(7)


 レイモンドを起こしてアレクサンダーが目を覚ましたことを伝えると、レイモンドは飛び上がって寝間着のままで、アレクサンダーの部屋へと向かった。葵の部屋はアレクサンダーの部屋の隣なので、途中までは同行したものの、アレクサンダーが起きたならもう安心だろうから、自分は自室に戻ると告げ、その通りにした。

 数日ぶりの主の覚醒という大事件だったので、レイモンドはそんな葵に疑問を抱かなかったようだ。それに安堵しつつ、葵は自室のベッドに飛び込んだ。

 そして、毛布の中で丸まって呻く。

「うああ……あああ~……!」

 アレクサンダーとキスしたという事実に顔が熱くなり、頭を抱えてから手で口元を押さえる。

 寝惚けていたとか、誰かと間違えたとかではない。アレクサンダーはしっかりと葵を認識し、葵と分かっていてキスをしたのだ。

 その理由は何だと考えると、一つしかない。

「えええ~……うごあああっ……!」

 呻きの内容を変えながら、ベッドの上をゴロゴロと転がったが、それで過去が変わる訳がない。

「どうしよう……」

 無意識に口からそんな言葉が漏れ、それによって差し当たっての悩みを悟った。

 明日から、どういう顔でアレクサンダーに会えばいいのだ。生まれてこの方、最大の悩みが自身の身体だった為、恋愛沙汰は常に葵とは縁のない世界の話だった。だから、こういう時にどうするものなのか、さっぱりわからないのだ。

 しかも、相談出来る相手すらいない。

 茉莉は駄目だ。葵に告白して来た相手にデリカシーがなさすぎる。微妙な内容すぎてベネディクトにも話せないし、彼に話すと事態が悪化するような予感がある。アレクサンダーを主とするレイモンドやファビーナも同様に、話せる内容ではない。

「……とりあえず、落ち着いて話せるようになるまで、アレックスとは顔を合わさない方向で行こう……!」

 そう決意して拳を握ったが、一応、後ろ向きの対策だという自覚はあった。


 葵が予想していた通り、アレクサンダーは肉体の回復はしていても、自力で動けるまでにはまだまだなようで、朝食の席には葵しかいなかった。自室で食べるのだろう。

 なので、葵はレイモンドに同席してもらって朝食を食べ、その席で告げた。

 アレクサンダーが目を覚ましたのだから、葵の付き添いはもう不要だろう、だからアレクサンダーが完全復調するまでは、先日のように使用人の仕事を手伝う方向で過ごす、と。

 レイモンドは葵の様子に何かを感じたようだが、かといってその理由までは勿論わからないので、葵の進言には頷いてくれた。

 という訳で、葵は再びメイド服を身に着け、ファビーナの指示に従ってあれこれと雑務をこなし、時間が空けば書庫の掃除を少しずつ進めて行った。葵がそうであったように、アレクサンダーも本を必要とするだろうと見越してだ。

 葵の作戦は成功し、アレクサンダーが目を覚ましてから二日経過したが、彼とは一切顔を合わせずに済んだ。


「アレックスと喧嘩でもしたの?」

「うえッ!?」

 アレクサンダーの見舞いに来た茉莉にそう問われ、葵はその場で数センチ飛び上がった。

 葵はモップを持って廊下を拭いていたのだが、茉莉が葵を探し出した上での質問だったので、やり過ごすことも出来そうにない。

 葵は飛び上がった拍子にずれた眼鏡を正しつつ、愛想笑いをした。

「喧嘩はしてないよ? ただその……なんて言うかね? ほら」

「『ほら』って言われてもわかんない」

 襟元にフリルのある白のブラウス、藍色のフレアスカートを身に着けた茉莉は、頬を膨らませて不満げに葵を睨む。

 そして、葵を上から下までつらつらと眺めてから、半眼になった。

「ていうか葵君、なんでまたメイド服着てるの? 似合ってるけど……」

「え、あ、これはその……」

「まさかとは思うけど、アレックスの倒錯した感じの趣味に付き合わされてるとかじゃないよね? アレックスに恩義を感じてるから、葵君も断り切れずに……とか」

「違う違う、それは絶対違う」

 よろしくない方向へ茉莉の想像が向きかけたので、それは全力で否定した。

 茉莉とのやり取りで思い出したが、やはり、葵の身体についてそろそろ話すべきなのだろう、と思う。

 だが、内容が内容だけに、今この場で話せることではないし、先にアレクサンダーとの問題をなんとかしてから、という思いもある。

 葵の様子を見て、茉莉が軽く息を吐いた。

「言いたくないなら、無理に聞き出したりはしない。けど、仲間外れだけはしないでね。お願い」

「勿論だよ」

 茉莉の台詞に、これは大きく頷く。

 葵は葵で色々と大変だったのだが、だからこそ葵にアレクサンダーがかかり切りだった感がある。その分茉莉は一人にされていたという事実は、無視していいものではないのだ。

 茉莉の立場で考えてみると、もっと葵やアレクサンダーに言いたいこと、ぶつけたいことはあるはずだというのに、彼女は一切それを口に出していない。それは茉莉の強さだと言えなくもないが、だからといって、それに甘えたままでいいものでもないのだ。

 元の世界に未練がないのは茉莉も同じだが、こちらに来ただけで解消される悩みなど、そうあるはずがない。そうアレックスに言ったのは、他でもない葵だ。

 葵は顔を上げ、茉莉の目を見つめて言った。

「高橋さ……茉莉ちゃん。もう少しして色々落ち着いたら、話したいことがあるんだ。こっちに来る前、言おうとしてたこと。茉莉ちゃんには、知っておいて欲しいことだから」

 そう告げると、茉莉は苦笑してから頷いた。


 その日は館中を掃除して回って終わったのだが、夕飯の席でレイモンドが葵に言った。

「アレクサンダー様の体力も戻りつつあるので、明日の朝食からはアレクサンダー様もこちらで食事を摂られます」

「えっ」

「どうかされましたか?」

 葵が青褪めるのを見てレイモンドが首を傾げたので、葵は愛想笑いで誤魔化した。

「いえ、流石アレックス、僕より回復早いなって……」

 何とかそう言うと、レイモンドが気遣わしげに葵を覗う。

「そういえば、アレクサンダー様がアオイ様のことを気にされていましたよ。色々と手伝って下さっていることは伝えましたが……」

「そ、そうですか……」

 そう答えながら、明日の朝にはアレクサンダーと顔を合わせることになるのか、と思った。

 喉に押し込むようにして食事を終え、入浴を済ませると寝間着に着替えて就寝の準備をする。

 灯りを消してベッドに潜り込もうとしたところで、扉が軽くノックされた。

「アオイ、起きてるか?」

「……!」

 思わず息を止め、足音を殺して扉の傍に行く。聞き違えではなく、アレクサンダーの声だ。

「少し話がしたい。その……あの件で」

 低い声が扉越しに届き、心臓が早鐘を打ち始め、その息苦しさから思わず胸元を掴んだ。アレクサンダーの感触が蘇ったので、軽く唇を噛む。

 それでもじっと黙っていると、微かな足音と、隣室の扉が開閉する音がした。それきり、静かになる。

 十秒近くはその場に留まり、それから大きな息を吐く。静かに移動してベッドに潜り込むと、葵はまた頭を抱えた。


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