05.兄弟



その年の夏は、ユーディットには思ってもみない夏だった。

友人ができると思っていなかったにもかかわらず、リーゼルやエルメントラウトに誘われ、彼女らの家へ訪ねた。本当だったら、妄想のかてになる本をたくさん読んで二学期を待つはずだった。それぞれが領地に滞在する期間もあって、片手で足りるほどであったが、それでもユーディットには予想外の出来事であった。

エルメントラウトも読書が趣味で、いくつかの本を貸してもらった。それらは少女向けの純愛を描いた物語で、可愛らしいものばかりだった。しかし、ヒロインの性別を脳内置換するすべを身に着けたユーディットには充分楽しめるものだった。愛らしい少年との恋物語と倒錯的解釈をしたことを伏せれば、エルメントラウトとも話が盛り上がった。

そんな彼女に自分もいずれかの物語を貸そうと思ったが、これが存外難題だった。可愛らしい話が好きなエルメントラウトに薦められる本を、ユーディットはあまり持っていなかったのだ。

それもそうだ。彼女が好むのは、男性が主体で登場する物語なのだから。

冒険譚や騎士道物語は、戦闘描写があり、魔物などの表現も生々しい。乙女なエルメントラウトには到底薦められない。悩みに悩んで、ユーディットは寄宿学校が舞台となった青春群像物語を彼女に貸すことにした。男性と接する機会が少ないため、同世代の男子の普通を知れてよかったと、エルメントラウトから感想をもらったときには安堵した。どうやら彼女は、同世代の男子となると幼馴染のシュターデン兄弟しか知らないらしい。極端な二人しか知らないゆえに、面白かったとのことだ。

貸した本の感想をきっかけに、ランプレヒトが幼い頃の話をきけて、ユーディットはなんだか嬉しかった。

また二人の家を訪ねた際に、二人の男兄弟と会えたのもよかった。

リーゼルの兄は、淡い金の髪と花弁はなびらのような青の瞳の美青年だった。こんな美青年を学園で見逃す訳がないと思ったら、彼は魔力量が少なく寄宿学校に通っているとのことだ。多少の会話とはいえ実際の寄宿学校の様子を聞けて、ユーディットはとても嬉しかった。

エルメントラウトの弟は、彼女とは別種の色香漂う少年だった。たれ目がちの目元や厚めの唇が蠱惑こわく的で、十四の年頃も相まって危うさを感じる。しかし、話してみると理知的でしっかりと自身の意見を主張するので、エルメントラウトと対称的に感じた。彼は自分がいないから臆病な姉が心配だという。幼い頃は彼が、エルメントラウトの盾になっていたらしい。ユーディットは、美少年の彼が学園に入学する来年が少しばかり楽しみになった。

そうこうしているうちに、夏が過ぎ、夏期休暇が明けた。二学期に入り、ユーディットは久しぶりに校庭の隅にある東屋へ向かう。ランプレヒトと会うのは一ヵ月以上ぶりだが、その分話すことがたくさんあり、会うのが楽しみだった。


「嫌ですぞー!」


「てめっ、いい加減、観念しろ!」


しかし、到着してみると予想外の光景が広がっていた。

ランプレヒトが東屋から生えている。いや、正確には彼が東屋の柱にしがみつき、その彼の腰をもって引っ張る人物がいるため、彼が柱から垂直に生えているようにみえた。長身のランプレヒトをほぼ持ち上げている青年は相当の力持ちだ。そして、柱から頑として腕を離さないランプレヒトの抵抗も相当のものだった。


「こんな簡単に持てるぐらい筋肉足りてないんだ。ちったぁ、鍛えろ!」


「単にアルト兄が馬鹿力なだけですぞ!」


「レ……レヒト君……?」


ユーディットが恐る恐る声をかけると、言い合っていた二人がこちらを向いた。


「ユディ殿っ、助けてくだされ!」


「ど、どうやって!?」


必死なランプレヒトに助けを求められるも、ユーディットは弱る。彼を抱える青年は、身長こそ低めだが、肩幅もしっかりし首も太く、シャツの上からでも筋肉が付いていることが明白だ。令嬢のユーディットの力で引き剥がせる相手ではない。

