第四章/融和

(1)


 真っ白かつ優雅な曲線で出来た浴槽に、透明で清潔な湯が並々と入っている。そこに深紅の花びらが浮かべられているのを見て、葵は呻いた。

「うわあ」

 こういう世界に詳しくはないし、騎士の家系と聞きはしたが、きっと貴族とか伯爵とか、とにかくそういう高貴な一族なのだろう。

 アレクサンダーの館で暮らすことになった、一日目の夜である。

 見習い騎士の男子寮と比べると、各段に豪華で煌びやかな館だったが、アレクサンダー曰く、これでも質素な方らしい。確かに王城と比べると地味と言えなくもないが。

 未だ女子寮にいる茉莉に悪いような気もしたが、もし茉莉と一つ屋根の下に暮らすこととなったら、葵の秘密がばれる危険度が格段に上がる。対象は茉莉だけではないとはいえ、アレクサンダーの配慮はそれを憂いてのことだとわかっているので、それは純粋に有難く思った。

 とはいえ、こちらに来てから有耶無耶になっているが、茉莉の葵への気持ちを宙に浮かしたままだ。少なくとも、召喚される直前に告げるつもりだったのだから、時期が遅れただけと割り切って、近い内に言うべきだと思った。


 通常であれば、湯浴みの際は葵自身は指一本動かす必要もなく、使用人が身体を洗ってくれるとのことだったが、それはアレクサンダーが説明して引かせてくれた。異世界での暮らしの方が長いのだから、葵が望んだ場合はそれに沿うよう、一方で、タオルや着替えの準備だけはするようにと。

 そうして葵は誰かに気兼ねすることなく、一人での入浴を楽しむことが出来た。アレクサンダーは普段人に洗ってもらってるのか、お坊ちゃんめ、などと余計なことを考えてしまったが。

 この世界に来た当初は、地球で言うと中世あたりの外国をイメージしていたが、インフラ整備は思ったよりも現代日本に近かった。

 蛇口から出る清潔な水は勿論、下水も整えられていて便所は水洗式。電気に代わるものとして魔術が活用されており、こうしている今も館内は隅々まで明るい。

 こっそりと懸念していた食事も、文化が異なるメニューというだけで、不衛生や寄生虫を原因とした食中毒の類は心配無さそうだ。

 ともあれ、心地よい温度の湯にゆっくりと浸かり、浴槽の縁に後頭部を乗せて大きな息を吐く。

 この館には使用人用のものも含め、浴室も便所も複数あるとのことなので、時間を気にすることもない、とも言われた。なので、こちらの世界に来て初めて、心底寛げる入浴となる。

 入浴前にアレクサンダーと共に夕食も摂ったが、栄養を第一に考えられたメニューで、恐らくはアレクサンダーが葵に配慮して指示したのだろうと思えた。

 アレクサンダーが葵にこれでもかと親切にするのには、実は思惑がある、と言われた。葵に元の世界に戻らず、こちらにいて欲しい、という。

 自分よりも遥かに年上だというのに、仕掛けた悪戯を理由に叱られた子供のような、そんな挙動で言われたら、撥ねつける言葉が出る訳もない。拒否どころか、純粋に嬉しい。

 しかも、葵の存在を求めているのは、多くの人間から恐れられる存在であるという『執行人』だ。

「あー……」

 思わず両手で顔を覆い、息を吐いた。

 正直なところ、元の世界に戻る手段が見つかったとしたら、今の葵は間違いなく迷うだろう。アレクサンダーとの関係は、手放すには惜しいほど大切になってしまった。

 頼りがいのある兄貴分であり、家族よりも近しく、親友よりも適度な立ち位置。今まで他人とは――茉莉とでさえ――距離を置いていた葵にとっては、欲してやまなかったものだ。

