09.開花



「して、その後はいかがですかな」


「あ。大丈夫です。もう彼らを観察するのは止めましたし」


ランプレヒトに先日の一件以降問題ないか訊かれたので、ユーディットは安心させるように現状を答えた。

あの日の出来事があって、ユーディットは薔薇妄想の観察対象からあの男子生徒たちを外した。彼らもユーディットに気付くと避けるようになったので、観察しづらくなったのも要因ではある。だが、それよりも自分が彼らが対象だと楽しく妄想できなくなったことの方が大きかった。それに、彼らを見ると、ランプレヒトが自分のために怒ってくれたことを思い出すため、妄想するのが困難になった。

大丈夫だと笑うユーディットに、ランプレヒトの方は不満げだ。


「某はまだ腹に据えかねます。ユディ殿は復讐したいなど希望されないのですか?」


「そんな大げさな……、私はレヒト君が怒ってくれただけで充分すぎるほどです」


報復をしたがるランプレヒトに、ユーディットは苦笑する。そもそもそこまで傷付いてすらいないのだ。そんな相手に報復を目論もくろむなど、過剰である。しかし、ランプレヒトはそうは思わないらしい。


「ああいう無意識下で女性を軽視している輩には灸をすえた方がよいと思いますぞ。完膚かんぷなきまでに……、そうエロ同人誌のように!!」


「エロ……、どういう意味ですか??」


聞き馴染みのない言葉にユーディットは首を傾げる。知らない言葉だが、不穏さだけは読み取った。きっと何かよくないことなのだろう。


「母が、父を侮辱されたときに呪詛じゅそのように呟くのです。自分に文才があれば、相手をエロ同人誌のようにしてやるのに、と」


ランプレヒトの母親は普段は淡々としており、怒ることなどほとんどないという。しかし、若くして騎士団長の地位にのぼりつめた父親には、少なからず嫉妬や僻みをもつ者がおり、社交場で遭遇することがあるそうだ。夫が傍にいないときは、壁の花になるのが得意なランプレヒトの母親は、そういった手合いの声を拾うことがときどきある。そのため、帰ってきたときには静かに憤怒の炎を燃やしていることがあるのだ。


「殺意よりおぞましい気配からして、間接的凌辱手段かと」


「……察しはつきましたが、愛し合う者同士で心通わせたうえで睦み合ってほしいので、一方的な薔薇妄想はちょっと」


文才の有無以前に、そのような妄想がユーディットにはできない。ユーディットの薔薇妄想は睦み合いにまで発展する場合があるが、あくまで推しカプの幸せを願ったゆえの結果論である。難題に、ユーディットは眉を寄せる。


「そういえば、ユディ殿は自身で執筆しようと思ったことはないのですか?」


「え」


ランプレヒトの母親は、彼女と同じく薔薇嗜好の持ち主であるが、執筆には至っていない。だが、試みたうえでの判断である。彼の母親は文才がありはしたが、評論向きで物語を紡ぐには不向きであった。ランプレヒトは幼少の頃に、母親が残念そうに呟くのを耳にした。

なので、彼にとってはありえることだという考えだったが、ユーディットには寝耳に水の案であった。自身の妄想を書き起こすという発想はなかった。


「原作で叶わないことは己が手で叶えればいいのです。そうすれば、リフの生存イフも捏造でき、ユディ殿の心もいくらか救われることでしょう」


「生存イ、フ??」


「物語で死ぬ運命の人物がもしあのとき死なずにすんだら……、という仮定を想定することです。死ぬまでにいたらなくとも、不遇なく育った場合や、不幸にならなかった場合などでも仮定妄想イフは有効です。救われぬ推しを妄想の中だけでも救済する措置ですな」


「なら、リフ船長が望んでいた立派になったメーアに首領ドンの帽子を被せることも……!?」


「生存イフなら可能です」


希望を見出して瞳を輝かせるユーディットに、ランプレヒトは力強く頷いて肯定した。

メーアの海では海戦の最中にリフは戦死する。リフを目標としていたメーアはぐしゃぐしゃに泣き、死の淵にいるリフはその顔をみて可笑しげに笑って逝くのだ。海賊の風習ならいで、首領の帽子が先代から当代に被せることで継承の儀とする。負傷により身体が思うように動かず、その継承の儀をできないことだけを悔やんで、リフは息を引き取った。

何度読んでも、ユーディットはそのシーンは涙なしには読めない。あのときリフが九死に一生を得ていれば、と願わずにはいられないのだ。


「今でも思い出すと涙ぐまれるでしょう。某は見れられません」


「その節はお世話をかけました……」


男子生徒とのひと悶着のあと、ランプレヒトと二人きりで落ち合うのは実はこれで二回目だ。一回目は、リフが戦死する巻を読んだ直後だったため、ランプレヒトは泣き崩れるユーディットを宥めるのに終始した。推しの負傷どころか推しが亡くなってしまったため、ユーディットは脈石の騎士のエンディミオン失明時以上に悲嘆に暮れていた。ランプレヒトが何度か涙を吸い取っても気付かないほどに。宥めてもらっていたときのことを思い返すと、ユーディットは火が出そうになる。彼のことになると、どうしてこうも学習しないのだろうか。

ランプレヒトは動揺する相手であるが、泣きたいときに頼りたくなるのも彼であるというのが厄介だ。彼の耳元で鈍く密やかに光る百合の花こそが、どれだけ弱みをみせても嫌われないという安心材料となっている。

醜態をさらす羞恥は当然あるが、お互いの嗜好を知っているため今さらな話でもある。彼に甘えてしまう自分を駄目だと感じるが、彼が傍にいるかぎりこの駄目な部分は治らない気がする。