助けたい気持ちはあるが、手立てが浮かばずあたふたするユーディットに、男性にしては小柄な青年がかつを飛ばす。


「おい、お前!」


「は、はいっ」


「お前からも言ってやれ。こんなひ弱より、鍛えた方がいいだろ」


「は……、いや、えっとぉ……」


男は筋肉だ、と豪語する相手に、ユーディットは一瞬頷きそうになり思いとどまる。男性の筋肉は素晴らしい。鍛えられた体躯たいくの魅力は、ユーディットも認めるところだ。しかしながら、今肯定してしまうとランプレヒトを助けるどころか、追い打ちをかけてしまうこと必至。

それにランプレヒトに関していえば、別案件だ。彼が高身長ながら線が細めだから、ユーディットは威圧感を受けずに接することができている。彼が筋肉隆々だった場合、ユーディットは意気投合しただけでは手を差し出せなかったかもしれない。ランプレヒトに、鍛えた体躯になってほしいという願望は特にない。


「レヒト君は、今のままでも素敵だと思いますよ……?」


変わる必要性がないとのユーディットの意見に、相手は怪訝な声を返す。


「こんなモサモサのひょろひょろの何がいいんだ?」


擬音ながら的確な表現に、言葉を返せずユーディットは口を真一文字にする。どう魅力的かあげろといわれると、ユーディットも困る。これが彼なだけだ。

ユーディットの協力を得られないことが判明し、相手は苛立いらだちまじりの嘆息をひとつ零して、ランプレヒトを解放した。現時点での説得は無理だと諦めたようだ。彼の手から逃れたランプレヒトは、すぐさまユーディットの背後に回り、相手と距離をとった。

自然と、ユーディットが彼と対峙する形になる。男性にしては小柄なだけで、令嬢のなかでも小柄な方であるユーディットよりは視線が高い。盾にするには自分は力不足ではないかと、ユーディットは感じた。


「レヒトも自分の女から言われりゃ、ちょっとは考え直すと思ったのによ」


「ユディ殿は、それがし無体むたいを働くような御仁ごじんではござらん」


「ゆ、友人です」


相手の呟きで盛大な誤解を与えていると気付いたユーディットは、その点を訂正した。ランプレヒトの反論では、誤解が解けきれない。


「レヒト君、この方は……?」


「ぬ? ユディ殿も見たことがあるでござろう?」


紹介を求めると、ランプレヒトは首を傾げた。知っているはずだといわれ、ユーディットは相手を確認する。

男性の平均身長よりは若干下と思われる身丈、首の太さや肩幅はしっかりして鍛えられている人間のそれ、数人は似た人間がいるであろう顔立ちで紺碧こんぺきの髪という特徴がなければ群衆のなかでは見失いそうだ。

唯一個性的と思われるまっすぐな紺碧の髪に、ユーディットは見覚えがある気がした。どこで見かけたのか、記憶を探る。


「……あ! 物語が始まらなかった人!」


そうして、ユーディットは思い出す。一学期の終わりに開催された競技大会で、唯一妄想のかてにならなかった人物を。それが目の前の彼だ。

なぜなら、彼の対戦はすべて数分で終了した。相手によっては、試合開始直後に降参するため、さすがのユーディットも妄想を広げることができなかったのだ。紺碧の髪がみえるたび、熱き闘いを通じての語り合いを期待しては落胆したものだ。ほぼ一撃で終わっては、始まる物語も始まらない。

どういう覚え方をされたのかと相手は首を傾げながらも、ユーディットに名乗った。


「いきなり悪かった。三年のアルトゥル・フォン・シュターデンだ」


「兄です」


「一年のユーディット・フォン・アイヒロートと申します。レヒト君のお兄さんだったんですね」


唐突に協力を求めたことを詫びたアルトゥルに、ユーディットもカーテシーを執り、挨拶を返した。

少し話に聞いてはいたが、本当にランプレヒトと対極にいそうな人柄の男性だ。体格といい、性格といい、真逆だ。似ていない兄弟だが、顔ぐらいは似ているのだろうか。ランプレヒトの顔をちゃんとみたことがないユーディットは、彼の前髪でみえない部分に、アルトゥルの顔を当て嵌めて想像してみる。鼻はランプレヒトの方が少し高いだろうか。

