(5)


 魔獣の体液が飛び散り、そしてそれがかかった草木が蒸気を上げて溶ける。

 それを横目に、アレクサンダーは未だ持ったままの短刀を検分した。ナイフはもう使い物にならないが、魔獣の牙を止めていただけの短刀は、何とか使えるであろう状態だ。

 アレクサンダーはボロボロのナイフをそこらに放ると、短刀を逆手に持ち直し、空いている片手でブーツに隠していたスローイングナイフをそっと取った。『獣王ベヒーモス』ブリュンヒルデの咆哮は既に余韻すら消え失せ、先まであった動悸も収まった。それはアレクサンダーだけでなく魔法士も同じで、更には水蛇ヒュドラもそうだ。

 短刀を構え、ゆっくりと移動しながら、アレクサンダーは小声で言った。『罪人』にではなく、相棒に。

「ルタザール、ヘルミルダ……臆するな。『あれ』がお前達に届くことはない」

 敵には聞こえないよう小声で告げたが、聞こえていたとしても理解出来なかっただろう。もっと言えば、アレクサンダーの言葉の意味が通じるのは、アレクサンダーと双頭の蛇アンフィスバエナ、そしてザカリエルだけだ。

 頭の中で数字を数え、自身のダメージを測る。小さな怪我はそこかしこにあるが、十分に動ける。アレクサンダーは大きな息を吐き、そして止めた。

 そのまま走り出そうとした気配を感じてか、『罪人』が口を開く。

「邪魔な魔獣を倒したから、次は我々だ……そう思っているか?」

「何?」

「お前が魔獣に手古摺っている間に、あの国の中にも魔獣を送り込んだ。今頃あの壁の中は阿鼻叫喚だろうよ」

「………………」

 唇を引き結んだのは、焦りを感じたからではない。思わず笑いそうになったからだ。堪えきれず、唇の隙間から息が漏れたが、頭の中のカウントは止めずに済んだ。

 アレクサンダーは『罪人』に何も返さず、逆手に持った短刀を身体の前に構え、身を低くして走り出す。――と、アレクサンダーの髪が黒から銀に変化した。

「ヘルミルダ」

 呟くように呼んだ次の瞬間、風の魔法の力で後押しされた分、人間では到底跳べない距離をたった一歩で詰めた。

 跳躍しながら身体を横に倒し、巨躯全体を独楽のように回転させて、短刀の刃に体重を乗せる。

「おらぁっ!!」

 鍛えた身体の膂力により、刃は小さくとも通れば魔法士の喉を裂いていただろう攻撃は、金属音と共に防がれる。柔らかい地面を蹴って後方に跳びつつ、目の前の魔法士を見た。黒衣の下に隠していたらしい長剣が敵の手にあった。

 内心で舌打ちをして更に跳び、両足で着地して態勢を整える。同時に、アレクサンダーの髪が赤へと変化したので魔法士が身構え、自身との間に魔法陣を描いた。炎の魔法が来ると見て、迎撃する為の水魔法を準備したのだろう。

 だが。

 アレクサンダーは魔法陣すら描かず、そのまま待機した。ずっと続けていたカウントが、頭の中でゼロになり、そして。

「――来るぞ。耐えろ」

 魔法士には絶対に聞こえない囁きを発した、次の瞬間。

 アレクサンダーの後方、遥か遠くから獣の咆哮が聞こえて来た。巨大な爆発が起こした衝撃波のように、一拍置いてそれがアレクサンダーと魔法士、ヒュドラに襲い掛かり、全身をびりびりと震わせる。

 言わずもがな獣王ベヒーモスの威嚇だが、魔法士が準備していた魔法陣が砕け散った。

「何……!?」

 先刻と同じように魔法士とヒュドラが硬直し、魔法士が驚愕の声を上げる。対してアレクサンダーは犬歯を剥いた笑みを浮かべながら魔法士に向かって疾駆し、しかし一メートルほどの距離を置いた地点で足を止め、口を開けた。咥内には、準備済みの小さな魔法陣がある。

 それを目にして、魔法士が呻いた。

「しまっ――」

 驚愕の声が途切れたのは、アレクサンダーが噴き出した炎に襲われ、全身が燃えたからだ。

「ぐうう……っ!!」

 それでも魔法士はパニックは起こさず、即座に纏っている黒衣を投げ捨て、そこにヒュドラが水の塊を落として消火に使い、火を数秒で消し去ってしまう。

 とはいえ、曲芸もどきで倒せるとはアレクサンダーも思っていない。火傷を負った唇の痛みに耐えつつ走り、頭の中のカウントを再開させた。

 足を動かしながら、軽装になった魔法士に――ではなく、ヒュドラに向けてスローイングナイフを投げる。投擲用の小さな刃物だからか、特に防がれずにそれはヒュドラに身に突き刺さった。堅い鱗に覆われた蛇だ、何かの拍子に抜け落ちる深さだろう。