ならば、羞恥にも慣れればよいのだろうが、こればかりは何度経験しても恥ずかしいものは恥ずかしかった。

火照ほてる頬に指が長い手が触れ、片頬がすっぽりとおおわれる。


「見ていられないと言ったそばから……」


「っな、ななな泣いてません!!」


頬が熱くなっている理由を誤解したランプレヒトが、テーブルから乗り出して顔を近付けてきたものだから、ユーディットは慌ててり距離をとった。向かいの席でテーブル越しの距離だったのに、気が付いたら至近距離に彼の顔があったので、ユーディットは心底驚いた。彼が涙を拭うときに使うのは手ではないと知っているからだ。

しっかりと眼を見開いてこちらをみるユーディットは確かに泣いていなかった。それならばいいと安心したランプレヒトは、席に座り直す。ユーディットの方も、元の距離に戻り、安堵の吐息をいた。

とりあえず、自身への救済措置としての執筆ができそうか、ユーディットは考えてみる。自分のためを思ってされた提案だ。一度検討してみる価値はある。これまでこうだったらいいなという妄想はいくらでもしてきた。けれど、いざ文章へと落とし込もうとすると具体的な書き出しが浮かんでこない。映像で浮かんでいる妄想を、文字へと変換するのは存外難しかった。読むときは自然と情景が浮かぶというのに、逆のことができない。


「……どうやら、私も物語の文才はなさそうです」


「では、ユディ殿も書かせる側に回りませんか?」


「それは、どういう……?」


「某も母親ゆずりで評論向きのようですので、将来は教育機関に就職して識字率の向上を図ろうと思うのです」


自分で書けないのならば、書ける人間が生まれやすい環境を整えればいい。平民でも、魔力量が一定量あれば王立魔導学園に入学することができ、貴族の多い騎士団だけでなく軍でも書類仕事があるため読み書きを習得することが可能だ。近年は、教会が運営する孤児院で読み書きを教えるのが通常化しており、孤児院出身の者が教職や神職に就いて、一般の人々にも希望する者に文字を教えるようになった。

ランプレヒトたちの暮らすアーベントロート国の識字率は年々向上している。しかし、彼にはまだ足りない。平民も気軽に本を読んで楽しめるぐらいにならなければ。文字を知る人数が多ければ、文学の幅も広がる。平民向けの娯楽性に富んだ作品も増えてゆくことだろう。そうして、読む人間が増えた分だけ書く人間も増える。なかには、最初から薔薇嗜好や百合嗜好向けの物語を書く者もあらわれることだろう。

ランプレヒトは自身の百合嗜好が珍しいと自覚はしている。けれど、一人いれば二人いても奇怪おかしくはない。今は単に百合嗜好への門が狭すぎるだけのこと。物語の世界に触れる人数が増えるに比例して、百合嗜好に目覚める確率があがる。


「そんなにうまくいくでしょうか?」


「何、数うち当たるというものです。沼があれば人は勝手に落ちます。落とそうとするのではなく、ただ、沼ができやすい環境を整えればいいだけのこと」


一度目覚めた嗜好は一生ものだ。生涯を通せば、為せば成ることだろう。

壮大なのか大さっぱなのか判断がつきかねるランプレヒトの野望をきいて、ユーディットは目を丸くする。彼女自身も薔薇嗜好をいつか卒業するという未来が予想できないので、同じく一生付き合ってゆくのだろうと思っている。きっと彼は一縷いちるの可能性を諦めない。彼が諦めないでいるなら、そんな将来も叶いそうだ。


「そんな世界になったら、素敵ですね」


既存の物語から薔薇や百合をひっそり捏造するのではなく、書店に薔薇や百合専門の本がある世界。万人に向けた本や学問の専門書だけではなく、嗜好においても限られた者のための本がある多様性に富んだ本棚は、想像するだけで夢のようだ。現実になったらユーディットも嬉しい。

後世を育てる動機が不純でしかないランプレヒトだが、その熱意は並々ならぬものである。


「なら、私は……」


誰もが物語に触れられる世界にするために、自分は何ができるだろう。ユーディットは考えてみる。彼と同じ教育機関を目指すのも悪くないが、多くの人の前にでることは苦手だ。どちらかというと裏方の仕事がいい。


「本を増やしてみたいな」


印刷技術の向上なり、出版業の興進を支援するなり、やりようはいくらでもある。ユーディットの家は伯爵家で、多少は資金の融通が利くから投資をしてみてもいい。けれど叶うなら、卒業後は自身で支援したい業種で働いてみたい。

将来のことをここまで具体的に考えたことはなかった。そもそも自分のような器量と人間性で嫁ぎ先が見つかるのかすら疑問だったからだ。将来への希望を固めてみると、貰い手がなくとも自身で働けばいいのではないかと、これまでより未来を楽観視できた。


「それも楽しそうですな」


「ですよね」


良い案だと同意を得て、ユーディットは微笑み返す。そのまま和やかな雰囲気で落ち着くかと思いきや、ランプレヒトは笑みを崩さず断固として曲げる気のない意見を述べた。


「では、他の報復手段でざまぁしましょうぞ」


「ざ、ざまぁ……」


ランプレヒトの笑みの種類が不穏なものへと変わったので、彼のいうざまぁなるものが復讐のことだとユーディットにも判った。どうやら、彼はユーディットを傷付けた相手を許す気はないらしい。自分のことだというのに、ランプレヒトの方が根に持っているというのはなんとも可笑しい話だ。

