(8)


 過去に覚えのある感覚が過ぎ、目の前にあったカーテンが引かれたように、さっと光が視界から失せる。

 そして広がった光景は知っている町並みで、レイモンドと共に歩いたことのある場所だと気付いた。

 だが、かつて見た風景とは明らかに異なっているので、葵は素早く物陰に身を顰める。間一髪で、黒い獣が向こうから姿を現した。あれが『魔獣』だろうが、移動していなければ、見つかっていただろう。

 王城がある区画と違い、一般市民の姿は見えない。魔獣が出ているのがこの地区だけならば、避難する動きにタイムラグが起きて当然だろう。

 さておき、ここから先は自分で外に出る手段を見つけなくてはならないが、その前に壁に近い場所へ移動するべきだろう。枢機卿が何故郊外ではなく町中に転移させたのかはわからないが、その辺りは転移先の都合のようなものがあるのかもしれない。少なくとも、不満があろうと葵に文句は言えない。

 魔獣が葵に背を向けた隙を狙い、そっと立ち上がってその場を離れる。葵が今いる場所は、店が立ち並ぶ商店街だが、目抜き通りではなくやや道幅が狭い場所だ。身を隠す場所が多い一方で、万一魔獣に見つかれば避けるスペースもない。

 というよりも、葵の運動神経を鑑みれば、見つかれば終わりと考えた方が良いかもしれない。

 葵が今いる場所からは、アレクサンダーの館すら遠い。乗り方は覚えてないが、いっそ馬ごと転移させてもらうのだった、と小走りになりながら半分自棄で考えていると、進行方向から声が聞こえた気がした。魔獣のものではなく人間のそれで、しかも聞き覚えがある。

 一瞬そちらに行きかけて、しかし葵は足を止めた。

 葵は今、ここにいるはずのない人間だ。見つかれば、安全な場所への避難を勧められるだろうし、最悪強制的に連れて行かれるかもしれない。

 だが、誰かに聞かねば門を潜り抜ける方法すら分からないのも確かだ。そして、この先にいる人物は、恐らく今現在この区画の中で、唯一葵の味方となるであろう人物だ。

 意を決して足を速め、その人物がいる場所へと急ぐと、ほどなく中央に噴水のある広場へと出る。が、路地を出たばかりの場所で、葵は足を竦ませた。

 転移後の場所が静かだったから、他の場所もそうだろうと思っていた。出現したと言われていた魔獣も対処が進んでおり、先ほど見た魔獣は取りこぼし程度だろうと。

 だが、違った。

 石畳には朱が散らばり、そこかしこに魔獣の死骸。それよりも少ない数だが、魔獣と戦ったらしき騎士が倒れている。少し離れた場所では、何匹もの魔獣と騎士数名が交戦中だった。

 と、葵を目に留めた騎士の一人が駆け寄って来、

「民間人か!? 早く避難を――うおわっ!!」

 最後まで口にする前に、脇から飛び掛かって来た魔獣に押し倒される。

「わあっ!?」

 一拍遅れて頭を抱えて蹲ったが、そこに凛とした声が響いた。

「『威嚇』が来るぞ! 備えろ!! 3、2、1――0!!」

 カウント直後、警告通りに獣の声と重圧感が襲い掛かって来る。

「うう……っ!!」

 蹲ったまま呻くが、何とか顔を上げると、先刻魔獣に襲われていた騎士が、鮮やかな剣捌きで魔獣を斬り捨てているのが見えた。簡素な鎧を身に着けているが、アレクサンダーの深い赤とは異なる、紅玉ルビーのような輝く赤い髪をポニーテールにした、翠玉エメラルド色の瞳を持つ男だ。

「離れろ! 体液に触れると溶けるぞ!!」

「は……はい!」

 指示を出され、よろめきながら立ち上がり、後退する。建物の壁を背にして周囲を見渡していると、先刻の号令の主がツカツカと歩み寄って来た。

「アオイ!! なぜここにいるんだ!?」

 銀の鎧を身に着けた、金髪碧眼の騎士、ベネディクトだ。今まで見た柔和な表情は消え去り、厳しい顔をしている。彼は懐中時計を手にしていたが、それを一瞬確認し、葵から顔を背けて声を上げた。

