第2話 老スパイ
「あいつらは情報機関の人間か?見ない顔だな。まぁ、一線退いて随分経つから、顔ぶれも随分変わったんだろうし、知らない奴がいても不思議じゃないか」
所々に汚く淀んだ水たまりのある裏路地を歩きながら、ダニーは愚痴るようにそう言った。
「なんにしてもまるでなっちゃいない。二人分で1、2泊程度の荷物を入れられるスーツケースを持って、ご丁寧にブリタニカ・エアウェイズの預かり荷物を示すバンドを巻きつけてるところまではいい。ただそこまでするなら、実際にスーツケースに荷物を詰めとけって話だ。あんなに軽々持ち運ばれたんじゃ、怪しくて目につくさ」
それになと、ダニーは水たまりに足を突っ込まないよう足元に注意を向けながら話を続けた。
「北セルツランドはブリタニカの一部なんだ。公用語はブリタニカ語に決まってる。メニューはセルツランド語で書かれてると思ったのかね、あいつらは。片割れの方が翻訳アプリを起動しそうになってたのを見た時は笑ったよ」
あの距離からそんなことまで確認出来たのかと、連れ立って歩く男はどこか感心したようにダニーを見た。
「それに、俺が情報機関の人間だって言ってやった時のあの狼狽えっぷり。あれじゃためだな。常連客がわけのわからんことを言っているくらいの反応をしないと。あいつらがあんたのお目付け役なら、巻くのは簡単そうだ。しかしその様子だと、あんたも連中の顔は知らなかったようだな」
「監視は付くだろうとは思っていたが、誰になるかまでは知らされていない」
ダニーの問いかけに、男は表情を変えることなくそう答えた。出会った時から一貫して感情の変化を見せないこの男に、ダニーは気味悪さと興味関心の両方を掻き立てられた。
「ほら、ここが俺の今の住処だ。まぁこの年だから、ここが終の棲家になるんだろうけどな」
裏路地を抜けて、車通りのあるやや大きなストリートに出ると、ダニーはすぐ横にあるレンガ造りのメゾネット住宅を顎で示した。
「残念ながら、上の洒落た家は大家の物で、俺はこの半地下を間借りしてる。日当たりは最悪だが、そこそこ快適だよ」
そう言うと、ダニーはジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま半地下へ続く階段を降りた。男はその後に続き、二人で家の中へ入った。
家の中は薄暗く、昼間でも灯りなしには過ごせそうになかった。部屋は奥に向かって長くスペースが取られている。家具はシングルベッドとポールハンガー、小さなキャビネットとその上に小型のテレビが一台。
部屋の奥にはイスとテーブルのセットが一組。台所はあるがあまり使っていないようだ。足元に小さな冷蔵庫が申し訳程度に置かれている。
整頓されているというより、生活の痕が感じられないと言った方がいいかもしれない。誇張なしに、ただ寝に帰るだけの部屋といった風情だった。
「そこに掛けてくれ、それと、コーヒーでいいか?」
部屋の灯りを調整しながら、ダニーは男に向かって尋ねた。
「なんでも構わない」
愛想の無い声で男はそう返すと、部屋の奥の壁際に置かれたイスに腰を下ろした。ダニーはケトルで湯を沸かしながら、男にまた声を掛けた。
「まだあんたの名前を聞いて無かったな。情報機関からはダニエル・オルブライトの監視役として、適任者を一人派遣するとしか聞いてない。名前も来歴も、俺はあんたの事を何一つ知らないんだ」
ダニーはパブにいる時のように大げさに肩をすくめて見せた。
「アルバだ。そう呼んでくれていい」
「そう呼んでくれってことは、本名じゃないな。まぁいい、俺はダニエル・フランクリンだ。本名と思うかどうかは勝手に決めてくれ。とっくに俺の資料には目を通しているんだろう」
粗く挽かれたコーヒー豆に湯を注ぎながら、ダニーは言った。アルバは何も言わず、相変わらず難しいことを考えているような表情で、足を組んだままじっとダニーの方へ視線を向け続けていた。
「そんな怖い顔で見ないでくれよ。これから一緒に仕事をするんだ。仲良くやろう」
コーヒーを入れた二つのマグを手に、ダニーはアルバのもとへやって来た。そしてそれをテーブルに置くと、自分はベッドに腰を下ろした。
「にしても、アルバか。アルバはラテン語なら“白”、ビタロス語なら“夜明け”とか“暁”とかだったな。そういや、ゲールランドの古い呼び方もアルバだな」
ゲールランドは、ブリタニカ島北部の地域で、ブリタニカ連合王国に属しつつ、独自の自治政府を持つ地域だ。独立は果たしていないが、セルツランドに近い境遇にある。
「だがアルバは女性名詞だ、男でアルバは変わってる」
ダニーはアルバにそんな雑談を仕掛けたが、アルバはまるで石膏の像のように冷めきった表情のまま、じっとこちらを見るばかりだった。
もはや意識は仕事へと向かっているのだろう、無駄な時間は過ごしたくないようだ。
「それじゃ、まずはあんたが情報機関から伝えられてる情報を教えてくれないか。不足や伝え漏れがあったらよくないからな」
ダニーの目付きが、さっきまでの気の良い老人のそれから、抜け目ないスパイのそれに変わっていた。
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