ユーディットは会ったことはないが、ランプレヒトは彼の母親と似ている。先ほど話に聞いた彼の母親の怒り方と今の彼は同じだ。非難された本人以上に憤っている。

止めることは叶わないと察したユーディットは、どうするのか訊ねる。すると、すでに代案が浮かんでいたらしいランプレヒトは、すらすらと答えはじめる。


彼奴きゃつらが格下と思い知らせるために、開花のうたげを利用しようかと」


「三学期にある?」


開花の宴とは、卒業生の門出を祝い学園内で催される舞踏会のことだ。今は二学期で冬期休暇まであと少しというところ。いささか先の予定となる。


「物語の様式美にならって、宴でユディ殿の美しくなった姿を披露し、度肝を抜くのです!」


「え。私が?」


「ユディ殿の顔立ちは化粧映えすることでしょうから、彼奴らに一泡吹かせることもできましょうぞ」


自分が何かするとは思っていなかったユーディットは慌てる。どうせ壁の花が関の山で、むしろそれがいい彼女は、これまでダンスなどの腕を磨いてこなかった。最低限しか覚えておらず、場数もないに等しい技量ではたとえ着飾ったとしてもボロがでる。


「化粧やドレスもですけど、それだと一番の不安がダンスで……」


「大丈夫です。リゼ先輩に頼めばいいのです」


持つべきものは友人だと笑顔でランプレヒトは宣う。しかし、それは用途が違うのではないかとユーディットは思った。

そんな訳で、冬期休暇中はリーゼルからダンスを教えてもらうことになった。突然の頼みであったのに、リーゼルは快くダンス指導を受けてくれた。しかも、ドレスの手配もしてくれ、化粧などの当日の身支度も彼女の侍女がしてくれるという。

手本としてリーゼルがハルトヴィヒや彼女の兄相手に踊ってみせてくれるので、ユーディットには眼福であった。日頃から仕草の綺麗な女性だと思っていたが、容姿端麗な男性にリードされているというのに、彼女は見劣りしなかった。練習なのでドレスだって華美ではない。それでも、彼女の存在はかすむことがない。どうターンすれば綺麗にスカートがひるがえるのか、どれだけ背筋を伸ばし顎を惹けば静止したときの姿が美しくみえるのか、そういったことが全身に染みついているのだろう。

こうした教養の質の高さを肌で感じるたび、彼女が公爵令嬢なのだとユーディットは実感する。普段がとても朗らかなので彼女の身分の高さに畏縮することはないが、ここぞというときの姿に思い出すのだ。

帰宅後の課題もだされるので、リーゼルの指導は甘くはなかった。けれど、手本でみせてもらった彼女の姿に憧れるし、できるようになったことは都度褒めてくれるので、ユーディットも頑張れた。

開花の宴の際のエスコートおよびダンス相手は必然的にランプレヒトに決まっているのだが、彼は練習には参加していない。なぜかエルメントラウトが、危ないと反対した。そのため、練習の際に相手が必要なときは背の高いエルメントラウトが男性パートを踊ってくれる。目の前に色香ある顔と男性にはない弾力が当たるため、彼女と踊る男性は大変だとどぎまぎしてしまった。ユーディットには当たるほどの弾力はないので、きっとぶっつけ本番であってもランプレヒトを煩わせることはないだろう。


「けれど、こんなにお世話になっていいんですか?」


エルンスト公爵邸でのダンス練習の合間に、ユーディットはリーゼルに訊ねた。


「うん。むしろ、助かったぐらい」


嬉しそうにリーゼルが頷くので、ユーディットは首を傾げる。頼っているのは自分の方なのに、なぜリーゼルが助かるのだろうか。

理由をきくと、リーゼルの侍女が化粧の腕を磨いているのだが、彼女が薄化粧しかしないため活かす場がなく困っていたらしい。

過保護な兄がいるためリーゼルがダンスする際の相手は、その兄か幼馴染のハルトヴィヒに限定される。そのどちらも容姿が抜きんでているため、彼ら相手に見劣りしないようにと侍女は化粧の腕をあげたそうだ。しかし、リーゼル自身が印象が変わるほどの化粧を施されることを望んでいないため、得た技術を発揮する機会がこれまでなかった。そのため、今回の周囲を見返せるほどの変貌が必要だというユーディットからの依頼は、渡りに船であった。

確かに、自分に合う化粧を探すため試行錯誤するリーゼルの侍女は、とても闘志に燃えた様子であった。異様に力が入っていた理由に、ユーディットは納得する。


「せっかく私のために覚えてくれたのに、申し訳なかったの」


「どうして、リゼ先輩は控えめのお化粧がいいんですか?」


「私、自分の顔が好きだから」


リーゼルは当然のように微笑んだ。


「お兄ちゃんの世界一は言いすぎだけど、家族が好きだって言ってくれるこの顔が私はいいの。綺麗なハルの隣にいるために、同じだけ綺麗になるよう頑張るんじゃなくて、ハルが可愛いって言ってくれた私で胸を張っていたいんだ」


リーゼルは父親譲りの顔で、特別秀でた容姿ではない。だからこそ、彼女の父親はリーゼルに伝えていた。

家族で大事だから、というのももちろんある。けれど、家族からの可愛いに嘘はない。だから、周囲の言葉で自分を卑下せず大事にしてほしい。もし、それでも自分を大事にするには足りないなら、家族以外に可愛いといってくれる人が現れるまで保留にしよう。そして、一人でも可愛いといってくれる男の子が現れたら、素敵な女の子だって自分を信じるんだ。

家族の愛情を疑っていないリーゼルは、そう父親にいわれたとき、自分の容姿の価値については半信半疑だった。だから、結論こたえを保留にするというのは、納得のできるものだった。父親のいうような異性が現れるかはわからないが、家族のくれる可愛いを素直に喜ぼうと決めた。大好きな家族の言葉を否定するのはもったいないから。

そうして父親と指切りをしてから、ハルトヴィヒと幼馴染になった。彼はリーゼルよりずっと綺麗で、それを本人も解っていた。親しくなってから、彼に可愛いといってもらえたときは嬉しかった。彼は正しい審美眼をもっていて、親しい相手だろうと世辞ではなく率直な意見をいう。彼の可愛いは信じれた。大事な相手の言葉を否定しないために、リーゼルはありのままの自分で誇る道を選んだのだ。

