エピソードⅡ Goodbye, Uncle Danny

第1話 ダニー爺さん

 ベルフォートの老舗パブ『ケットシー』に、ここ数年の間、営業日にはほぼ欠かさず姿を見せる老齢の男がいた。


 寒い季節にはくたびれた革製のジャンパーを、暑い時期には質素なリネンのシャツを着て店を訪れるが、頼むのはいつも決まって1パイントのスタウト、そして座るのは通りのよく見渡せる窓際の席だった。


 パブの常連は老人のことを、親しみを込めて『ダニー爺さん』と呼んでいる。本人がダニーだと自己紹介をしているし、名前以外その老人についての情報を知る者がいないから、皆この老人を『ダニー爺さん』と呼ぶ以外どうしようもなかった。


 何人かの客が興味本位にダニー爺さんの来し方や昔話に水を向けてみても、いつも適当なことを言われ、煙に巻かれて終わってしまう。


 自分は昔、遠洋漁業の漁師だったとか、警官官だったとか、俳優をやっていたなんてことを言っていた日もあった。


 適当なことばかり言うダニー爺さんに、先週あんたが言ってたことが違うじゃないかと指摘する者もいたが、そんなときダニー爺さんは決まって大袈裟に肩をすくめ


「そんな昔のことは忘れたね」


 といって、残りのスタウトをあおって顔を赤くする。そうして、若い時の話は覚えてるのにか?などと皮肉を言う客にさよならを良い、店を後にするのだ。


 そんな調子で数年が経つ頃には、この奇妙な老人の話を真面目に聞く者など居なくなっていた。それどころか、もうダニー爺さんはボケているのだろうと遠慮なく言い合う始末だった。


 そんなダニー爺さんが連れを伴って店を訪れたのは、秋も深まって寒さの足音がすぐそこまで聞こえる、11月の始め頃だった。


「ごきげんよう、いつものを。あんたもそれでいいな?」


 ダニー爺さんは愛想よく店主に挨拶がわりの注文を入れると、振り返って連れに訪ねた。


「あぁ」


 ダニー爺さんの連れは、低く落ち着いた、そして愛想のかけらもない声でそう答えた。ダニー爺さんは店主に向かって小さく肩をすくめると、よろしく、と言い残していつもの自分の席に歩いていった。


 黙ってあとに続く連れは、見た目からして外国人らしい、背の高い男だった。


 黒のチェスターコートが妙に様になっているが、それ以上に客の目を引いたのは、男のくすんだベリーショートの灰色の髪と、それ以上に濃い灰色の瞳だった。


 およそ感情というものを読み取ることのできない、底なしの深い灰色。店の常連である元警察官の男は、現役時代の癖で思わず職務質問をかけたくなるのをどうにか堪えた。


 ダニー爺さんは男を自分の前の席に座らせると、二人分のスタウトを持ってきた店主に礼を言った。それから財布を出そうとした連れを手で制して、自分のポケットから裸の紙幣を出し店主に渡した。


「まぁ、ここは俺の家みたいなところだからな、客人には出させんよ」


 そう言うと、ダニー爺さんは目の前のテーブルに置かれたジョッキを手に取り、いつも通り年齢を感じさせない呑みぶりでスタウトを流し込んだ。


 連れの男もそれに倣うように、無言でジョッキに口をつけた。大人しい呑み姿だったが、ジョッキから口を離したときには、ダニー爺さんと同じくらいスタウトは減っていた。


「いいじゃないか、奢った甲斐がある」


 ダニー爺さんの満足げな顔とは対照的に、男の方は少しも表情を変えず、口を開いた。


「こんなに人の目がある場所に呼びつけるのはどうなんだ。話をするのに相応しいとは思えないが」


 男は店内を見回しながらそう言った。彼と目があった客の一人が、思わず手にしていたナッツを床に落としてしまった。


「安心しな、大事な話はここじゃしないよ。これから一緒に仕事をするあんたの歓迎会だ」


 そう言うと、ダニー爺さんはジョッキを男の方へ突き出した。男もそれに合わせて自分の分のジョッキを突き出すと、乾杯のポーズをとりスタウトをあおった。


 その時、パブの扉が開き、一組の男女が入って来た。観光に訪れたと思しきそのカップルは、二人分の荷物が入っているスーツケースを引きながら、入り口近くの立ち飲みのテーブルに着いた。


 ただ、注文をしようと壁際に掛けられたメニューを見ながら、困惑したように顔を見合わせていた。


「おいダン、あんたのブリタニカ語が汚ぇから、お客さんがセルツランド語だと思って困ってるぞ。メニュー表出してやれよ!」


 ダニー爺さんの声が飛んだ。驚いたようにこちらを振り返る男女のもとに、店主が慌ててメニューを持って行った。


 ダニー爺さんはにやけた顔でその様子を見ながら、いつの間にかスタウトのジョッキを空にしていた。そして気分が良くなったのか、パブの客たちに向かって空のジョッキを掲げて声を上げた。


「こいつは俺が昔勤めてた情報機関の後輩だ。ブリタニカの現役のスパイだぞ!」


 連れの男を指差しながら愉快そうに笑うダニー爺さんを、客たちはいつものアレが始まったとばかりに、苦笑いしながら見ていた。


「昔っていつだよ。この間はシェイクスピア劇の俳優って言ってたろ?」


 誰かが呆れた声でそんなことを言うと、それに続くように方々から笑い声が上がった。


「そんな昔のことは忘れたね」


 ダニー爺さんのいつもの一言が店内の笑い声の中に溶けて行く。連れの男はその様子を例のごとく表情一つ変えず眺めていたが、不意にダニー爺さんが男へ顔を近づけると、神妙な顔で囁くように言った。


「あそこの二人の注文、もうすぐ来そうだ。出ちまおうぜ」


 ダニー爺さんの指差した先には、さっきの男女二人組の観光客がいた。ダニー爺さんがジョークを飛ばした時、どこか緊張した面持ちでこちらを見ていたのには男も気づいていた。


 男はジョッキを手にして、スタウトを一気に飲み干すと、常連たちに挨拶をしながら店を出ようとするダニー爺さんの後に続いた。


 その様子を、例の観光客二人が焦った様子で見ていたが、そのタイミングで店主が二人の注文を持ってきた。


「ダンは初めての客には、フィッシュ&チップスをサービスしてやるんだよ。急いでるときに、可哀そうにな」


 店を出たダニー爺さんが笑いを噛み殺しながら言った。


「行こうか、俺の住処はすぐそこだ」


 ダニー爺さんはそう言うと、すぐにでも店を離れたいのか、そそくさと小さな路地の奥へと入っていった。

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