(2)


 いつも通りにアオイと共に夕食を摂り、いつも通りに入浴を済ませ、いつも通りの時間にベッドに入ったが、目を閉じても眠ることが出来ず、アレクサンダーはガウンを羽織って、部屋の灯りは消したままでテラスへと出た。

 風は日中よりも冷たくなっており、次に来る寒い季節の訪れを予感させる。暗い空に仄かに浮かび上がっている白い雲が、風に乗って遠くへと流れて行く様を眺めていると、扉が開閉する音が聞こえた。

 顔を横に向けると、隣の部屋の硝子戸が開き、少し離れたテラスにアオイが姿を現す。名を呼ぶ前にアオイがアレクサンダーに顔を向けたので、アレクサンダーがいることを見越して出て来たらしい、と察した。

「やっぱり起きてた」

 アレクサンダーの予想を裏付ける台詞をアオイは吐き、眦を下げて微笑む。彼女は眼鏡をかけておらず、アレクサンダーと同じく寝間着の上にガウンを羽織っている。その長い裾が、風によってはためいているのが見えた。

 その様子を無言で見つめてから目を逸らし、しかしアオイに向けて言う。

「……アオイ、済まない」

「謝罪される理由がない」

 即座に返され一瞬口を閉じてしまったが、アレクサンダーは視線を前に向けたまま、口を再度開いた。

「最初に俺があの人の真意に気付いていたら、伴侶を召喚するなどという案に頷かなければ、アオイとマツリの人生まで歪められなかった」

「大袈裟だな」

「事実だ」

 アレクサンダーも間髪入れずに言うと、アオイが口を閉じた気配がする。彼女を見ることが出来ず、しかし続けた。

「アオイとマツリが元の世界に未練はなくとも、この世界に来たことが結果的に良かったのだとしても、それはアオイとマツリの意志によって導かれるべき結果だった」

「だとしたら、アレックスだって僕らと同じ立場だよ。何故アレックスだけが罪を背負うのか、背負おうとするのかわからない」

「結婚の話は、忘れてくれ。俺の為に、これ以上生き方を変えさせたくはない」

 素早く告げると、今度は長い沈黙が下りた。風が唸る音だけが響き、哀しげにも聞こえるそれは、ベヒーモスの咆哮の名残にも思える。

 アオイの反応がなかったので、そっと彼女を覗うと。

「あ!?」

 思わず声を上げて、アオイの方に身体ごと向き直った。

 アオイが細い手摺の上に立ち、アレクサンダーがいる方のテラスに飛び移ろうとしていたからだ。

「おい、待て――」

「えいっ」

 制止しようとしたがアオイは無視し、軽い掛声と共にジャンプする。アレクサンダーが冷汗を掻きながら両腕を咄嗟に伸ばすと、指先がアオイの腰に届いたので、無我夢中で掴んで引き寄せた。

 そのまま数歩後退して、アオイを降ろしても大丈夫な位置にまで移動すると、アレクサンダーはアオイの鳩尾の辺りに耳を当て、大きな息を吐いた。それから顔を上げ、アレクサンダーを見下ろす形になっているアオイに声を上げる。

「何てことをするんだ! この高さで落ちたら、骨折程度じゃ済まないぞ!!」

 声を荒げてしまったが、当然だと思う。アオイの運動神経では、そしてアレクサンダーが抱き留めなければ、アオイは地面目掛けて落下していただろう。

 だが、アオイはアレクサンダーの頭を抱えるように両腕を回すと、静かに言って来る。

「僕が望んだんじゃなくっても、単なる成り行きでも誰かの企みの結果でも、僕はここに喚ばれて良かったと思ってる」

「アオイ」

「あっちの世界じゃ、僕は何にもなれなかったから。父さんや母さんの望む姿にもなれなかったし、求められた生き方も出来なかった。僕はずっと自分の身体を認められず、何者でもないまま、自分が何なのかも分からないまま生きて来た」