 だが、だからこそ必要以上に寄りかかってしまいそうで怖い。


 のぼせる前に入浴を終え、寝間着に着替えて葵の部屋に戻ったのだが、ふと部屋の隅の姿見に目が留まった。

 茉莉やベネディクトの反応を思い出し、鏡に近付いて自分の姿を確認する。

 頬に指先を這わせると、確かに以前にはなかった弾力が感じ取れた。肌も白くなり、滑らかになっている。顔だけでこうなのだから、首から下にも変化が現れているに違いない。

「……やっぱり」

 葵は大きな息を吐きながら、肩を落とした。

 アレクサンダーは特に何も思っていなかったようだが、それは彼が、ここ数日は葵に付き添う生活をしていたからだ。少しずつの変化だったなら、そして他に気にするべき事柄があったのだから、気付かなくて当然だろう。

 いずれは、これについてもアレクサンダーに話さなければならない。だがその時、アレクサンダーはどういう表情を見せるだろう。

 葵が最も恐れている反応を見ることになった時のことを考えるだけで、葵の胃の底が重くなった。



 新たな任務ということで、アレクサンダーはベネディクトと共に館から出立した。

 ベネディクトは銀色の鎧に身を包み、アレクサンダーは漆黒の衣服を纏い、見るものが見れば、それこそアレクサンダーが連行される罪人に見えたかもしれない。

 アレックスとベネディクトを玄関先で見送ったが、姿が見えなくなっても立ち尽くす葵に、レイモンドがそっと言って来る。

「アレクサンダー様が怪我を負って戻られたことは、一度たりともございませんよ」

「はい……」

 気を遣う執事に笑みを返し、館内に戻る。だが、ここ最近は必ず傍にいたアレクサンダーがいないとなると、居心地が悪いというか、身の置き所がない。

 借りていた本を読もうかと思ったが、その前にレイモンドに問うた。

「あの、レイモンドさん」

「レイとお呼び下さい。何でございましょう?」

「レイさん。……何か、お仕事をお手伝いさせてくれませんか?」

 執事のやんわりとした訂正に笑みを返し、葵は言った。


 使用人達が着ているのと同じ服を借りようと思ったが、葵が着れるサイズの作業服が残っていなかったので、汚れてもいい平民服に着替えて、出来る範囲でということで書庫の掃除を任された。

 カーテンと窓を開けて風通しを良くし、本棚に積もった埃を払って行く。

 他の場所に比べて放置気味になっているのは、書庫はアレクサンダーの祖父が管理していた場所であり、厳格かつ本狂いのその人物は、使用人は勿論、孫のアレクサンダーですら書庫に入らせなかったという。

 その名残で、今現在もアレクサンダーがたまに踏み入る程度らしい。掃除もアレクサンダーが気が向いたらする程度なので、葵が掃除をしてくれるなら万々歳だと告げられた。

 口元に布を巻いて埃を落とし、次は床に落ちた埃を箒で掃いて行くと、隣にも部屋があるのか、扉が目に留まった。

 鍵はかかっていなかったのでそこにも入り、やはり閉まっているカーテンと窓を開けた。

 書庫よりも狭く、だがソファとテーブルがあったりと寛げる場所となっており、恐らくはここで本を読んだりもしていたのだろう。書庫よりも掃除が行き届いている印象だ。

 ふと奥に目をやると、布のかかった板状の何かが壁際に立てかけられている。

 なんとなく想像はついていたが、布をそっと退けると大きめの額縁が見えた。この世界には、カメラに代わる撮影機器はないのだろう、家族の肖像画が描かれている。

 が、その全体を見て、思わず葵の顔が強張った。

 描かれているのは壮年の男女と少年の三人で、アレクサンダーとその両親だろうということは想像がつく。だが、整った顔立ちの両親の前にいる少年は、顔が見えなかった。

 少年がかろうじて金髪であることはわかるが、顔の部分がナイフで切り裂かれていたからだ。

「アレックス……」

 思わず顔の消された少年の名を呼び、葵はそっと布をかけ直した。

 

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