(8)
浴場に続く扉の前、つまり廊下で膝を抱えて座っているアレクサンダーを見て、ベネディクトが青褪めた。
「……何やってんの?」
「馬鹿な自分に猛省しているところだ」
アレクサンダーがベネディクト以上に青褪めて小さくなっているのを、通りすがりの見習い騎士がちらちらと見ては汗を流している。
とまれ、ベネディクトはアレクサンダーの前に片膝を着いて、困ったように言って来た。
「ていうか、訓練後だから汗を流したいんだよ。ちょっと退いてくれ」
「後にしろ」
アレクサンダーが胡乱な視線と共にベネディクトに返すと、ベネディクトは愛想笑いをした。そして、アレクサンダーの隣に並んで腰を下ろした。こちらは胡坐をかいて。
「どうしたんだ? 悩みごとか? なら言ってみろ。解決出来ないとしても、話すことで気が晴れることもある」
そう言ってアレクサンダーの肩をポンと叩いて来たが、そもそも第三者に口に出来ることではないので、アレクサンダーはむっつりと黙り込んだ。
実のところ、アレクサンダーがこうやって浴場入り口を占拠しているのは、自分のいじけ場所の確保の為ではない。アオイの入浴が終わるまでの侵入防止だ。
アオイが気にしていることを知っていながら、察するべき事柄に思い至っていなかった。アオイに失礼なことをして初めて気付いた自分は、馬鹿だとしか言いようがない。
これ以上の失態は、本気でアオイに嫌われる可能性が高くなるので、ひとまず今は見張りをしようとした訳だが、これで挽回になるかどうかは神のみぞ知るだ。
膝頭に額を押し付けているアレクサンダーに、ベネディクトが何か言おうとしたところで、背後の扉が開いた。
アレクサンダーが慌てて、そしてベネディクトも釣られて立ち上がると、姿を現したのは当然アオイだ。久しぶりの入浴にそれなりに満足したようで、先よりは顔から険が抜けている。
「……アオイ?」
アレクサンダーに何か言おうと口を開きかけたアオイだが、その前にベネディクトが首を傾げてアオイの名を呼ぶ。
その声色に含まれるものに違和感を抱き、アレクサンダーがベネディクトを見ると、彼は顎に手を当てて、アオイをじろじろと見つめている。
「ベン?」
アレクサンダーが呼ぶと、ベネディクトは我に返ったように碧眼を瞬かせ、そして苦笑した。
「すまん。数日ぶりだからかな、一瞬別人に見えた」
そう言ってアオイの肩を軽く叩き、そのまま浴場へと姿を消す。
その背をアオイと共に見送ってから、ベネディクトがマツリと同じ反応をしたということに思い至った。
偶然だろうか。
と、袖口を引かれたのでそちらを見ると、アオイが小首を傾げてアレクサンダーを見上げている。
「部屋戻るよ」
「あ、ああ」
アオイに促されたので頷くと、アオイはさっさと階段のある方向へ行こうとする。なので、アレクサンダーは呼び止めた。
「昼はもう食べたのか?」
「まだだけど」
「じゃあ、食堂に寄って飯を持って上がろう」
アレクサンダーが言うと、アオイは頷いて軽く笑った。まるで、先刻のことがなかったかのように。
例によってアオイの部屋のソファセットで、向かい合って昼食を食べ始めたのだが、アオイがあまりにも平然としているので、アレクサンダーから切り出した。
「アオイ、さっきは済まない。その……」
「もういいよ。僕を心配して探しててくれたんだろ? 見張りもしてくれてたから、ゆっくり入浴出来たし」
「………………」
気を遣っているのではなく、心底そう言っている、という顔で返されたので、逆にアレクサンダーの方が不安になる。
「アオイ……怪我をする前も、誰もいない時を見計らって風呂に入ってたのか?」
「うん。だって、僕のことを知った人によっては、色々面倒なことになるかもしれないだろ。ここにいるのは一時でも、そういうのは避けたいんだ」