相対的価値を重視するのも、個人的価値を重視するのも、きっとどちらも間違いではない。リーゼルは大事な人間の価値を優先しただけで、ユーディットがこれから周囲の価値基準に合わせて美しくなろうとするのも自分を大事にする手段なら正解だ。

素敵な心掛けだとユーディットは思う。しかし、気になることがひとつあり、リーゼルより向こうへと視線をやった。そこには、彼女の隣に立つハルトヴィヒが。この日の練習には彼もいたのだ。

こんなにも堂々と本人を前にしていってもよいのだろうか。リーゼルはユーディットの方に向いていて気付いていないが、彼は何かを堪えるように片手で口元を覆い、眉間に力を入れて目を瞑っていた。

ユーディットに判るのは、今盛大に惚気のろけられたことだけ。これで付き合っていないとはこれ如何に。とりあえず、供給でしかないのでユーディットは拝んでおくことにする。

拝まれたリーゼルは小首を傾げ、後輩の奇行を見慣れ始めたハルトヴィヒは若干心が凪いだ。


「お団子こそ、巻き込まれた割に頑張るじゃねぇか」


「え」


「これ、どっちかっていうとレヒトくんのお願いだよね?」


ユーディットも同伴したが、リーゼルたちに頼んできたのはランプレヒトの方だった。きっかけ自体はユーディットのようだが、彼女がランプレヒトの計画に乗り気という訳ではないことに、リーゼルは気付いていた。なんせ、ドレスデザインを決めるにしても、髪型や化粧の方向性を決めるにしても、彼女のなかでなりたい姿が定まっていなかったからだ。そのため、いくつか試して彼女に似合う候補を選んでは都度彼女の意向を確認するということをした。そのような様子なので、彼女がダンスの練習を熱心に頑張るのがリーゼルたちには多少不思議であった。


「それはそうなんですが……」


なし崩し的な状況で努力する理由を明かすか、ユーディットは悩む。他人に明かすには、いささか恥ずかしい理由なのだ。

自分のために怒ってくれるランプレヒトの気持ちが嬉しくはある。しかし、ユーディットが頑張ろうと思ったのは、彼の気分を晴らしたいなどの善意ではなく、もっと個人的なものだった。

人差し指同士を押したり、絡めたりしながら、ぽつりぽつりとユーディットは本音を零す。


「その……、最近レヒト君といると心臓に悪いことが多くて、でも、レヒト君はいつも通りで……、なんだかちょっと悔しいなぁっていうか、ほんの少しレヒト君にもびっくりしてほしくて……」


自分はランプレヒトの行動に心臓が慣れきることはないのに、彼は出会った頃から調子が変わらない。多少、積極的な態度に変わりはしたが、彼が焦ったり慌てたりするのをユーディットはみたことがない。そうなるのは、いつもユーディットの方だ。

その事実に気付いたら、少しばかり悔しくなった。ユーディットには、ざまぁをする予定の報復相手のことはどうでもよく、ダンスの腕を磨いて着飾ったら少しぐらいランプレヒトが動揺してくれないか、と思った。

個人的な理由で他人を驚かせたいなんて、口にしてみるとなんとも幼稚で、ユーディットの頬はほんのり照れに染まる。


「そっか」


けれど、リーゼルはそれを揶揄することはなかった。むしろ、彼女自身が望んで努力していることを喜んだ。


「じゃあ、レヒトくんをびっくりさせちゃおう」


「はいっ」


リーゼルに応援され、ユーディットはしっかりと頷くのだった。そうして、休憩を終えた彼女たちは残りの練習に励んだ。

ダンスの練習を終え、邸からユーディットの乗った馬車が出てゆく。その馬車を見送りながら、リーゼルは隣のハルトヴィヒへ呟いた。


「最近、レヒトくんから話しかけてくれるようになったよね」


「こないだなんて、本借りたいって頼んできたぞ」


「全部、ユディちゃんが原因なのにね」


可笑しそうにリーゼルは笑う。

ランプレヒトは自分から他人に関わるタイプではない。他人から話しかけられてもお構いなく、と自身の趣味に没頭する。リーゼルもエルメントラウトと二人でいるときに視線に気付くと、少し遠くにランプレヒトの姿があり、一緒にお茶でもと誘ってものってきた試しがない。幼馴染のエルメントラウトですら、同じ空間にいた時間こそ長けれど、彼と話した回数も時間もわずかなもの。いつも一歩距離をとったところから、こちらを観察している少年だった。

それがどうだ。ユーディットと知り合ってからというもの、彼から声がかかりもするし、頼られもする。周囲にどういわれようと自力で成し遂げようとする傾向があるだけに、その変化は顕著けんちょだった。廊下ですれ違うときもリーゼルから挨拶をしていたのに、近頃は彼の方からユーディットのことを訊いてくるのだ。

好きなことしかしない。ランプレヒトに対するハルトヴィヒの印象は、そうだった。だから、ただ見ているだけとはいえ彼がリーゼルの近くにいるのをよしと思えず、ハルトヴィヒ自身は極力関わらないようにしていた。しかし、先日はランプレヒトから珍しく頼み事をされた。ただ本を貸してほしい、という頼みだったが、彼が誰かを頼るということ自体が異例であった。十数巻ある物語を一週間足らずで読み終え、なぜか苦虫を嚙み潰したような渋面で返してきた。貸してほしいと頼んでおいて、その反応は奇怪おかしく、彼が好ましく感じない種類の本を読むという選択も異様に思えた。

