂行する以外に無いのだ。
翌日から、ダニーはそれまでに無いハードな日々を送ることになった。
一週間のうち三日ほどは通常通り軍人としての訓練を受けていたが、残りの日や訓練の合間に、諜報員としての特殊な訓練や教練を受けるという、身体にも脳にも負荷の掛かる作業をこなさなければならなかった。
しかし、ダニーは持ち前の根性と適応力の高さで、彼自身がこのカリキュラムでは一ヶ月と持たないと思っていた生活を、いつの間にか一年も続けていた。
そして当初の人事交流期間が終了した時には、彼はブリタニカ陸軍所属のまま情報機関付の人間として仕事を行う、特異な立場の軍人となっていた。
そんなダニーが諜報員として最初に、そして生涯にわたる仕事の場として携わるようになったのが、彼の故郷でもある北セルツランドだった。
北セルツランドは、ブリタニカの隣に浮かぶセルツランド島の北部に、飛び地のように存在するブリタニカの領土だった。
かつて、ブリタニカの植民地だったセルツランドが共和国として分離独立を果たした際、ブリタニカ出身者の多かった島北部の一部地域が、セルツランド共和国への合流を拒否してブリタニカに留まった。
これが現在の北セルツランドの始まりである。その帰属を巡っては、ブリタニカ残留派とセルツランド合流派との間で軍事衝突やテロリズムを伴う抗争が繰り広げられてきた。
【親が子を売り、子が親を撃つ】と形容されるほどの苛烈な抗争の中で、北セルツランドの人々は心身ともに激しく消耗していった。
ダニーが北セルツランド での仕事に従事していたのは、まさにこの紛争の只中にある頃だった。何より、幼少期をこの場所で過ごしたダニーにとって、紛争は他人事ではなかった。
あそこの家はセルツランド派、こっちはブリタニカ派。そんな会話が、ダニーの通う幼稚園でも聞かれていた。子供たちの間にすら紛争が持ち込まれるような、そんな環境でダニーは育ってきた。
彼の父が仕事を失ったのも、遠因は紛争にあった。父はブリタニカ派の経営者とセルツランド系の労働組合との間に立たされて、最後は泥を被らされる形で会社を追われたのだ。
ダニーは自分が諜報員の仕事を任されたことに、そして初めての仕事場が北セルツランドになったことに、何か運命のようなものを感じていた。
この紛争を、どんな形であれ終結させなければならない。そのためには、どんな汚れ仕事を押し付けられても構わない。彼の心には幼い日の紛争の記憶とともに、そんな覚悟が芽生えていた。
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