(7)


 湿った地面に転がった腕が、自身の身体から分断されたものだと判断すると、アレクサンダーは即座に腿のベルトを引き抜いた。

 激痛どころではない痛みも襲って来たし、少なからず混乱もある。僅かばかりの恐怖も認めたが、それ以上に生存本能が上回った。

 ベルトに付属している鞘を千切り、そのまま腕の切断面の少し上に巻き付ける。残った腕と口を使って思い切り縛り上げると、出血を止める応急措置は済んだ。

 水蛇ヒュドラが出現していた間、間断なく降り続けていた雨が止んでいる。むしろ、戦闘中は一切気にも留めていなかったが、こうなってから気付く皮肉に思わず笑う。

 そして、顔を上げて『罪人』を見た。

 平凡な男だ。黒衣で身を覆っていた時の方が、余程特徴的だったとも言える。黒の短髪に細面、中肉中背。街中で擦れ違っても、肩がぶつかりでもしない限り記憶にも残らない男。

 だが、その男が最もアレクサンダーを追い詰めている。

 応急手当の間に転がしていた短刀を左腕で握り締め、ゆっくりと立ち上がりながら『罪人』の魔法士を睨む。

 正確に言えば、もう彼は魔法士ではない。『罪人』ではあるが、魔法士ではなく、さりとて魔術士でもない。アレクサンダーと同じ存在、魂に召喚獣を喚び紐付けた『執行人』だ。

 一体どうやって、等の疑問はあるが、問うても答えないだろう。アレクサンダーは短刀を横向きに口に咥え、もう一本残っている腿のナイフを引き抜くと、僅かに腰を落とした。

 ヒュドラと契約を交わした魔法士であれば、使用出来るのは水魔法だけだったはず。魔法士が使用する場合でも、召喚獣が発する場合でも。アレクサンダーの油断などではなく、それが絶対で唯一の決まりなのだ。だというのに、『罪人』はアレクサンダーの腕を容易く落とした。

 敵の術を見極めなくては、また同じ攻撃を受けるだろう。アレクサンダーがじっと魔法士を見つめると、男がにたりと笑った。そして片手をアレクサンダーに向け、囁く。

「ヒルダ、切り裂け」

「――!!」

 咄嗟に上半身を横に倒し、更には跳んでいた。確固たる考えもない、危機感から来る回避行動だ。だが、アレクサンダーの髪がひと房散り、頬のすぐ傍を通り過ぎた何かに耳朶が裂かれる。右腕の時ほどではないが痛みが走り、赤いものが舞った。

 跳んだ勢いに身を任せながら、ナイフを魔法士に向けて投擲して気を逸らし、直ぐ様空いた手を地面に着いて側転の要領で身体を一回転させる。

 片方の足が地面に着くと、即座に走りに移行して魔法士とは一定の距離を保ちつつ移動した。

 片腕を失ったばかりで激しく動くと、それだけで断面が疼き、眩暈も起こる。だが、足を止めれば待っているのは確実な『死』だ。

 咥えていた短刀を手に持つと、アレクサンダーは魔法士に向かって跳躍した。

「うおおお――っ!!」

 雄叫びを上げながら短刀を振りかぶり、同時に目の前に描いた魔法陣を剣先で突く。避けようもない至近距離から炎の渦が魔法士に向かって発生し、それが魔法士に届く寸前、魔法士が掌をアレクサンダーに向けた。

 次の瞬間、敵の掌から生まれた何かが炎を裂き、更には突き出されていた短刀の刃をも粉々に打ち砕く。

「っ!?」

 反動で宙返りをし、そして着地。更にはほぼ勘で上体を逸らして後方転回し、追撃を避けた。二度目の着地をしてから魔法士を見、攻撃の正体を察した。

 水の魔法であることは間違いない。ただ、刺突剣レイピアのように鋭くした上に水圧を上げることで、刃物よりも殺傷能力を高くしている。アレクサンダーの腕を斬ったのも、水の刃によるものだ。

 ともあれ、残っていた中では最も強い武器も破壊された。アレクサンダーは手首のラペルナイフを口を使って引き抜き、それを咥えたまま今度はプッシュダガーを抜いて持つ。

 残った刃物は僅かなので、有効に使わなくては。

 いつでも走り出せるように構え、魔法士をじっと見つめる。敵もアレクサンダーを見返し、無言で佇んでいた。魔法士の着込んでいる鎖帷子は、全身を覆うものではなく、ベスト型だ。物理攻撃の場合、首筋、手足、もしくは顔を狙うしかない。

 そこまで見て取って、ふと――疑問が湧く。

 こうして再びアレクサンダーの前に姿を現したのは、アレクサンダーを完全に打ち倒す為だ。では何故、最初に戦った際、アレクサンダーが毒に倒れた機会を見逃したのか。もしくは、あのまま遠くに逃げたままでいれば、アレクサンダーとて探し出すのは困難だっただろう。だというのに、敵は自ら姿を現した。

 問えば答えてくれるだろうか? と思ったが、止めた。この戦いを止めるのは、どちらかの絶命しかない。そんな状況で質疑応答など出来ないし、そんな余裕はない。

 アレクサンダーは胸中で笑い、魔法士に向かって走り出した。

「ヒルダ、貫け!!」

 魔法士が叫び、掌をアレクサンダーに向ける。それと同時にアレクサンダーは横に跳んだ。視界の端に映るアレクサンダーの髪が、深紅に染まる。その色と同じ赤の魔法陣が、魔法士の左後方に現れた。