ユーディットが脳内で人相合成をしている間に、アルトゥルは嘆息する。


「演習場にビビって寄り付きもしないエルと違って見どころがあると思ったのによ」


どうやらユーディットに賛同を求めたのは、彼女の同意を得られると踏んでのことだったらしい。騎士訓練校の演習場に通っている点をあげられて、ユーディットは驚く。


「私をご存じで……?」


「週一で見学にくる令嬢オンナはお前ぐらいだからな」


なるべく片隅で視界に入らないように努めていたのに、認知されていたようだ。

アルトゥルからすれば、彼女は珍しい類いの見学者だ。興味本位で訓練を見学にくる令嬢はいてもそう頻繁にはこない。訓練生ないし自分のように騎士を目指し訓練課程をとっている生徒は、恋人や婚約者がいても演習試合のときぐらいにしか呼ばない。普段の訓練は厳しく、遠くでも聞こえるように入る指摘は叱咤されているように聞こえる。想いを寄せている相手に、誰が好き好んで自身が叱責を受ける姿をみせたいだろうか。

さすがに同じ容姿の人間が毎週視界に入れば、アルトゥルも姿ぐらいは覚える。それだけ熱心に見学にくるということは、彼女は鍛える男性に好感をもつタイプだと踏んだが、彼の当てが外れた。


「なんということでしょう……、なるべく空気でいようと努めていたのに、認識されていただなんて……っ」


「レヒトみたいなことをいうヤツだな」


謎の絶望に打ちひしがれるユーディットに、アルトゥルは既視感を覚える。ちょうど彼女の後ろにいる弟が、空気だ壁だとよくのたまうのだ。


「アルト兄の視力と気配察知能力は獣並みですから、そう気を落とさず」


他の生徒にはきっと気付かれていないだろうと、ランプレヒトはフォローする。訓練に必死になっている生徒がほとんどのなか、周囲にまで気を配る余裕があるのは兄ぐらいなものだ。家での訓練に比べれば、訓練校の訓練などアルトゥルにはやすい。

希望的観測も含むものであったが、ユーディットはランプレヒトのなぐさめを信じることにする。地味であることにはある程度の自負があるのだ。アルトゥル一人に存在を知られたところで、その根底をくつがえすほどのことではないと思いたい。

気を取り直して、ユーディットは気になったことを訊ねる。


「それにしても、アルトゥル先輩は……」


「アルトでいい」


彼からも略称でよいといわれた。ランプレヒトの知り合いは、他人ひとに気を許すのが早くないだろうか。それとも自分がランプレヒトの知り合いだからだろうか。自分への彼らの態度が、ランプレヒトを信頼するがゆえであれば、喜ばしいことである。目上の人間からの要望であることもあって、ユーディットは呼称について快諾かいだくした。


「アルト先輩は、レヒト君に鍛えてほしいんですか?」


「ああ。親父並に魔力あんだからもったいねぇだろ」


アルトゥルは、能力がある者はそれを活かすべきだという考えらしい。それも一理ある。そんな考えの彼からすれば、弟の行動はさぞ理解できないものだろう。


「なのに、コイツときたら女好きが治りゃしねぇ」


端的な表現に、ユーディットは閉口する。合っている。女性への関心が高い点において言葉通りであるが、語弊ごへいがすごい。

確かにランプレヒトは女性に対して並々ならぬ好感をもっている。視界に女性しか入れたくないだろうし、彼の行動は常に女性の後を追いかけているようなものだ。しかし、彼の関心は女性個々にではなく、女性同士へ対するものだ。口説きこそしないがいろんな女性に好感をもっているという意味では、百合を知らないアルトゥルの表現も言い得て妙なのかもしれない。


