(10)


 最も強固に作られている門を潜ると、雲一つない晴天の空の彼方に、黒い雲が見えた。

「あれか」

 アレクサンダーがベネディクトに問うと、首肯が返される。

 全身黒の執行服には、今更気が重くなったりはしない。腰に下げた剣の重さも頼もしい限りだ。だが、常にはない何かが胸の奥に居座っていた。

「ベン、今回はいつもより少し離れた場所で待機していてくれ」

「どうした?」

 馬を再度走らせる前にベネディクトに言うと、彼は眉を潜めて聞き返して来る。

 ベネディクトがアレクサンダーの任務に付き添うのは初めてではないし、戦闘に巻き込まれない配慮も慣れたものなので、今更念を押すことに違和感を抱いたのかもしれない。

 正直なところ、アレクサンダーにも説明しようがなかった。だが、それで漠然とだが察することが出来る。

「恐らくだが、アンフィスバエナと相性が悪い召喚獣が相手かもしれない。今回の任務、手古摺りそうだ」

 アレクサンダーが慎重に言うと、ベネディクトは表情を引き締めた。しかし一方で、アレクサンダーへの信頼は固いらしい。

「油断は禁物だが、いつも通りに戦えば大丈夫だろう。お前は俺を気にせず、存分にやってくれ」

 そう言って来るベネディクトに、アレクサンダーは頷いた。


 今朝早くに命令が下された為、アオイへの説明も碌に出来ずに発つことになった。アオイのことはレイモンドに頼んでいるし、アオイの体調も案ずる時期を過ぎた。

 気がかりなことは特にない、と言えるのだが、敢えて挙げるとすれば、出立の際にアオイが見せた表情だろうか。

 気の利いた励ましを言いたくとも思いつかず、不安を面に出せばアレクサンダーの技量に対して失礼になりかねない。なので、結局は何も言えずに口を閉じたのが丸分かりの姿だった。

 思わずそれにアレクサンダーの方が笑ってしまい、大丈夫だと言う代わりにアオイの頭を撫でた。

 ああいった見送りはいつ以来だろう、と思い返してみるも、あまりにも遠い昔すぎて思い出せなかった。


 目的地が近くなると、街道脇に植えられた木の陰で一旦止まり、軽い食事を摂る。とはいえ、水分と保存食程度だが。

「アオイとマツリをオリヴィアに会わせる話だが、延びてしまったな」

「ああ。その分料理を豪勢にすると張り切ってたよ。お前も楽しみにしとけ」

 アレクサンダーが馬にも水をやりながらベネディクトに振ると、彼は苦笑しながら返す。その会話の中でふと思い出したので、ついでに話題に出した。

「マツリが、仕事を探したいと言っていた。その辺りもオリヴィアに相談出来るか?」

「勿論。オリヴィアは顔が広いし、仕事によっては俺が口利きをしてもいい。あと、仕事とは微妙に違うけど、魔術士の素養があれば食うのに困らなくなるな」

「魔術士か……」

 思いつきもしなかった提案だったので、顎を撫でる。波長の合う召喚獣を見つける必要があるが、魔法を『借りる』力を持つ魔術士は、この世界では高位職になる。

 何よりも本人のやる気が前提だが、悪くないと思えた。


 短い休憩を終えて、また馬に乗って走り出すと、前方には森が見えて来る。そして、ぽつぽつと雨が降り始めた。

「これって……」

「召喚獣の雨だ」

 ベネディクトが外套を羽織りながら眉を顰めたので、答えながらアレクサンダーもマントのフードを被る。雨足は徐々に強を増し、視界も悪くなり始めた。

 森に踏み入ると、少し進んだ場所で足を止め、馬から降りる。

「お前はここで待て。何かあればすぐに動けるように、馬を落ち着かせておくんだ」

 馬の脚が鈍り始めたと見て、アレクサンダーがベネディクトに指示を出すと、流石に神妙な顔で了承が返される。こういう時の動物の勘は、馬鹿に出来ないと知っているからだ。特殊な訓練を受けている馬は、流石に逃げ出したりはしないものの、本能から来る恐怖はどうしようもない。

 ベネディクトと別れると、アレクサンダーは剣の柄に手をかけつつ足を速めた。既に豪雨となっており、樹々の隙間から大粒の雫が注いで来る。

 靄が立ち込め始めて見通しが悪くなって来たので、思わず舌打ちをしてから、自身の苛立ちに気付いて深呼吸した。今抱いている焦燥は、アレクサンダーのものではなくアンフィスバエナのものだ。これは『罪人』に近づけば近づくほど強くなるだろう。

