第4話 クロエの職業は「聖女」だそうで
クロエはこのまま成人を迎えシスター見習いとして過ごそうと考えていた。
穏やかながらも忙しい日々を過ごし、気が付けば成人を迎える秋まであと数か月となっていた。
季節は初夏。
爽やかな風がやや汗ばむ陽気の気配を見せ始めた頃。
クロエは教会の入り口の前で、領主の息子であるディナスの浮かべる満面の笑みを前に、ちょっぴり頬を引きつらせ彼を出迎えていた。
「やぁ、クロエ!久しぶり!相変わらずクロエの黒髪は美しいな!」
ニコニコとクロエを見つめるディナスは11歳になった。
あれから背もいくばか伸びて、クロエの目線近くまで大きくなった。
「はぁ…。ディナス様は何だか口が軽くなったようですね」
「そうか?思っている事は素直に口に出した方が良いと聞いた。なんでも好意をひっくり返して意地悪するのは器の小さな男のする事だそうだ」
「左様で…」
「なぁなぁ、クロエ!今日の贈り物はな…」
「…ディナス様、先に司祭様へご挨拶を…」
はしゃぐディナスの目の前に、たくましい腕を差し出して会話を遮るのは、彼の護衛騎士であるザサだ。これもいつもの光景。
一見無礼な振る舞いに見えるザサの行動も、誰も驚かないし誰も止めはしない。
ザサに止められたディナスは、ふと何かを思い出したようで、顎に手をやり思案に暮れる。
「ザサ、封鎖隊が着くのは明後日だったな」
「はい」
「では、宿営場所の交渉は私が行う。場所の選定を」
「はっ!」
「私は夕刻まで教会に居る。傍には…ノイス、残りの者は村の周辺調査を」
「「「「はっ!」」」
ディナスの指示に体の大きな男達が動き出す。
「さぁ、クロエには私を司祭様の元へ案内してもらおうかな?」
「はぁ…」
満面の笑みでディナスに背中を押され、クロエは教会の廊下を進む。
生暖かいザサの視線もいつもの事。
クロエはディナスを応接室へ案内するべく廊下を進む。
ほんの少し後ろに振り向いて、後から付いてくるディナスをチラリと覗き見れば、まるでしっぽを振って付いてくる中型犬のようだと、頭の痛い思いをするクロエであった。
******
それなりに品の良い調度品で整えられた教会の応接室。
今では手入れも行き届き、きちんと整えられている。
テーブルの上には地図が広げられ、ディナスが指をさしながら、瘴気沼の発生場所を説明していた。
「東の森にですか?瘴気が湧いた…と。ど、どういう事ですか?」
突然つき付けられた事の重大さに、年老いた司祭はしわくちゃの目を見開き、ディナスの話をなぞり問いかけた。
東の森とは、この村の東に広がる広大な樹海の事である。
因みに樹海の遥か向こう側には、魔族の住む魔界があるらしい…とは、この国のおとぎ話である。なんでも悪い事をした子供は東の森に捨て置かれ、魔族に攫われるとか何とか。
その東の森に瘴気の沼が湧いたとディナスは説明する。
つまりこの村からそんなに遠い場所では所に瘴気が発生しているのだ。
「中央神殿の話では、この辺りに瘴気渦の乱れがあるそうなんだ」
「それで領主様はなんと?」
「うん。私が指揮を取る事になった。比較的小さな沼だし、発見から到着までの時間を見込めば、まだ魔物の発生は無いだろうと」
「ならば良い経験になるかも知れませんな」
「…と言っても、ちゃんと正規の封鎖隊が来るので安心してね」
年相応のニカっとした笑顔で司祭の言葉に答えるディナス。
「それから、明後日の封鎖隊の到着を待って、三日後の明朝もしくは、夜が明ける前に出発する予定。今は私たちの部隊が周辺の調査を行っている。
明日は川と井戸水の調査。それと村人の話も聞いてみたいのだけど…」
「では、何か気が付いた者は、明日の夜にでも教会へ集まってもらいましょう」
「うん、よろしくね。それと宿営地の場所も後で相談したい」
「…」
「…?司祭殿なにか?」
返事の途絶えた司祭にに怪訝な表情を浮かべ、ディナスは視線を送る。
「ディナス様は…」
「ん?」
「立派になりましたな」
目を細めてディナスを見つめる司祭の視線は、まるで孫を見る祖父のような雰囲気だ。
まさかこのような事で褒めて貰えるとは思わず、恥ずかしそうに俯くディナス。
それでも彼にとっては、この程度では足りない事も十分に理解しているのだ。
「…って…」
「ん?」
「だって五歳差って大きいんだよ…」
先ほどとは違って、少し口を尖らせて拗ねたような顔も見せる。
そんな年相応の姿を見せるのも、彼の素直な良いところなのだ。
「クロエには言わないで」
「…えぇ、絶対に言いません」
司祭は目の前の一人の少年の頭をふんわりと撫でながら願っていた。
例え少年の願いが叶わぬ望みであっても、決し折れる事無く、真っすぐに進めるよう、誰よりも強く大きく育つように…と。