アオイは炒ったひき肉と野菜を卵で包んだ料理を口に運びつつ、そんなことを平然と言う。こちらに来てからではなく、ずっとそうやって生きて来たのだろう。そして、恐らくはこれからも。
同情に近いが、それとは確実に違う感情が湧き、そこで名案が浮かんだ。
「アオイ、もし良ければ……いや、是非聞いて欲しいんだが」
「?」
サラダに手を伸ばしているアオイにアレクサンダーが改まって言うと、彼は小首を傾げる。もしかしたらアレクサンダーの提言は、『友人』の関係でも度を越したものになるのかもしれないが、どうしても聞き入れて欲しかった。
「ここを出て、俺の館に住もう。執事や使用人以外は俺一人しかいないから、気兼ねなく生活出来る。頷いてくれるなら、明日にでも引っ越しを……」
「ちょ、ちょっと待って」
流石に驚いたらしく、アオイが汗を流して手をぱたぱたと振る。アレクサンダーの性格上本気だとわかっているだろうが、だからこその反応だ。
アオイは数回深呼吸をしてから、眦を吊り上げて言った。
「まずはご飯を食べよう。それからゆっくり話そうか」
「……ああ」
一笑に付したりはせず真剣に考えてくれるらしいので、アレクサンダーは止まっていた食事の手を再開した。
黙々と食事を終えて食器も片付け、食後のお茶を用意してから、改めてアオイと向き合う。
アレクサンダーの提案の意図はしっかりと伝わっていたようで、それについては礼を言われた。だが、それでもアオイの表情は暗い。
「アレックスの考えはすごく嬉しいんだけど、その……」
「気になることがあるなら、言ってくれ」
言い淀むアオイに促すと、アオイは逡巡の後に目を伏せた。
「正直、アレックスは今の段階で十分以上に助けてくれているから、これ以上は流石に悪い。僕とタカハシさんがこっちに来た経緯があるから、責任感もあるんだと思うけど……」
そこでまた言い淀み、しかしアオイは顔を上げてきっぱりと言う。
「これ以上されると、アレックスはそういう人間じゃないと分かっていても、何か思惑があるのかと疑ってしまいそうになる。そういうのって自分でも嫌だから、気持ちだけ受け取っておくよ」
言い終えてから小さく謝罪するアオイに、アレクサンダーは困り果てて髪を掻いた。
どう言えばアオイを説得出来るだろうかと悩むも、アレクサンダーに言えるのは一つだけだった。
「正直に話す。……思惑はある」
「えっ」
アオイが目を丸くしてアレクサンダーを見返すが、その目を見れず、アレクサンダーは膝の上で組んだ両手の指を無意味に動かしつつ、ぼそぼそと言った。
「こちらでの生活が気に入ってくれれば……元の世界には帰らずにいてくれるんじゃないかと思った。アオイとは……勿論マツリともだが、折角仲良くなれたのに別れたくない。……これを言うと、絶対に気を遣わせると分かってたから言わなかったが……」
ここまで来たら伝えておきたくなった、と尻すぼみの声で告げると、アオイの顔から目を逸らした。
本心ではあるが、だから何を言っても良い、というものでもない。アオイの重圧になる可能性を承知していながら告げたのだから、今後は距離を取る選択をされたとしても仕方がないのだ。
アオイは何を返して来るだろうかと戦々恐々としつつ返答を待つと、ふと、吐息のような音が聞こえた。
視線を戻すと、苦笑しているアオイの顔が見える。
「そんなこと考えてたんだ……全くもう……」
呆れているようでいて、どこか嬉しそうな表情にアレクサンダーが見入っていると、アオイが笑いながら頷く。
「わかった。そういうことならアレックスの館に住まわせてもらう」
「……いいのか?」
「勿論」
夢ではないだろうか、とアレックスが瞬きを数回してから確認すると、アオイは大きく頷いた。
満面の笑顔で。
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