ハルトヴィヒが奇怪しいと感じる彼の行動も、原因の予想だけはたやすかった。原因はリーゼルのいうとおりだろう。

馬車を見送る二人には、後輩の願いは存外簡単に叶うだろうと気付いていた。知らぬは、本人ばかりである。



開花の宴は、無礼講に近かった。生徒会役員が開始と終わりの挨拶をするが、それ以外は好きに飲み食いし、踊りたければダンスフロアで踊る、というものだ。来場のタイミングも退場のタイミングも自由。学生でいられる最後だと卒業する三年生は寛容になりやすく、彼らに憧れていた下級生が想いを告げたり、ひとときの想い出をせがんだりする。この宴をきっかけに、婚約者の決まっていない貴族や平民の男女が将来の約束を交わすこともしばしばある。

浮足立つ者もいれば、最後の機会だと緊迫した様子の者もいる。ほぼ全校生徒が集まるため、とても賑やかだった。

すでに開始の挨拶が済み、あとからきた生徒たちがぞろぞろと会場に入ってゆく。その人の波のなかに、カツンカツンとヒールを響かせる令嬢の一人がいた。そこまで高くないヒールは、背伸びをしていないあどけなさを感じさせ一年生らしいことが判る。色づいたばかりの花弁はなびらのような紅はほんのりと唇にのる程度、目元がぱっちりとして愛らしい少女だった。灰色の髪は編み込んで一方に団子を作ってまとまり、そこから余った髪がふわりと波打って肩へと流れている。白い花飾りが髪型のやわらかい印象をさらに増していた。淡い色のドレスは、オーガンジーを重ねたスカートでふわりと軽やかでいながらボリュームがある。

ヒールの足音に惹かれて振り向いた男子生徒のいくらかは、そのまま彼女を視線で追ってゆく。

ホールの受付まできた彼女は、足を止め、ようやく周囲を窺った。


「えっと……」


ランプレヒトはどこだろう、とユーディットはきょろきょろしすぎないよう注意しながら、待ち人を探す。入口で待ち合わせだと、手紙を事前にもらっていたのだ。リーゼルのダンス指導は入場の時点から気を付けるよういわれている。踊るときだけでなく、パーティーの間は誰かしらの眼があることを忘れないように、と注意を受けていた。そのおかげで、挙動不審さはないが内心では約束通りランプレヒトがきてくれるのか不安である。

そもそも、彼は自分を見つけられるのだろうか。目鼻立ちがはっきりするよう化粧されたので、ユーディット自身ですら普段と別人に思える顔をしているのだ。事前に化粧後の顔を教えていないランプレヒトが気付けるとも思えない。

ちゃり、と蔓薔薇のブレスレットを手袋ごしに握る。手首まであるレースの手袋、そのレースに咲く花の方が蔓薔薇より大きく、ブレスレットの存在がかすむ。これでは目印にもならない。

見つけてもらうことを諦めて先に会場に入ろうかと、ユーディットが入口に踏み出すと、周囲の男子生徒が声をかけようとした。しかし、彼らが彼女に声をかけるより先に、蔓薔薇のブレスレットをした手をすくい上げられる。


「エスコートさせてくださる約束でしたでしょう」


「レヒ……」


耳に馴染なじんだ声が、ユーディットの知る高さから降り、彼女はぱっと見上げた。すると、空色の瞳と目が合った。そう、視線がかち合ったのだ。

ユーディットは絶句する。初めて前髪越しではなく彼の瞳をみたこともそうだが、想定外の顔がそこにあった。ランプレヒトは前髪をあげ、片側に流している。そのため、普段なら隠れる百合のイヤーカフが目立った。瞳の色と耳元に咲く百合で人違いではないと解っているが、それでもユーディットは事態を飲み込めない。

固まる彼女に、ランプレヒトは微笑みかける。口元はよくみかけるもので、こんな表情をして自分に笑いかけていたのかとユーディットはこの日初めて知った。笑うと涼しげな目元がおだやかになる。


「…………レ、レヒト、君?」


「はい」


「え。レヒト君、なの……?」


「そうですが」


何度も確認するユーディットに、ランプレヒトは都度頷く。再確認しても変わらない答えに、ユーディットは絶叫した。


「こんなにカッコいいなんて、聞いてない!!」


「事前申告制でしたか」


それは失礼した、と容貌ようぼうの情報を共有していなかったことをランプレヒトは詫びる。


「だって、アルト先輩はああだったから、てっきり……」


「アルト兄は母親似なのです。某の顔は父親譲りでして。髪だけでなく顔も母に似ればよかったものを……大変遺憾です」


十人並みの顔立ちを羨ましがるランプレヒトには、自身の顔立ちは残念なものでしかないらしい。説明されてもユーディットは衝撃が抜けきれない。

兄弟なのでアルトゥルに似て、素朴な顔立ちだとばかり、ユーディットは思っていた。しかし、空色の瞳を縁取る目元は涼しげで知的さを感じる。鼻梁も高く、顔立ちが整いすぎて黙っていると冷たい印象を与えることだろう。手足が長く高い身長にこの顔がのっていたら、仕立て屋などは広告塔として彼に服を着てもらいたがること必至だ。今身に着けている礼服も、彼の容姿を引き立たせるものだが、彼が着れば大抵の服は格好よく映るに違いないとユーディットは確信した。

自分が着飾って驚かせる予定だったのに、ユーディットの方が彼の姿に驚かされてしまった。

ユーディットが驚いている間に、ランプレヒトに手を引かれて受付を済まし、彼の流れるようなエスコートで二人は会場入りした。愛らしい化粧を施されたユーディットに視線を吸い寄せられるなかには、くだんの男子生徒もおり、九割がた計画目標を達成していたのだが、ランプレヒトに気をとられているユーディットは存在に気付いてすらいなかった。

可憐な令嬢と、その令嬢をエスコートする長身の美男子。見覚えのない人物に周囲は囁き合う。卒業生の門出を祝うための開花の宴をする頃には、目立つ容姿の人間は一年生であろうとある程度知られているはずだ。だというのに、誰も彼女らの名前に心当たりがない。奇怪しな事態に、会場にいる生徒たちはしきりに首を傾げる。