******
瘴気の沼への出発は、ディナスの言った予定の通り、その日から三日後のまだ夜が明ける前の出発となった。
ディナス一行の調査隊と国から派遣された封印隊が目的地に向かい、夕方には帰って来る。そんな予定になっていたのに…。
夕方を迎えるより少し早い時間に、突然村の入り口が騒がしくなった。
ディナスが馬を降りて駆けて来たのだ。
「だれか!クロエを呼んできてくれ!!」
一人の少年の悲痛な叫び声に村の男が集う。
彼の後ろには、血や埃にまみれた数名の封印隊と、どっぷりと瘴気に塗れた男達を乗せた荷車があった。
やがて村の男達に呼び出されたクロエがディナスの元へ駆けつける。
「っ!ディナス様っ!」
開口一番、名前を呼んで息を飲んだのは、ディナスの視線が鋭かったわけでも、威圧感が有ったからでも無い。
彼は他の調査隊と同じく、血や埃にまみれた姿で表れたのだ。
彼の顔を見れば、額に汗をかき息を荒げている。そして血の気の引いたその様は、今にも倒れそうであった。
「クロエっ!すまないっ!」
「っ、なんで…」
「すまない、村の外だ」
それでもディナスは自分を顧みる事無く、クロエの手を引き、やや小走りで村の外へと駆けていく。
クロエは彼の悲惨な姿に胸が苦しくなるが、強く引かれた手を振り離す事は出来ず、そのまま彼の目的地である、村はずれの宿営地へ連れられた。
クロエは直ぐにでもディナスの治療をしたかった。
けれどクロエが見た光景は、ディナスよりも悲惨な姿をした男達の姿だった。
彼らは明らかに瘴気に塗れ、まるで精気を失ったように、土色の顔をしている。
「僕にケガはない。彼ら…瘴気は司祭様に聖水を頼んでいる。クロエはザサを…、ザサが…」
クロエの手を引くディナスの力が強くなる。
そして引かれるまま案内されたテントの中には、左肩から血にまみれ、二の腕から先の欠けたザサが静かに荒い息を吐いて横たわっていた。
「…あっ」
「…封印隊の治癒師では欠けた部位の再生は難しい…そうだ…」
クロエはザサと直接会話を交わしたことは無い。
それでもいつもディナスと一緒に居るザサを思い出せば、見るに堪えない姿となっていた。クロエは彼の変わり果てた姿にハラハラと涙を流した。
「クロエの癒しの力では戻らない事もわかっているんだ…だけど、だけど!」
零れ落ちる涙をグッと堪えるクロエ。
クロエはディノスの言葉を止めて抱きしめた。
突然の出来事に目を丸くし、肩を揺らすディナス。けれどクロエの柔らかさに包まれた彼は、プツリと緊張の糸が切れ、次第に目から大粒の涙が零れだした。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん、クロエっ、クロエっ!」
気丈に振る舞っていても、彼はまだ11歳の一人の少年なのだ。
クロエはぎゅっと強く抱きしめ、堰を切ったかのように涙を零すディノスの頭を優しく撫でた。
「大丈夫です、大丈夫ですから」
ディナスを宥め、そして彼の涙を拭くと、クロエは意を決して、ザサの失われた腕の傍へとかがみこんだ。
「…魔物に…瘴気に食われましたか?」
「…あぁ、クロエ殿か…。ディナス様は…無事か…?」
「えぇ、無事です」
「なら…良かった…」
荒い息をハァハァと吐き続けるザサ。
こんな状態でも、まだ正気を失っていない彼の強靭な精神に、感嘆のため息が零れる。
ザサのこめかみに浮かぶ汗をクロエは優しく拭う。
クロエは精神を集中させて、自分の力を信じる。
そして、以前の…いつものたくましい腕をディナスの目の前に差し出す、あのザサを思い出す。
「ザサさん…思い出して下さい」
「…思い出す…?」
「えぇ。ディナス様を護っていた時を」
「…っ」
「…もう一度…」
「……っ!」
クロエの言葉に、ザサの絶望と希望が入り混じる。
「ザサさんがディナス様をお護り出来るように」
「ぅぅっ!」
「元通りに動く、腕を…思い出して」
「っっあ、戻してくれ!」
「えぇ、そうです!」
「腕を…元通りに…」
ザサが二度と戻らない日々を思い描くと、無くした腕に決して動かない輪郭と痛みが在る事を知った。
彼は無くした未来の絶望を超えて、一気に悔しさへ思いを傾けた。
ただ悔しい。ザサは自分の無力さがただただ悔しかった。
そしてまだあどけなさの残る小さな主人の涙に濡れた顔を見て、見た事も無い神に強く願ったのだ。
自分はこんな所で自分は朽ちている場合では無いのだ。
腕を…。
小さな主人を護る為の腕を…。
「戻して…くれ…」
低く、鋭い、乾いたザサの嗚咽。
ザサの魂の叫びとも呼べる、搾り出したその声に合わせて、クロエは無い腕の場所に掌をかざす。