 気を紛れさせる為に、アオイのことを考えた。

 この任務が終わったら、アオイには乗馬を教えよう。こちらでの暮らしが長くなれば、一人での外出もするようになる。その時に徒歩ばかりでは、色々と不便だ。

 文字の読み書きは出来ているようだが、通貨の説明はまともにしていない。働くようになるまでに、理解させておく必要がある。

 それに、アレクサンダーが気に入っている店や、散歩に最適な場所、逆に許可なく立ち入ってはいけない場所、他にも知るべきことはいくらでもある。

 アオイがいずれはここを去るとしても、アレクサンダーが住む世界のことを知って欲しい。もしかしたら、アオイの中にある『どこで生きても同じ』などという考えを無くせるかもしれない。

 そこまで考えて、気付いた。

 『執行人』となってから今まで、任務が終わった『後』のことを考えるのは、初めてかもしれない。



 湖のある開けた場所に到着し、その水面の中央に黒い外套に身を包んだ誰かが立っているのが見えた。遠目でも体格から男だと分かるが、顔は見えない。武器も持っていない様子だ。

 明らかにアレクサンダーを待ち構えていたので、マントの下で剣の柄を握り締める。一時薄れていた不快感が再燃し、アレクサンダーは男に、というより湖にゆっくりと近付きながら、声を上げた。

「お前が『魔法士』か? 違うなら――」

 人違いで殺される前に言え、と告げようとして、男を中心にして漣が立ったのを認める。

 即座に剣を抜き、視界を狭めるフードを外しつつ、構えた。

「ルタザール!!」

 相棒の名を呼ぶと同時に、アレクサンダーの髪が深紅に染まる。降り注ぐ雨がアレクサンダーに接触する寸前に蒸発し、周囲に蒸気が立ち込めた。

 それに構わず、前方に魔法陣を出現させ、剣先で貫く。途端に炎が渦となって男へと向かって行った。――が、アレクサンダーが出した炎を真似るように男の周囲に水柱が立ち昇り、鉄砲水となって火を消し去る。

 対水属性では効果が期待出来ないと見て、アレクサンダーは即座に切り替えた。

「ヘルミルダ! 切り裂け!!」

 自身の髪の色が赤から銀へと代わるのを認めながら叫び、走る。炎を消した鉄砲水が、アレクサンダーのいた場所に突進して、轟音と共に穴を開けた。

 アレクサンダーの命で風が男に向かうが、それも無効化される。それに思わず舌打ちをし、走りながら湖との距離を徐々に縮めると、機を狙って方向転換し、湖に向かって一気に跳躍した。

「ヘルミルダ!」

 切り裂くのではなく、アレクサンダー自身を吹き飛ばす風を起こし、人間では到底飛べない距離を一足飛びに詰め、マントをたなびかせながら剣を兜割りの態勢に構えると、

「――たああぁ――っ!!」

 雄叫びと共に男の脳天目掛けて、渾身の力を込めて剣を上段から振り下ろした。

 一瞬後には男が左右に分かれると見えたが、その寸前に男の足元、湖中から何かが飛び出して来た。アレクサンダーに向かって。

「!?」

 水中から現れた巨大な何かを認識出来ないまま、剣を弾かれて空中で一回転し、そのまま湖に落ちる。

「……っ!」

 咄嗟に息を止めたところで、水の抵抗をものともせずに何かがアレクサンダーに向かって来る。それに対して人差し指と中指を揃えた左手を突き出し、切り裂く風を起こした。

 まともに喰らえば頭部に致命傷を与えられただろうが、察知したのか寸前で方向転換され、しかし巨体の旋回によって巨大な尾がアレクサンダーの目の前を過ぎる。

 青い鱗に覆われたその表皮に剣を突き立てると、数秒後にはアレクサンダーの身が水面へと放り出された。

 運よく地面に向かって飛ばされたので、受け身を取って衝撃を殺す。数メートルは転がってから身を起こすと、水を吸って重くなり、邪魔にしかならないマントを剝ぎ取った。

 そして、水面に立つ男とその背後の召喚獣を睨む。巨大な蛇だ。

水蛇ヒュドラ……」

 双頭の蛇アンフィスバエナとはとことん相性の悪い相手に、苦笑交じりの嘆息が漏れる。頭の数で勝っているのが皮肉だ。

 立ち上がって再度剣を構え、細い息を吐く。

 召喚獣を操る男を討つのが最優先だが、遠くからの魔法は無効化され、近付こうにも場所が悪い。属性もあって、地の利は相手にある。

 狙いを相手に悟られる危険はあったが、炎の魔法を使う準備をすると、髪色が銀から深紅へと変化した。これまでのこちらの動きから、攻撃手段は予測されるだろう。

 アレクサンダーを先に動かそうとしているのか、敵はぴくりとも動かない。期待に沿うのは癪だったが、アレクサンダーは地面を蹴って、湖へと直進した。

 湖の数歩手前で方向転換し、今度は湖の縁に沿って走りながら、魔法陣を足跡のように地面に転々と残して行く。また水柱が立ち、アレクサンダーの軌跡を丁寧に攻撃して行ったが、魔法を発動させてもいない魔法陣は無傷で残る。