知らない方が不思議に感じるほどの変貌を遂げたユーディットは、周囲の声が聞こえていなかった。初めてみたランプレヒトの素顔に釘付けになり、周りの反応などどうでもよかった。本人はなりたがっていないが、騎士の家系だけありエスコートがスマートだった。貴公子然としたランプレヒトは、本当に自分の知る彼なのだろうか。

驚いているのか見惚れているのかわからないユーディットは、気付けばダンスフロアまで誘われていた。

掴まっていた腕が離れ、跪いた空色の瞳が自分を見上げてくる。


「ユディ殿、某と踊っていただけますか?」


差し出された手に、迷わず自分の手を重ねる。ユーディットにはこの手を掴まないという選択肢は最初からなかった。


「もちろん」


楽団の演奏する音楽に合わせて、ホールドをして流れるようにダンスフロアへ踏み出す。彼のリードの助けもあり、ユーディットは難なくステップを踏める。相手がランプレヒトだと安心して任せられるため、練習のときよりもよほど緊張せずに踊りを楽しめた。自然と笑みが浮かぶ。


「レヒト君、ダンス上手なんですね」


「何、某もユディ殿に恥じぬよう練習しただけですよ」


朗らかに笑う彼から、必死に努力した様子は見受けられない。ランプレヒトが嘘をいうようなことはないだろうが、彼の言い方だと真実味が薄かった。


「しかし、存外早くざまぁできてしまいましたな」


「え。そうなんですか? 私、レヒト君しか見ていなかったので、気付きませんでした」


きょとんと意外さを口にするユーディットに、ランプレヒトは一瞬ステップを踏み誤りそうになり、どうにか堪えた。

わざわざ彼女の名前を呼んでダンスに誘ったのは、近くに件の男子生徒がいたからだ。受付でユーディットに視線を奪われた一人で、そのまま視界の端にいるものだから正体を明かすのも容易たやすかった。ユーディットが自分の手をとった瞬間、男子生徒が驚愕で目を見開いているのをランプレヒトはみた。選ぶ権利が自身にあるという思い上がりも、これで叩き折れたことだろう。

報復を提案したのはランプレヒトの方だが、さすがに自分しか視界に入れていなかったなんて回答がくるとは思ってもいなかった。彼女に選ばれるだけの価値を示すために容姿を整えはした。しかし、この反応は期待以上すぎる。ダンスの最中でよかった。ホールドを保つ名目がなければ、自制が利かなかったかもしれない。


「そんなことより、残念です……」


ユーディットの表情が、しょんぼりと気落ちしたものに変わる。化粧で増した睫毛まつげのためにより憂えてみえた。ランプレヒトが何か声をかけるより先に、ぱっと顔があがる。


「レヒト君をびっくりさせたかったのに、私の方がカッコいいレヒト君にびっくりされられちゃいました」


そういって情けない笑みを浮かべる。

彼女の表情も言葉も自分に考えを占められたもので、ランプレヒトは胸が詰まりそうになる。ホールドで繋がった手に力がこもりそうになった。


「それなら心配いりませんぞ。ユディ殿は、某を驚かせる天才ですから」


ユーディットよりずっと情けない笑みをランプレヒトは返した。そのはずなのに、ユーディットはその表情に魅入ってしまう。こういうときに、去勢を張らず心を晒すランプレヒトを凄いと思うし、晒す相手を自分に選んでもらえたことがとても嬉しい。

どんなに彼の身体が大きくとも、ランプレヒトが自分と同じ歳の男の子なのだと、ユーディットは実感した。


「受付で声をかけるのが遅れたのも、某から誘っておきながら、愛らしいユディ殿の姿を見て、他人に見せたくなくなったせいです」


初志貫徹するかの葛藤ゆえに及び腰になったのだと、ランプレヒトは自供する。それが目的とはいえ、着飾った彼女をみて態度を一変させる者が現れないかと危惧してしまった。化粧などなくとも、彼女は魅力的だ。それに気付きもしなかった者たちに、彼女を近付けたくなどなかった。


「ユディ殿はどうですか?」


「へ?」


「某の顔がお好みであれば、これからも晒したままでおりますぞ。それとも、誰にも見せたくないと思ってくださいますか?」


ランプレヒトが願望をこめた問いを投げかけると、ユーディットはじっと彼の顔を見返した。


「……レヒト君がこれまで前髪で顔を隠していた理由はなんですか?」


「百合が愛でられないからです。顔が出していると某に寄ってくるうえ、仲違いや言い争いに発展しやすく愛でるどころではなくなります。某は、百合のきゃっきゃうふふしたやりとりを眺めていたいというのに……」


「ふふっ、レヒト君らしい」


観察に邪魔だという理由で顔を隠す判断をしたランプレヒト。煩わしさを素直に顔にだす彼が可笑しかった。こんな理由で異性にモテることを嫌がるのは彼ぐらいなものだろう。


「私はどちらでも構いません。顔が見えていてもいなくても、レヒト君にびっくりさせられるは同じですもの」


ユーディットは今の彼に心臓が驚いている。それは、彼の容貌のよさが理由ではなく、表情がみえることで彼の感情がよく伝わるからだ。しかし、思い返してみると、前髪で顔が隠れていたときも彼の言動に心臓が騒ぎたおしていた。なら、どちらでも変わりないではないか。

彼女の開き直った発言に、ランプレヒトは空色の瞳を丸くする。それから、ふっと相好を崩した。


「それは、某の科白セリフですぞ」


着飾ったユーディットが愛らしいことは否定しない。けれど、ランプレヒトの鼓動が高鳴っているのは彼女の言動によるものだ。今だって、彼女はこの顔に惚れ直したとはいわない。美形を好ましく感じるだろうに、それを自分に要求してこない。

