(8)


 翌朝、葵はいつもの朝食の時間よりも早く階下に降り、厨房で一人分の食事を分けてもらうと、それを持って自室に戻り、一人でそれを食べた。

 そして例によってメイド服に着替えると、レイモンドの元へ行って、その日の作業の開始を連絡しておく。

「僕はもう朝食を食べましたので、アレックスに聞かれたらそう答えて下さい。いいですか? いいですね? お願いしますよ」

「は、はい……」

 異論は許さない、と言わんばかりの葵の気迫に押されたのか、レイモンドはやや青褪めながらも頷いてくれた。

 ここ数日で使用人の仕事をかなり覚えた為、既に作業自体は一人で出来るようになっている。時折ファビーナに指示を仰ぐことはあるものの、葵は館内を一人で動くようになっていた。

 バケツに水を汲み、雑巾を片手に館の窓を拭いて行っていると、少し離れたところからアレクサンダーの声が聞こえた。

「仕事中済まない。アオイを見なかったか?」

「アオイ様ですか? でしたらあそこに……」

 葵は『仕事中』が聞こえた段階でその場を離れ、角を曲がってアレクサンダーの視界から逃れた。

 どうやらメイド服のおかげで、遠目では葵だとわからなかったらしい。レイモンドも、葵の格好については言っていなかったのだろう。怪我の功名と言うべきかどうかはわからないが、葵は胸を撫で下ろした。


 アレクサンダーが葵を探していることはわかっていたが、彼と顔を合わせる心構えも出来ていないので、そうやってアレクサンダーの捜索から逃れていると、流石にファビーナに物申された。

 ファビーナは葵をリネン室に連れ込むと、両手を腰に当てて尖った声を突き付けて来る。

「アレクサンダー様が探してるのに、無視するのは酷くない? 病み上がりなのに、見てて可哀そうになる」

「わかってるよ……」

 アレクサンダーへの尊敬の念の分、迫力が嵩増しされているファビーナに睨まれ、葵は汗を流した。

 そんな葵の様子に、訳ありだと察したらしい。ファビーナは幾分トーンダウンして、小首を傾げる。

「アレクサンダー様と喧嘩でもしたの? それだったら私が口挟むのもなんだけど、仲直りしたいなら早めにした方が良いよ。時間が空けば空くほど、話しかけるのも難しくなるから」

「う、うん……」

 喧嘩ではないのだが、ファビーナの助言は尤もだったので、葵は眦を下げて頷いた。

 明日になったら自分からアレクサンダーに会いに行こう。そう決心しながら。


 昼食を食べて午後になると、ある程度時間に余裕が出来たので、葵は一旦館内掃除の手を止めて、ハタキを手に書庫へと向かった。

 薄暗い書庫に到着すると、いつも通り真っ先にカーテンと窓を開け、次は隣の小部屋へと足を向けたのだが、扉を開けて、葵は硬直した。既にそこだけはカーテンと窓が開けられており、窓際のソファにアレクサンダーがいたからだ。

 一瞬逃げる姿勢になってしまったが、アレクサンダーが眠っていると察して止める。

 起こさないようにそっと歩み寄り、数日ぶりのアレクサンダーを観察する。清潔感のある白のブラウスに黒のズボンを身に着け、豊かな黒髪を緩く編んでいる格好の彼は、ソファに座って読書をしている最中だったのか、背をソファに預けて、膝の上にはひざ掛けと本が乗ったままだった。

 呼吸は落ち着き、顔色も悪くないが、重傷で数日は意識不明だったこともあって、流石に頬が細くなっている。元々頑健な男でも、消耗は激しかっただろう。

 しばらくの間はアレクサンダーの寝顔を眺めていたが、窓から入る風がやや冷えているのに気付き、葵は慌てて窓を閉めた。アレクサンダーの膝の上のひざ掛けを手に取って、広げる。

 そして、そのままアレクサンダーの肩にひざ掛けをかけようとしたところで、右手首を掴まれた。

「え」

 突然のことに反応出来ず、呆けた声を発して瞬きをすると、アレクサンダーの目が開いており、左右で色の違う瞳が葵を捉えている。

 アレクサンダーは葵の手を掴んだままで立ち上がると、無言で葵を見下ろした。葵の手からひざ掛けが離れ、足元に落ちる。

「ちょっと……あの……」

 正体不明の恐れに近いものを抱き、アレクサンダーから距離を取ろうと後退する。が、背後にあったテーブルにぶつかり、そこにそのまま腰を降ろしてしまう。アレクサンダーは葵が離れた分近付き、身を屈めてテーブルの天板に空いている手を突いた。