 それは織り込み済みなので、アレクサンダーは魔法士の位置を中心に円を描くように走りながら、空いている手でプッシュダガーを抜いた。指の間に柄を挟み込み、しっかりと握る。

 そこで方向転換して魔法士に向かって一直線に走り、また短刀を振る。これもまた長剣に防がれると、刃を引かないまま力を籠め、魔法士と押し合いの状態になった。

 だがそれは、あくまで魔法士の注意を引くだけの演技だ。アレクサンダーは刃の位置はそのままに片足を引いて魔法士に半身を見せる姿勢になってから、敵に近い方の足を勢いよく振り上げて、踵を魔法士に迫らせた。

「!!」

 魔法士が咄嗟に片手を挙げて、蹴りを防ぐ仕草をする。悪くない動きだったが、それは普通の蹴りだったらの場合だ。

 ブーツの踵に仕込まれていた半月ナイフの刃が、魔法士の腕に食い込んだ。

「うぐっ!?」

 鮮血が飛び散るのを確認してから、アレクサンダー自ら刃を引いて距離を取る。そして即座に風魔法の力を借りて跳躍し、ヒュドラに刺さったスローイングナイフを足掛かりにして更に飛ぶ。

 スローイングナイフは抜けて地面に落ちて行ったが、代わりにアレクサンダーはヒュドラの頭の位置にいる。

「喰らえ!!」

 叫びながらプッシュダガーを持つ手を突き出し、ヒュドラの片目に刃を食い込ませた。

「ギャアアア――ッ!!」

 召喚獣といえど、流石に効いたらしい。ヒュドラはダガーを眼窩に刺したまま身をくねらせてのたうち、アレクサンダーはヒュドラの身を軽く蹴って、空中で距離を取った。

「ヒルデガルド――!」

 魔法士が叫んだのは、ヒュドラの名だろうか。

「ルタザール」

 滞空中のアレクサンダーもアンフィスバエナの名を呼んで、髪の色を赤に染めながら自身の前に魔法陣を描き、それを短刀で貫く。炎がヒュドラの胴体部分を包んだのを見ながら、アレクサンダーはやっと着地した。

 ヒュドラが更に悲鳴を上げると、魔法士が魔法陣を描く。アレクサンダーに向けてではなく、燃えている巨大な蛇に向けて。

 だが、アレクサンダーはまた小さく囁いていた。

「来るぞ」

 咆哮。

 アレクサンダーが息を詰めて、両足に力を込めて倒れないように歯を食い縛ったところで、魔法士が描いた魔法陣が消え失せた。

「ああ……っ!!」

 敵がその場に崩れ落ち、絶望的な呻きを上げる。ヒュドラを焼いていた炎は、暴れたおかげか勢いを減じさせていたが、それでも力を失ったらしく、水蛇は湿った地面にぐたりと倒れ伏す。

 心が痛まない訳ではなかったが、魔法士の言葉を信じれば、王国の中にも魔獣が出現しているのだろう。同情している場合ではない。

 魔法士が這いながらヒュドラに縋りつき、それを眺めるアレクサンダーの髪が、銀へと変わった。

 獣王ベヒーモスによる次の『威嚇』が来る前に、仕留めなくてはならない。アレクサンダーは人差し指と中指を揃えて前方に突き出し、言った。

「ヘルミルダ、切り裂け」

 双頭の蛇アンフィスバエナは正しくアレクサンダーの命に従い、水蛇ヒュドラの鱗に覆われた長い胴を両断する。断末魔はなく、赤ではなく藍色の体液が飛び散った。

「ヒルデ……ガルド……!」

 魔法士が震える声を出したが、アレクサンダーは短刀を構えた。

 まだ仕事は終わっていない。もう魔法は使えないとはいえ、魔法士も殺さなくては。

 それでも、相棒を失ったばかりの魔法士の背を攻撃するのには躊躇い、しばしその場に佇む。

 ――それが完全な判断ミス、失策だったと気付いた時には、魔法士は儀式を終えている。

 絶命には届いていなかったが、瀕死の状態だったヒュドラの真下に魔法陣が現れ、水蛇が光に包まれたかと思うと、ふっと消え失せる。それこそ魔法のように。

「な……!?」

 何が起きたのか理解出来ないアレクサンダーの前で、魔法士がゆっくりと立ち上がった。そして、振り向きざまに片腕を振る。

 違和感は、遅れてやって来た。

 足元に何かが落ちる音がして、そちらを見る。

 上腕部分で切断されたアレクサンダーの右腕が、そこに転がっていた。

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