適性属性火属性ぐらい、まともに使えるようになれよ」


「燃やすだけの魔法なんて使いものになりませんぞ」


もっている能力を活かせと促しても、ランプレヒトは首を縦に振らなかった。頑固な弟の態度に、アルトゥルは呆れる。魔力にも体躯にも恵まれているのに、それを伸ばそうとしない弟がアルトゥルには理解できない。それらは、彼が望んでも得られなかったものだ。自分より強くなる見込みがある者がくすぶっている事実が、アルトゥルには残念でならない。それが弟であるなら、なおさらだ。

ランプレヒトは、戦闘における強さに何の魅力も感じない。だから、どれだけ兄に説得されても必要性を感じなかった。機会があれば勧めてはくるが、長年の付き合いのため価値観の相違はどうしようもないとアルトゥルも気付きつつある。


「お前はそう言って……、ったく、水鏡みかがみの術マスターするぐらいの根性はあるのによ」


「えっ、それって水属性の魔術研究者でも使える人が限られている最上位魔法じゃ……!?」


ユーディットは、難易度ゆえに使える者が稀少な術名を耳にして、驚く。

水鏡の術は、水属性の魔法のなかでも特に繊細な魔力操作が必要になるため、知識として知っていても実行できる者は数えるほどだ。難易度ゆえに学園で習うこともない。適性が火属性で一番水属性魔法を不得手ふえてとするはずのランプレヒトが会得するのは奇怪おかしい。いくら基礎魔力量が多くとも、本当に並々ならぬ努力がなければ成しえないことだ。

思わず感嘆の溜め息が漏れる。


「はぁ……、凄いですね」


「その根性をもっと別のことに向けろよ」


「嫌ですぞ」


自分は生涯百合を愛でるのだとランプレヒトは主張する。


「気が向いたらいつでも言え」


交渉が決裂したアルトゥルは、あっさりと去っていった。最初の強引さとは打って変わったなんともさっぱりした態度に、ユーディットは呆気にとられる。

彼の態度に慣れているのか、ランプレヒトは彼の背中がみえなくなるのを確認して、ユーディットに向く。


「助かりました」


「何がですか?」


「ユディ殿の口添えのおかげで、アルト兄の諦めが早かったですぞ」


自身の感想を述べただけで大したことはしていないが、彼の助けになったのならよかった。嬉しげなランプレヒトに、ユーディットも笑みを返す。

立ち話を続けるのも何なので、二人は当初の予定通り、東屋に腰を落ち着ける。先ほどのにぎやかさもあってか、一ヵ月ぶりだというのに、二人きりの状況に安堵が満ちる。


「そういえば、アルト先輩の筋肉たくましかったですね。近くで見れてよかったです」


男性の肉体美にもかれるユーディットには、鍛えた男性が至近距離にいる状況はなかなかの目の保養だった。偶然とはいえ、遭遇できたことは僥倖ぎょうこうである。脈石の騎士などに登場する人物は、きっと彼のようなしっかりした体躯なのだろう。学園のなかで一番騎士に近い男と噂されるだけある。アルトゥルが強さばかりが噂になり、容姿に関する情報がなかったことも頷けた。実際に対面して、ユーディットも髪色と筋肉以外の特徴をうまく説明できない。


「ああ、私が本当に空気にでもなれたら訓練の様子も間近で見学できるのに」


「なれますぞ」


さらりと返され、ユーディットは意味を理解するのが遅れた。


「…………え?」


ゆっくりと確かめるようにランプレヒトの方へ向くと、彼はにこりと微笑んだ。


「某が何のために水鏡の術を会得したとお思いか」


「まさか……!?」


水鏡の術は、かすみを一定の場所にとどめる魔法だ。ただ留めるだけではない。霞すべての光の屈折を調整し、霞のなかを空白にみせる術である。周囲の風景に溶けて、透明になることができる。闇属性にある認識阻害とは違い、視覚的に対象をみえなくすることが可能だ。

自身の姿を透明にできたらしたいことなど、ユーディットには一択しかない。声の届く距離で薔薇を愛でるのだ。きっと彼も考えることは一緒だろう。つまり、ランプレヒトも百合を愛でるために会得したということ。