いける…これなら戻るはず…。
クロエがそう確信を得た時、テントの中の空気が、もあっと重たくなった。
そして重くなった空気の塊がザサの腕に集まると、周囲の全ての空気がそこに集まりきったとばかりに一気に弾け飛び、重さのある風がぶわっとテントの中を舞った。
そんな何とも言えない空気の流れに、思わず目を閉じたザサとディナスであったが、やがて落ち着いた気配を感じると、二人はそっと目を開けた。
「ザサ…腕が…」
「は、はは、は…」
そこには、失われたはずのサザの腕が元通りに戻っていた。
「ザサっ!」
「腕が…」
「ザサーっ!」
わぁっとディナスがザサに抱き着くと、大きな胸の上で年相応の子供のように泣き崩れた。
「良かった、ハハ、腕が、ザサの腕が治ったぞ!」
「…信じられません」
「ちゃんと動くか?」
ディナスの声を合図に、ザサは上半身を起こすと、ぐっぐっと掌に力を籠め、動きを確認した。
確かにザサは腕が戻るように祈ったが、実際にこうして戻った腕を見ても実感がまるで湧かない。
まさか一度失った腕が、元通りになっているだなんて…。
「問題は無いようです」
戸惑いながら、無事に腕が戻っている事を告げるザサ。
「クロエっ!」
ザサの言葉に、泣き晴らしたぐちゃぐちゃな笑みのディナスがクロエに飛びついた。
「ありがとう!ありがとうっ!クロエ!君は最高だ!」
涙でびしょびしょになって、あははと笑うディナス。
クロエは今だけは、黙って彼のされるままにして喜びを味わった。
そんな喜びに沸くテントに異変を感じた他の隊員達が、テントの中へやって来た。
どうやら様子を伺いに来たらしい。
「なんだ?一体何が有った…ザサっ!お前、腕が!」
「まさか!治ったのか?」
「あり得ない、奇跡だ!」
「クロエ嬢の力か⁉」
『奇跡』と言った隊員の言葉にテントの外から男達が集まって来る。
「これは聖女だ!」
「聖女に間違いない!」
「うぉぉぉぉ、奇跡だ!」
隊員達が目の当たりにしたザサに起きた奇跡の回復。
そんな奇跡のような出来事に、隊員達はザサを中心にディナスとクロエを取り囲み、歓喜に湧いたのであった。
******
隊員達のはしゃぐ声を聞いて、封印隊の班長は戸惑いを覚えた。
こんな悲惨な状況で、一体だれが喜び勇んでいるのだろうかと。
「なんだ?なんの騒ぎだっ?」
やがてクロエ達…もとい、ディナス一行の調査隊の報告を受け、封印隊の班長がザサ達の居るテントへやって来た。
封印隊の班長に気が付いた調査隊のメンバーが声を掛ける。
「あぁ、班長殿!見てくれ、ザサの…護衛騎士長の腕が…」
テントの中には敷物の上に座るザサ。
そして彼の左腕を見た班長は、驚愕し驚き見入ったのだ。
「なっ⁉」
声も出ないとはこの事だろう。
ディナスが子供らしく、嬉しそうに声を掛ける。
「あぁ、治ったのだ!」
「信じられん!こんな…⁉」
「私も信じられません。でも戻っております」
ザサの腕を確認しようと、傍へ寄ると、ザサも様子を見せるべく、腕を振ったり、手のひらを閉じたり開いたりして見せた。
「何故?…いや、ディナス様、一体何があったのですか?」
「クロエのお陰なのだ!」
「クロエ…?とは?」
「あぁ、クロエの癒しの力のお陰だぞ!」
ディナスは得意満面の笑みを携え、クロエの肩を抱き、彼女を班長に見せた。
班長の目の前には、何故だか目を泳がせた黒い髪の少女。
彼女がクロエなのか?
そして聞き捨てならないディナスの言葉を思い出す。
「癒しの力…と?」
「はぁ、いえ…いや、まぁそうなんです…か?ねぇ?」
目を泳がせたまま、妙に歯切れの悪い返事をぼんやりと繰り返すクロエに、班長は訝し気な視線を向ける。
とは言え、確かにザサの腕は治っている。
「信じられん…いや、実際に目にしている事なのだが…」
「ソレハヨカッタデス…」
「これは本当に、クロエ嬢の力なのか?」
班長の腕がクロエに伸びるのを見たディナスは、彼の手がクロエに近づくその前に、彼女をぱっと引き寄せ、小さな体でクロエ抱きこんだ。
「触るな!クロエは聖女で、将来は、私の妻になる女性だぞ!」
ディナスの言葉に絶句したのはクロエだけだった。
「聖女?…妻ぁぁぁ?」
急に訪れた脈絡のない話に、呆気にとられ、驚きの声を上げるのは封印隊の班長。
ザサも他の隊員達も、いつもの事ですとばかりに、生暖かい眼差しで自分の主人を見つめている
「はぁ…」
絶句したクロエは大きくため息を吐いた。
そして必死になってクロエを抱き込み、班長に対峙する小さなディナスの言動に、「ハハハ」と乾いた声を出して笑うのであった。
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