彼女に少しでも好感をもってほしい。そのためならば、この容姿が利用できるならそれもでもいい。確かにそう思っていたのに、彼女の答えがこんなにも嬉しい。

ユーディットは自分を喜ばせすぎではないだろうか。これでは心臓がいくらあっても足りないし、理性の糸も容易く限界に達する。

ダンスで、触れ合うほどに近い距離は生殺しだ。しかし、彼女になら殺されてもいいと思える。

きっと、彼女はどれだけ稀少な存在か解っていないことだろう。

一曲踊りきり、二人がダンスフロアからでると出迎える者がいた。


主賓三年より目立つなよ」


「それが目的でしたから」


「ユディちゃん、大丈夫……っ?」


「エル先輩!」


アルトゥルに文句をいわれるも、弟のランプレヒトは涼しい顔だ。件の男子生徒らに一泡吹かせるためには、ユーディットの愛らしさを周囲に知らしめる必要があったのだ。

エルメントラウトが心配げに彼の後ろから前にでたので、ユーディットは何事かと思う。何を心配されているのかわからないが、彼女はひたすらランプレヒトに何もされなかったかとユーディットに訊いてくる。人見知りの彼女がこのような催しに積極的に参加するはずもなく、自分を心配してアルトゥルにエスコートをしてもらったのだろうと察せられた。

彼女の気遣いが、ユーディットにはくすぐったかった。


「そんなに心配してくださったんですね」


「もちろんよ。レヒトが怖がらせるようなことをしたらすぐ教えてね。アルトに言いつけるから……っ」


「俺かよ。まぁ、弟の不始末は処理するけどよ」


「某を締めること前提で話を進めないでくだされ」


心外だ、とランプレヒトが主張すると、エルメントラウトもアルトゥルも半眼となった。二人は、ランプレヒトの行動力が尋常ではないと知っているし、ダンスの間の締まりのない顔もみている。弟が際限のない行動をするようなら、騎士として、また兄として諫める役目がアルトゥルにはあった。浮かれた様子の弟を目にして、このまま卒業してよいものか不安がもたげる。自分が卒業しても、心配性すぎるほど臆病な性質たちのエルメントラウトがいるなら、ユーディットも無事だろう。

残念ながら、二人の心配に相当する危機感をユーディットはもっていなかった。彼女は、自身の心配より、エルメントラウトを心配していた。真珠飾りを散りばめただけの深紅の髪を流しているエルメントラウトは、目立たないよう髪型といいドレスといい飾り気がない装いだった。だが、彼女の場合、泣き黒子や豊かな胸元から漂う色香で充分他人ひとの目を引いた。性的な視線を向けられることが苦手な彼女だ。エルメントラウトが気分を悪くしないか、どうしても危惧してしまう。

そうして周囲を見回して、ようやくユーディットは自分たちが多くの視線を浴びていることに気付く。

視線に気付くなり、ユーディットは身体を強張こわばらせた。

人目を避けてばかりだった彼女は、こんなに多くの視線を浴びる経験など初めてのことだ。未経験ゆえに、慣れぬ視線たちに自然と緊張した。これではエルメントラウトを助ける以前の問題である。

そんなユーディットに気付き、ランプレヒトは朗らかに微笑みかける。


「目的は達成いたしましたし、テラスに出て休みましょうか」


「でも、エル先輩が」


「アルト兄に任せておけば問題ありません。なんせ、学園最強の男ですぞ」


「そうでした」


ランプレヒトが懸念点を解消してくれ、ユーディットは安堵を零す。彼女らが動き出すより先に、周囲の視線がいくらかダンスフロアへと吸い寄せられていった。何事かとユーディットが振り返ると、リーゼルとハルトヴィヒが踊る姿がみえた。洗練されたダンスのリーゼルと華やかな容姿のハルトヴィヒの二人は目立つ。おかげで、テラスへ抜け出しやすくなった。これもエルメントラウト同様、リーゼルの気遣いなのだろう。二人に、後日礼を言うことをユーディットは決めた。

テラスにでると、すっかり夜闇が下りていた。会場の明るさや喧噪けんそうが嘘のようだ。テラスにはさざ波のように人の声と音楽が混ざり溶け合う。他人の視線から解放され、ユーディットは人心地ついた。


「やはり、見られるより観察する方が性に合っておりますな」


ふぅ、と吐息とともに零れた感想に、彼も同じ心地なのだとユーディットは知る。


「ですね」


だから、頷いた。そのあとは、そよそよと夜風が通り抜けるだけの静寂が訪れる。会場の音はかすかに漏れて聴こえるが、それでもこの場は静かなものだった。お互いいつもと違う風体ではあるが、ユーディットはランプレヒトと二人だけでいることがしっくりきて、会話がなくとも気にならなかった。

しばらくして、ランプレヒトが空を見上げる。


「そろそろですかな」


彼の視線につられて、ユーディットも同じ方向を見上げた。すると、ひゅるり、と何かが打ちあがる音がして数秒後、ばぁんと破裂音とともに空に火花が散った。花火だった。


「綺麗……」


「これだけはユディ殿に見せたかったのです」


用が済んだら長居は無用だと、すぐさま退出してもよかった。けれど、報復の結果がどうであれ彼女にいい気分でこの日を終えてほしかったのだ。だから、ランプレヒトは花火の打ち上げ予定の時間から逆算して、今日の計画予定を立てた。ユーディットとの待ち合わせを、宴の始まりからにしなかったのはそういう理由だった。