理解したからこそ、ユーディットは驚愕に震えた。そんな夢のようなことが叶うのか、と。


「演習場ではさすがに危ないですから、更衣室などに潜む方がいいでしょうな。某も動きながら術を展開するまではできませぬゆえ」


「そんな、女性がおらず、確実に気の置けない会話ができる場所の壁になれるのですか……!?」


更衣室といっても誰も全裸になる訳ではない。見つかれば、ユーディットは痴女として罰せられる危険性もあるが、今のユーディットには本来なら聞けない男性同士のやり取りを拝聴することに魅了されていた。

ランプレヒトは、曇りない笑顔で手を差し出す。


「某ならば、壁にしてさしあげられますぞ」


ユーディットは生唾なまつばを飲み込んで、彼の手を凝視した。この手をとれば、念願が叶う。夢にまで願った体験は目前だ。

差し出された手の誘惑に、ユーディットは抗えなかった。

わずかな躊躇いののち、欲望に負けた彼女は、自身の手を伸ばすのだった。



話し合った結果、騎士訓練校の演習場の更衣室ではなく、学園の実技授業の際に利用される男子更衣室の壁になることにした。

ランプレヒトいわく、令嬢のユーディットが挑むには訓練校側の更衣室はハードルが高いらしい。汗臭く、上半身ぐらいなら簡単に裸になり、会話の内容も露骨なものが多いという。むしろ、ユーディットにはそれこそ望ましいのだが、耐性をつける必要性をランプレヒトに説かれれば、従うより他ない。何故ランプレヒトが訓練校事情に通じているかというと、彼の兄経由で得た情報とのことだ。

みつからない自信がランプレヒトにはあったが、念には念を押して、ユーディットには聴くだけにするよう約束をさせた。異性の着替えをみたという事実がなければ、誤魔化しようもあるし、その方が彼女の妄想もはかどることだろう。

計画を立てた翌週、お互いの授業がない曜日に東屋ではなく実技場にある男子更衣室に忍び込む。男子生徒であるランプレヒトは平然と足を踏み入れれるが、ユーディットは人気ひとけがないと解っていながら、何度もきょろきょろと周囲を確認した。構造が女子更衣室と変わらずとも、普段入らない場所には緊張もする。


「だ……大丈夫でしょうか……っ」


「生徒が戻ったときにユディ殿が声を出さなければ気付きようもありませぬ」


何度も試して自身の術の効果を知っているランプレヒトは動揺の欠片かけらもない。彼の力に頼るしかないユーディットは、他人には透明にみえるという状態を初体験するため、想像ができず緊張だけが高まってゆく。

ぶつかっては危ないから、と人の行き来が一番少ないと思われる壁際に位置を指定される。彼の指示に従い、ユーディットは恐る恐る更衣室へ足を踏み入れ、壁に張り付くように直立した。


「こうしていればいいんですか?」


「もう半歩前の方がやりやすいですな」


ユーディットが位置取りを確認すると、目の前のランプレヒトは自身の術の使いやすさを考えて意見を述べた。半歩だけ前進すると、壁との間に隙間ができ心許なさを感じた。しかし、踏み出した分だけ、ランプレヒトの距離が近付く。


「これぐらい、ですか?」


顔をあげないと視線が合わない至近距離に戸惑いつつも、ユーディットは再確認する。彼女には未知の魔法のため、加減については彼の基準が頼りだ。


「そうですな。足音が近づいてから発動するつもりですが、体勢には先に慣れておいた方がよいでしょう」


いうなり、ランプレヒトは軽く両腕を広げてみせた。ユーディットは首を傾げる。


「体勢……?」


「某の魔力量では、自身の身体からだを覆うほどしか水鏡の魔法を使えぬのです」


適性属性が火のランプレヒトがいくら魔力量が多くとも、不得手の属性は使用負荷が大きくなり、発動状態が半分以下の魔力量となる。むしろ、基礎魔力量が大きいからこそ彼は身を隠せる範囲まで水鏡の魔法を発動できるのだ。

理屈はユーディットも理解できた。だが、そこから導き出される結果に困惑する。彼が両手を広げている点と、慣れる必要があるという点を加味すると、さすがのユーディットでも気付く。