 顔が近付いたので葵が思わず顎を引くと、アレクサンダーは一瞬だけ葵の格好を見、やっと声を出す。

「……その服装は?」

「開口一番それかよ。……サイズがこれしかなかったんだよ」

 後ろめたいことは何もないのだが、アレクサンダーから目を逸らしつつぼそぼそと言い、そして今度は葵からアレクサンダーに言う。葵が書庫に来ることを見越して、彼が待ち伏せしたのであろうことは、もうわかっている。

「寝たふり、してたんだ」

「ああ。嘘は得意じゃない俺だが、これに関しては俺の右に出る者はいない」

 ふ、とドヤ顔をするアレクサンダーに、騙しのハードルひっく! と突っ込みたかったが、彼を前にすると数日前のあれこれが浮かび、身が強張る。それはアレクサンダーにも伝わったようで、彼は葵を離さないまま問うて来る。

「その……俺に怒ってるのか?」

「……怒ってないよ」

 実際怒っているのではなく、不慣れから来る戸惑いの方が大きい。

 正直に答えたのだが、アレクサンダーは尚も問うて来た。

「じゃあ、俺を嫌いになったとかか?」

「違うって」

「呆れ果てたりとかは?」

「違うってば!」

 しつこい追及に次第に苛立ち、眦を吊り上げて語気を強めるも、アレクサンダーは至極真面目な顔だ。葵が思わず首を傾げると、アレクサンダーは目を伏せた。

「怒って当然のことをした俺が悪いのはわかってるが、怒りや不満を飲み込まず、正直に表に出して欲しいから言ってるんだ」

「え?」

「男子寮で俺がアオイに失礼なことをした時、俺が見張りをしたからいいと言っただろう。あの時みたいに、怒りを鎮める理由を探して、無理やり自分を納得させるような真似は、アオイにはして欲しくない」

 アレクサンダーの台詞に、思わず息を呑んだ。葵の中ではもう終わった話だというのに、彼はずっと気にしていたのだろうか。

 葵が目を瞠ってアレクサンダーを見返すと、彼は続ける。

「アオイの置かれている状況を考えれば、俺に引け目を感じるとか恩を感じているとか、もしくは、俺の機嫌を損ねることによる影響を考えてもおかしくない。俺がいくら否定しても、そういうものだと思っている。だが、アオイが何をどういう風に言ったとしても、それが正直な気持ちなら、俺はそれをそのまま受け入れる」

「アレックス……」

 アレクサンダーの言葉に、体温が上がった。

 どこまで真っ直ぐな人間なんだろう、と思った。葵を含む他者への姿勢だけではなく、葵が疑念を抱きすらした『思惑』ですら清廉すぎる。

 葵がアレクサンダーから逃げ回っている間、どれだけのことを考えていたのだろうか。それを思うと、申し訳なさすら感じる。

 ここまで言われると、誤魔化しや噓は返せない。葵は大きく息を吐いてから、アレクサンダーを見据えた。そして、きっぱりと言う。

「怒ってもないし、嫌いにもなってない。呆れてもない。ただ……ああいうのは初めてだったから、顔を合わせ辛かっただけだよ」

 流石に羞恥を感じて、語尾の辺りは赤面しつつ目を伏せる。と、アレクサンダーが「え」と小さく声を発した。

「初めて? 確かアオイは成人の年齢だったと思うが」

「いやそうだけどね、その通りだけどね!」

 アレクサンダーの言わんとすることを痛いほど感じて、先より顔を赤くしつつ声量を上げる。

 しかしどう思われようと、これが事実だ。

「だから、アレックスに会えなかったのはアレックスのせいじゃなくて、僕の気持ちの問題だったの! アレックスの天然はもうわかってたけど、それでも驚いただけなの!!」

 一気に言うと、アレクサンダーはやっと口を閉じた。彼の視線を頬に感じ、息苦しさまで感じる。

 早くこの拷問に等しい時間が終わってくれ、と祈っていると、ふと、影が差した。

 視線を前に向けると、先より近い場所にアレクサンダーの精悍な顔がある。

「アレックス?」

「じゃあ、その……」

 名を呼ぶがそれは無視され、アレクサンダーが僅かに頬を染め、続けた。

「キスは嫌じゃなかったんだな?」

「へ」

 台詞の意味を理解する前に、アレクサンダーの顔が近付き、見えなくなった。

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