 先刻葵に声をかけた、ルビー色の髪を持った騎士に。

「テディ!」

「はい!!」

 彼は急いでベネディクトの傍らに移動し、しかし渋面になる。

「その呼び方、止めて下さいよ。俺の威厳が――」

「はいはい分かった気を付ける。ちょっとの間、俺の代わりにこれ見てろ。指揮を執って、時間が来たら号令。いいな」

「ちょっ……! ――ったくもう!!」

 懐中時計を渡しながらの、ベネディクトのぞんざいな返しに苦々しい顔をするも、緊急事態下だからか、それ以上は言わずに身を翻した。

「油断するな! 魔獣の残党がまだいるはずだ!! 二人一組で移動し、魔獣を駆逐せよ!! マックス、アベル、ヴァシリー、イヴァンは怪我人の移送!!」

 慣れた様子で、叫びながら他の騎士に指示を出す辺り、ベネディクトよりも下位だが、近しい地位の騎士なのだろう。

 ベネディクトも彼の行動を特に見守る様子もなく、葵に顔を向けた。発せられたのは、先と同じ問いだ。

「……どうしてここにいる? アレックスが避難させなかったとは思えない」

「アレックスは……僕と茉莉ちゃんを王城に向かわせました。ザカリエルさんの所なら安全だと。ですが、僕自身の意思で出て来ました」

「馬鹿なことを……」

 ベネディクトの口元が歪み、歯軋りをする音が聞こえる。恐らく彼も、ザカリエルと同じ意見なのだろう。葵と茉莉の安全が保障されていなければ、アレクサンダーは戦いに注力出来ないと。

 だが、葵にも言い分はある。

「馬鹿なことをしてると思われるかもしれませんが、軽い気持ちでここまで来た訳じゃありません。ベネディクトさん、壁の外へ出る方法を教えて下さい。僕は――アレックスの元へ行かないと」

「どうして!! 君がアレックスを助けられるとでも!?」

「はい」

 即答すると、ベネディクトは途端に絶句する。呆気に取られた顔で葵を凝視し、瞬きもせずに一分近く見つめて来た。

 葵もそれに対して睨むように見返したところで、

「『威嚇』に備えろ! 3、2、1――0!!」

 テディと呼ばれていた騎士が大声を発し、葵が思わず身構えた次の瞬間、またも獣の咆哮が響く。しかし、予見していたからか、今までよりプレッシャーは軽かった。号令をかける意味はこれか、と今更ながらに理解した。

 ともあれ、ベネディクトはしばし考え込んでいたが、また声を上げた。

「テディ!!」

「はいはーい!! 人使い荒いなー」

 ぼやきながら駆けて来た騎士に、ベネディクトは葵の背を押して視線で示す。

「お前、俺の家を知ってるな? 避難場所として、この子をそこまで案内しろ。アレックスに近しい人だから、丁重かつ安全にな」

「はあ!?」

「ベネディクトさん!?」

 テディと葵が同時に声を上げるも、ベネディクトは表情を一切和らげない。

「君がアレックスの大事な人でも、君がアレックスの味方でも、君にも事情があろうとも……俺には騎士団長の責務がある。すまないが、それを優先させてもらう。――テディ」

「――了解」

 テディはベネディクトに懐中時計を返し、そして葵の手首を掴む。

「ベネディクトさん……!」

「連れて行け」

 葵が青褪めて声を上げるが、ベネディクトはそれに背を向けた。

「行くぞ」

 テディも葵の手を引き、その力強さに逆らえず、葵も足を動かす。

 速足で歩いて葵が出て来た路地とは違う道に入ると、テディは僅かに葵を掴む手を緩めた。それでも、振り払って逃げられるとは思えないが。

 隙を見て逃げ出せないかを考えていると、テディが足を止める。

「おい、おかしなことを考えるなよ。団長の温情に感謝しろ」

「感謝?」

 とてもそんな気分にはなれない、という気持ちが声から伝わったのか、テディは大きな息を吐き、しかし壁に背を着けて葵にも同様にするよう促す。

 魔獣を警戒している様子なので、それには従うと、テディは路地の先の様子を覗いながら、小声で言って来た。

「逃げられたりしたら困るから言うが、『団長の家』ってのは、俺達の間じゃ符牒なんだ」

「符牒?」

 首を傾げると、エメラルドの瞳が一瞬だけ葵を見た。

「団長の家には、言われた通り連れて行く。だが、団長の家には抜け道があるんだよ。地下を通って『外』へ行くことが出来る、極秘の脱出路だ」

「……!」

 それだけで、ベネディクトの意図を察した。そして、沈黙の後テディに言う。告げられた通り、ベネディクトに感謝しながら。

「……お願いします、テディさん」

「『セオドア』だ」

 即座に返された声に、また首を傾げると、人懐っこい笑みが見える。

「セオドア=ヴァレリア・コンスタンティン。『テディ』ってのは愛称だが、そっちでは呼ぶなよ」

 言われ、掴まれていた手首をそっと離された。


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