「わ、私が、レヒト君の腕のなかに……!?」


「左様。さすれば、ユディ殿も隠せます」


あっけらかんと肯定されるが、令嬢のユーディットには動揺ものだ。確かに発動直前に体勢を知らされていたら、心の準備が叶わず声をあげていたかもしれない。速攻でバレていたことだろう。事前に教えられていたのはよかった。

自分を驚かさないよう、腕を広げた状態でランプレヒトは待ち構える。ユーディットは及び腰になるが、どうにか後退する衝動だけはこらえた。

ランプレヒトとは手を繋いだこともあるのだ。怯む必要はないと自身に言い聞かせる。躊躇っている間に、実習を終えた生徒たちが戻ってきてはことだ。

自分の欲望のために彼は負荷の大きいであろう術を使ってくれるのだ。自分もそれ相応の覚悟をしなければならない。

ユーディットは一度大きく深呼吸をした。


「し……失礼します……!」


抱き着くことはできないものの、触れるか触れないかまで前に近付いた。もう眼前は制服の布で占められている状態だが、ユーディットは緊張で眼を閉じていたため、それに気付くことができなかった。

ユーディットが詰めきれなかった距離を、ランプレヒトが腕を回すことで詰める。


「これぐらいだと問題なくユディ殿も隠せますぞ」


「そう、ですか」


ぎこちなく途切れるユーディットの声と違い、ランプレヒトの声は朗らかだ。ユーディットにはてのひらより余程ぬくもりの面積を大きく感じるが、彼には大した差異がないようだ。手を繋いで帰ったときと話す調子が変わらない。


「そっ、そういえば!」


動悸どうきの音を塞ぐように、ユーディットは無理やり話題を絞り出す。沈黙してしまえば、自身の心臓の音がランプレヒトに聴こえそうで恐かった。


「夏期休暇の間、リゼ先輩のおやしきを訪ねたんですが、リゼ先輩のお兄さんがエンディミオン様のように綺麗な方で! しかも、リゼ先輩への溺愛ぶりがすごくて、リゼ先輩を男性化したらかなりおいしい三角関係になるなと!! いえっ、もちろんハルトヴィヒ先輩との純愛も推せますよ? けど、兄弟カプもそれはそれでおいしいというか……っ」


「エンディミオンは金髪だと書かれていましたな。ユディ殿のイメージはあのような感じなんですな」


一気にまくし立てたというのに、きちんと聞いていたらしいランプレヒトは的確な相槌を返してくる。同性の場合でも近親愛には抵抗がある可能性があるというのに、動揺を落ち着かせることで必死なユーディットにはそれを配慮する余裕が欠けていた。普段であれば、問題ないか確認してから話し始めるというのに。

今のユーディットの課題は、彼に心臓の音を聴かれないようにすること。できれば、生徒たちが更衣室に戻るまでに、心音を正常値まで戻しておきたい。


「兄弟もアリということは、某とアルト兄もネタになるのでしょうか?」


「へ……?」


思いもよらなかったことを訊かれて、ユーディットは呆ける。考えてみれば、体格差や性格の相反する者同士が兄弟という血の繋がりゆえに縁を切れずにいる関係性は、物語であれば自分は食いついて妄想の糧にしていたことだろう。

なのにどうしてその考えに至らなかったのか、ユーディットは自身が不思議だった。ランプレヒトに指摘されるまで、可能性にすら気付かなかった。


「レヒト君で、薔薇妄想をしたことがない、です……」


「そうですか。某もです」


自分も同様にユーディットで百合妄想はしないと、彼は共感を示す。それもそれで意外ではあったが、ユーディットは自分のことが不思議でならなかった。

いつもの自分なら、ランプレヒトに言われずとも気付いたはずだ。無意識に彼を薔薇妄想の対象から除外していたらしい。理由を考えてみて、こんな自分でも友人で妄想しない良心があったのかもしれないという結論に至る。それだけ、ランプレヒトが大事な友人なのだと自覚した。