 水槍がアレクサンダーのこめかみを削ったが、構わずプッシュダガーを魔法陣に向けて投擲する。

 アレクサンダーが地面の上を一回転してから態勢を整えた瞬間、ダガーに貫かれた魔法陣が火炎を吐き出し、魔法士を攻撃した。

 それを予期していたのか、魔法士の足元に魔法陣が現れ水柱で包み、アレクサンダーの炎は目標に届く前に打ち消された――が、アレクサンダーは既に次手に移っている。

 魔法士が炎に気を取られている隙に、口に咥えていたラペルナイフを指に挟みながら走り、一気に距離を詰める。魔法士がアレクサンダーに気付いた瞬間、ナイフを投擲した。

 小さなナイフなので、殺傷能力はない。だが、魔法士が反射的に防ごうと挙げた手の中心に刺さり、魔法士が呻く。

 そして、――これも反射的に――傷ついた手をもう片方の手で掴み、アレクサンダーに半身を見せる形で僅かに身を屈めた。

 アレクサンダーが地面に手を着き、倒立するように両足を跳ね上げたのは、それと同時だ。

「せいやああぁっ!!」

 アレクサンダーが吼えると共に踵が円を描き、その踵に仕込まれている半月ナイフの刃が、がら空きの魔法士の肩口に深々と喰い込んだ。

「ぐ……っ!?」

 手ごたえを感じつつ、逆戻りするように踵を引き戻して起き上がり、魔法士が目の前で肩を押さえるのを見ながら、素早く身を屈めてブーツの中に隠してあったスローイングナイフを取り出す。

 それを逆手に持つと、身を起こさないまま魔法士の横を通り過ぎる形で前転をした。すれ違い様に、魔法士の片膝の裏、ひかがみにナイフを深々と刺す。

「ぐあっ!!」

 足にナイフを生やしたまま崩れ落ちる魔法士の悲鳴を聞きながら、その後ろで立ち上がり、アレクサンダーは息を吐いた。

 魔法士は歩けない状態となり、腱を切断したので片腕はもう上げられない。それでも敵には魔法が残っているので、アレクサンダーはプッシュダガーを一本引き抜く。

 蹲っている魔法士の首筋目掛けて、拳骨を叩き込むように刃を刺し込もうとしたところで。

 魔法士が笑う声が聞こえた。ような気がした。

 腹部に熱を感じて見ると、じわじわと朱が広がり、そこから溢れた鮮血が地面に滴っているのが見える。

「……何?」

 そんな呟きが漏れたが、小さな疑問の回答を得る前に、アレクサンダーの左足が脛の下から消え失せた。

 何が起きたかわからないまま後方に倒れ、ふらつきながらもゆっくりと立ち上がる魔法士を見上げる。

 その魔法士の腹部にも赤いものが広がっているので、理解した。アレクサンダーが毒を焼いた時のように、自身の召喚獣による攻撃ならば軽減されることを見越して、己の身体ごとアレクサンダーを水槍で貫いたのだ。

「ははっ……そう来たか……」

 思わず笑いが漏れたが、愉快な気分から来るものではない。ショックのせいか、痛みはまだ感じない。

 それでも次に何をすべきかわからなくなり、魔法士を見る。敵は片手を掲げ、アレクサンダーの真上に魔法陣を描く。

 アレクサンダーも同様に左手を掲げたが、そこで気付いた。自分の髪の色が、黒ではなく、赤でも銀でもなく――金色へと戻っている。

 もう、魔法を使う生命力も残っていないらしいと悟ると、アレクサンダーは目を伏せ、声を発した。

「ルタザール、ヘルミルダ……お別れだ」

 それが最期の言葉だと判断したのだろう、魔法士が魔法陣を発動させようとしたところで。

「待って下さい」

 知った声が聞こえた。

 信じられない思いで顔を上げ、魔法士の後方に現れている人影を見る。魔法士も振り返り、彼女を見た。

 館から出た際には持っていなかったマントで身を覆っているが、アオイだ。

「――アオイ?」

「僕は、そのひとの伴侶です。最後のお別れをさせて下さい」

 アレクサンダーの声を無視し、アオイが魔法士に頭を下げ、のみならず両手と膝を着いた。

「どうか……」

 魔法士がアオイを攻撃したら、とアレクサンダーが息を呑むと、魔法士は微かに笑った。

「いいだろう。ただし……お前も一緒に殺される覚悟があるならな」

「はい」

 魔法士の意地の悪い交換条件に即答し、アオイは立ち上がると魔法士の脇を擦り抜け、小走りにアレクサンダーの元へと駆け寄って来た。

「アレックス……」

 アレクサンダーの横に膝を着き、そして細い腕でアレックスの顔を抱き寄せる。

「アオイ、どうして……」

 逆らう気力もなく問うと、アオイが小さな声で言って来た。

「アレックス、覚えてる? 僕が怪我をした時……」

 耳元で囁かれ、その内容に思わず目を瞠ってアオイを見る。

 彼女はにこりと笑って、そっとアレクサンダーに口付けた。


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