 外周を一回りしたところで足を止めると、剣先を男に向けて魔法陣を新たに一つ描いた。そこに突き立てるように、剣の柄を思い切り叩く。

「焼き尽くせ!!」

 命じるが、前方の魔法陣に変化は見られない。が、地下深くから地鳴りが響いたかと思うと、湖の水から蒸気が上がり、少しずつ水位を下げ始めた。

「!?」

 魔法士が慌てて足元を確認し、ヒュドラの身体に飛び乗るが、もう遅い。一分と経たずに水は全て蒸発し、残ったのは巨大な穴と水溜まりだ。ヒュドラが苦しげな声を上げ、力なく湖底に丸まる。魔法で雨は降り続けているが、力の源が消え失せたとなると、どうしようもない。

 油断は禁物だが、勝ちが見えたのでアレクサンダーは大きな息を吐き、一歩踏み出した。

 ――が、ヒュドラの身が震え、萎むように小さくなっていくのを認め、足を止める。弱体化した際の形態変化は珍しいことではない。

 剣を構え、いつでも魔法を出せるように凝視していると、ヒュドラに寄り添っている男が笑みを浮かべるのが見えた。

 そして、アレクサンダーのいる位置にまで及ぶ広範囲の魔法陣が、上空に現れる。

「何っ……!?」

 空を仰ぎ見て、咄嗟に魔法陣の下から退こうとしたが、それより早く黒い雨が降り注いだ。雨よりも激しい勢いでアレクサンダーの身を濡らし、衣服を通して肌にまで届く。

 そこで正体を察したが、遅かった。全身を貫くように激痛が走り、その場に膝を着く。

「ぐ――!!」

 なんとか剣を地面に突き立てて身を支えたが、直後、喉の奥から溢れた血を吐き出した。内臓が潰されたような感触に鳥肌が立ち、遅れて痛みが湧いた。悲鳴すら出て来ない。

 自分の肌が紫に変色していくのを認めてから、顔を上げる。既に男とヒュドラの姿はない。幸か不幸か、アレクサンダーを倒す為ではなく、逃げる時間を稼ぐ為の攻撃だったらしい。

 魔法陣の範囲外のベネディクトと馬は無事であることを祈りつつ、震える手を口元に持って行き、可能な限り長く口笛を吹く。馬がこれを聞いて反応してくれれば、ベネディクトもここに来るだろう。

 だがこのまま待っているだけでは、ベネディクトが運ぶのはアレクサンダーの死体になる。

 アレクサンダーは今度は胸元を掴み、アンフィスバエナに呼びかけた。

「ルタザール……焼き尽くせ」

 一か八かだったが、相棒はアレクサンダーの狙いを察してくれ、炎の魔法を出す魔法陣を描いてくれた。アレクサンダーのに。

 アレクサンダーの肉体の内側が焼かれ、口からは血の代わりに黒煙が漏れる。肉が焦げる匂いが鼻腔に届いたが、それに何か思う間もなく、アレクサンダーは意識を失ってその場に突っ伏した。




 自分が死んだ夢を見たように思うが、目を覚ますと館の自分の部屋だった。

「アレックス!」

 呼びかけと共に、見慣れた天井の前にアオイの顔が見えたので、問う。

「ベンは……無事か?」

 自分が喰らった攻撃をベネディクトも受けていたら、オリヴィアに殺される、と思っての質問だったが、アオイの顔が途端に歪み、黒い瞳からぼろぼろと涙が溢れるのが見えた。

「焼肉状態で死にかけておいて、なんで先に人を気にするんだよ!!」

 焼肉とは言い得て妙だが、アレクサンダーの首にしがみつくアオイに突っ込むことは、流石に出来なかった。

「アオイ……」

 何とか手は動かせたので、思わず笑いながらアオイの後頭部を撫でると、アオイが顔を上げる。

 アレクサンダーが目を覚ますまで、何日経過したのかはわからないが、アオイの目の下には隈が出来、顔色も悪く酷い状態だった。碌に寝ず、碌に食わずの状態だったに違いない。

「……レイさん呼んで来る。皆心配して――」

 アオイが身を起こし、手の甲で顔を拭いつつアレクサンダーから離れようとしたので、咄嗟に彼の腕を掴んで引き止めた。

 そしてアオイの背にもう片方の手を回すと、アオイの顔がアレクサンダーに近付く。

「アレッ――」

 アオイが何か言おうとしたが、構わず唇を重ねた。



■第三章/変容:終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る