ランプレヒトも自分の妄想の対象から外しているということは、同じぐらい大事な友人と思ってくれているのかもしれない。そう思うと、ユーディットは面映ゆさを感じた。


「その理由が某と同じだったなら、嬉しいですな」


同じに決まっているではないか。そう返そうとしたユーディットの耳元に囁かれる。


「某は、ユディ殿で妄想しないとは言っておりませぬぞ」


びくり、とユーディットは硬直する。意味を理解するより先に、身体が警戒した。動揺しすぎて、先ほどの言葉を理解できずにいる。百合妄想の対象でないというのに、妄想するとはどういうことか。

訊き返そうとしたが、近付いてきた足音に口を開くことをはばまれる。実技授業を終えた生徒たちが戻ってきたのだ。すかさず、ランプレヒトは水鏡の術を発動させる。霞が細かすぎて、ユーディットには透明にみえる。ただ周囲が清水しみずの近くにいるかのような空気に変わった。

ドアが開くと同時に、背に回る腕が強まり、ユーディットの視界は完全に塞がった。彼の力を疑う訳ではないが、その瞬間だけはバレるのでは、と緊張が走る。


「やっと終わったぁ」


「次の授業なんだっけ?」


「俺と同じで王国史とってたろ」


「うわ、絶対寝るじゃん」


自身の授業の選択を嘆く声こそ聴こえるが、ユーディットたちの存在に驚く声はひとつもない。本当に今、自分たちは風景に溶け込んでいるのだと、ユーディットは理解する。

見つからなかった安堵と念願が叶ったという感動。それらが同時に湧きかけたが、自身を包むぬくもりを自覚してしまい、先ほどとは別の緊張で心が占められる。

ランプレヒトは長身だけあって手足が長い。だから、小柄なユーディットなど彼の中にすっぽりと収まってしまう。

彼が術を行使しやすい体勢なのだ。負担をかけてはいけないと、ユーディットは我慢しようと試みる。しかしそれも、彼の行動で叶わない。肩にあったランプレヒトの腕の一方が、抱きすくめるように腰へと移動する。手が移動する感触に思わず反応しそうになり、ユーディットは自身の口を手で押さえた。

途中、抗議の眼差しを向けても仕草で静かにするように注意されるだけで、身じろぎすると耳元で吐息ほどの声音でまた注意される。彼が促す注意こそが、ユーディットには集中力を欠く最大の要因であった。

今まさに男子生徒同士の会話がくり広げられている。ユーディットはそちらに耳を澄ませて、妄想に集中したい。なのに、身体にまとわりつく熱が、耳朶じだに触れる吐息が、彼女の心臓を騒がせる。

本来ならずっと聴いていたいはずの男子生徒たちの会話が、早く遠退かないかと願ってしまう。彼らが去れば、自分はランプレヒトの腕から逃れられるのだ。

念願の状況と予想外の状況に板挟みとなり、ユーディットの意識は遠退いた。

制服への着替えを終え、男子生徒たちが更衣室から消える頃には、ユーディットは疲弊しきっていた。

足音が完全に消えたことを確認して、ランプレヒトは彼女を解放する。すると、ユーディットはその場にへたり込んだ。


「忍ぶのは肝が冷えましたかな?」


そういってランプレヒトは心配してくれるが、大半は彼のせいである。

慣れておくためといわれたが、術の展開前から抱き締められても最後まで慣れることはなかった。むしろ、動揺のしっぱなしだった。辛うじて、声をあげずに済んだことだけが救いだ。

心臓が疲れすぎて、男性同士の会話に集中できなかったことを悔しがる気力もない。

一人で立ち上がるのも困難なユーディットに、目の前の彼は手を差し出す。この手をとるのではなかった、と彼女は後悔する。欲望に忠実な自分が辛い。

誘われたときとは違い、今は立ち上がるための助け舟だ。ユーディットは後悔を胸に、目の前の手をとる。


「壁になりたいときは、またいつでも申してくだされ」


ランプレヒトは、善良な笑みを刷いて、隠密を推奨してくる。


「もう、遠慮したいで、す……」


どんなに訓練しても、壁になる必須条件に慣れる気がしないユーディットだった。

世の中にはできないままの方がいいこともある。


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