「………………」

 アレクサンダーがアオイの身に回した腕に力を込めると、風の音が鳴る中でも、はっきりとアオイの声が耳朶に滑り込んで来る。

「この世界に来て初めて、僕自身を変える必要がないまま求められたんだ。喚ばれた理由は、僕に役割があったからだってことはわかってる。でもアレックスは、それとは関係ない部分で僕にいて欲しいと言ってくれただろ? それだけでいいんだ」

「アオイ……だが、俺は」

「アレックスは、執行人にならずに生きて来たとしても、きっと今と変わりなかったと思う。真面目で、堅物で、ちょっと鈍くて天然でさ。だからこそ選ばれたんだろうし、……僕は、アレックスのそういうところが好きだよ」

「アオイ」

 また名を呼び、アオイの薄い身体に顔を押し付けた。アオイが口を閉じると鼓動だけが響き、頬に温もりを感じる。目の奥に痛みを感じたので思わず瞼を固く閉じ、歯も食い縛った。

 ずっと、誰かにそう言われるのを待っていた気がする。

 『執行人』になる前から、そしてなった後も、アレクサンダーから離れなかった人間はいる。だが、アレクサンダーが最も求めていた存在とは、何かが違うのだ。それが何なのかを言葉にするには、まだアレクサンダーは若く、幼いのだろう。

 それでも、幸いアレクサンダーには言葉以外で感情を現す術があることを知っている。

 アオイを抱えたままで室内に戻り、身を屈めてアオイをベッドの上に降ろすと、アオイに口付ける。数秒でキスを終えて顔を離し、アオイの顔を見つめながら頬を撫でると、アオイからも唇を重ねられた。

 アオイもすぐに顔を離したので、アレクサンダーから告げた。

「アオイ、俺もアオイが好きだ。アオイの役割が何であろうと、アオイが何者であっても構わない。何かになろうとする必要もない。アオイが思うままにいてくれれば、それでいい」

「……うん」

 アオイがにこりと笑い、今度は互いに顔を寄せてキスをする。唇を押し付け合うような強さで、アオイの咥内に舌を差し入れて絡め合う。アオイのガウンを肩から滑らせて、両手を寝間着の中に入れると、アオイが顔を離した。唾液が糸を引き、ふつりと消えるのが見えた。

「えっと、婚前交渉がどうとか言ってなかったっけ?」

「言わなきゃばれない」

 アオイの問いかけに即答すると、アオイが呆れたように半眼になってから、小さく噴き出す。アレクサンダーもそれに釣られて笑ってから、また唇を重ねた。

 啄むようなキスをしながら、顔を離した隙にアレクサンダーもガウンを脱いで、ついでに上を全て脱ぐ。アオイも脱がせてベッドに押し倒し、またキスをしながら抱き締めた。

「アレックス、ちょっと苦しい……」

 アオイが苦し気に言って来たので、慌てて腕の力を緩め、謝った。

「すまん。初めてだから力加減が……」

 赤面しつつ言うと、アオイが半眼になった。

「前に僕がキスは初めてだって言った時、驚いておきながら……って、アレックス何歳だったっけ」

「二十七だが」

「二十七? あと三年待てば魔法使いになれるじゃん」

「魔法使い? 魔術士のことか?」

 アレクサンダーが小首を傾げると、アオイは軽く笑い、アレクサンダーの胸板を指先で撫でて来た。

「何でもない。僕も初めてだから気にするなよ」

 その台詞にアレクサンダーも笑い、アオイの白い喉仏に顔を寄せて肌を吸う。アオイが呻いて震え、細い腕をアレクサンダーの首に回した。



 呼吸が整っても、しばらくの間そのまま抱き合ったままでいると、アオイがぽつりと言って来た。

「さっき、結婚の話はなしにしてくれって言ってたけど……」

「忘れてくれ」

 即座に言うと、耳朶にアオイの笑い声が滑り込んで来る。

 鼓膜を震わせるその音は、小鳥の囀りよりも微笑ましく、アレクサンダーの胸を躍らせるもののように思えた。

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