「実は、開花の宴で花火をあげるようになったのは、うちの父のせいなのです」


「え……、せい?」


こそりと明かされた事実に、ユーディットは驚くよりも首を傾げる。せいと表現すると、まるでランプレヒトの父親が悪いことをしたようではないか。

仔細を聞くと、事実悪いことをしでかしていた。火属性の魔力に秀でたランプレヒトの父親は、学生時代に婚約者だった母親の誕生日に火魔法で夜空に花を作ったらしい。一年遅れて入学する予定だった母が邸にいてもみえるように、大きく夜空に咲く色とりどりの炎の花。それは当然、母親以外の多くの人間の目に留まり、騒ぎとなった。父親は教師に叱られたが、生徒たちは喜び開花の宴でも同じことをしてほしいと乞われてしまったのだ。無礼講に近い門出の祝いの席のため、教師陣もその日限りならと炎の花を咲かせる魔法の使用許可を出したらしい。

以来、開花の宴では火魔法で花を夜空にあげる催しが定例のひとつとなった。当初は打ち上げ用の魔法陣が考案され、そこに火属性の魔力の多い生徒たちが魔力をこめて発動させていた。宴に参加する生徒に負担をかけるのはよくないと、数年後火薬で作る花火が開発され、そちらを使うことに変わった。花火職人は数えるほどしかおらず、現在は国営直下の特殊職となっている。きっかけとなった開花の宴以外では、国の式典などで打ち上げられている。

事の発端が、あまりにも私情すぎてユーディットは唖然とした。


「まさか皆が称賛する父の魔力操作の精密具合が、母のために磨かれたものだとは思いもしませんでした」


あっさりと父は明かしたが、一緒に聞いていた母が驚いていたので、かなり難易度の高いことだったのだろうとランプレヒトは理解した。真実を知るまでは、父はアルトゥルと同じく鍛えることしか頭にない人間だと思っていた。だが、母のこととなると、勝手が違うらしい。

ユーディットと出逢って、それも少し解るような気がする。


「某も、ユディ殿が望むなら火属性の魔法を極めるでしょうな」


まずは暴発しないところからの訓練になるが、仮にユーディットが望むならそれ以外の問題は度外視する。顔だけで判断されなかったのはよかったが、結局彼女が自分を異性としてみてくれているかは定かではない。彼女に異性として好意をもってもらえるなら、ランプレヒトはある程度のことはやることだろう。


「そんなことしなくても、レヒト君のこと好きですよ?」


必要がないことだと、ユーディットは率直に返した。また沈黙が落ちる。

見開かれた空色の瞳を凝視して、ユーディットは自身の発言を反芻はんすうする。思わず零れてしまった言葉に気付くと、ユーディットは下から徐々に朱に染まっていった。

ランプレヒトが固まって反応しないものだから、困らせてしまったと思いユーディットは口をはくはくとさせる。何といえばよいか判らず、空気をむことしかできなかった。


「……ユディ殿はどれだけ某を驚かせれば気が済むのでしょう」


ぽつり、と零されたのは弱音なのか。その判断がつかないままに、ユーディットは彼に引き寄せられていた。気付いたときには、ランプレヒトの腕のなかだった。

抱き締められれば、自然と耳が彼の胸に当たり、そこからどくどくと大きく早い鼓動が聴こえた。鼓動の速度に、頬に熱が集中する。自身の心音を意識すれば、同じぐらい高鳴っていた。


「異性としての好きと、期待してもよいのでしょうか」


耳元で囁かれた問いは、れた声音だった。


「は、い……」


ユーディットは、どうにか頷く。動揺で声がかすれていた。それでも、ランプレヒトは返事を拾えたらしい。抱きしめる力が一層強まる。

意識せざるを得ない状況におかれすぎて、いつからかなんてユーディットにも判らない。彼と同じだけの想いが返せるかも定かではない。けれど、彼の手だけは拒めないのだ。薔薇妄想を晒せる相手であると同時に、彼の前では、女の子でいてもいい気がしている。きっとどっちかでなくていいことなのだ。

抵抗しないだけではこれまでと同じだ。どうすれば、想いを返せるだろう。ユーディットは精一杯にきゅっと、彼の服を掴んだ。

ランプレヒトから触れられている量からすればわずかなものだが、自分から進んで触れることに意味があると信じて、ユーディットは頑張った。

びくり、と振動が響いたかと思ったら、互いの顔がみえるほどに身を離され、ユーディットは伝え方が悪かったのかと思った。恋物語も読み、薔薇妄想でとはいえ恋愛の想定もしてきたユーディットだが、自身の場合を考えたことがないためどうするのが正解か判らない。

顔の輪郭に手を添えられ、上向かされる。見上げると、笑みを湛えたランプレヒトの顔があった。


「ユディ殿」


「はい」


「あまり可愛いことをしてくれますな」


耐えるにも限度がある、とランプレヒトはいうが、何のことだかユーディットには判らない。ユーディットが問おうと口を開きかけるが、それを塞ぐように彼の唇が近付いた。

噛みつかれるのではと、思った矢先、何かが豪速でランプレヒトの側頭部にぶつかった。

強い衝撃により、ランプレヒトはテラスの欄干にもたれかかるように倒れる。彼の頭に当たった物は、跳ね返って綺麗に投げた本人の手元に戻った。


「外ではやめろ」


「アルト、先輩」


ランプレヒトの側頭部に投げつけられたのは、アルトゥルの革靴であった。片方の靴を脱いで一本足状態だというのに、よくあれだけの豪速で投げられたものだ。

ユーディットはみられたことを恥じればいいのか、ランプレヒトの身を案じればいいのか、反応に迷う。困惑していたら、こちらにくるようエルメントラウトに声をかけられたので、素直に従う。


「ユディちゃん、男の子は狼なんだよ……っ?」


「アイツは途中で止まれんから、気を許すのは食われる覚悟のあるときにしろ」


そんな零か一かの選択しかないのか。ランプレヒトの身内からの厳重注意に、すべてを飲み込めないままもユーディットは首を縦に振った。

しかし、一体どう気を付ければよいのだろう。異性として自分を可愛いと思う相手はランプレヒトしかいないのだ。彼が自分に可愛さを感じるポイントがいまいちよく解らない。

これからこそが前途多難に思えた。


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