(3)


 その日は流動食に近いものしか食べられなかったが、次の日になると、アオイは少しずつ通常の食事を摂り始め、顔色も徐々に良くなって来た。青白さがなくなり頬にも朱が差して健康的な顔色になる。

 むしろ、この世界に来た直後よりも元気そうに見えて来る。それは流石に気のせいだろうが、アレクサンダーはほっとした。

 だが、体力が完全に戻るまでは回復しておらず、食事を摂って薬を飲むと、薄手の寝間着を身に着けたアオイは、長くは起きていられずベッドに横になった。

「薬の所為かもしれませんが、すごく眠くて……」

 アオイがベッドの中からそう言ったので、アレクサンダーはアオイの額をぽんぽんと叩いた。

「治癒魔術を使ったせいだ。怪我を治すのには、対象の体力だけじゃなく精神力も利用するから、怪我はすぐに治っても、その疲労が長く残るものなんだ」

「そう、なんですか……」

「魔術も万能じゃない。基本魔術は、その性質に関わらず被術者の肉体と精神の両方に影響を及ぼす。肉体的な若さだけじゃなく、精神の強さ次第で完治まで長引くこともある程だ。……アオイが重傷でもここまで回復が早いのは、強いからだな」

 アレクサンダーがそう言って笑うと、アオイは複雑そうな顔をした。アレクサンダーが首を傾げると、アオイはそっと目を逸らす。

「強くはないですよ。結局僕は、アレックスさんの足手纏いでしたし……」

「そんなことはない」

 アオイの台詞に、アレクサンダーは即座に首を振った。

「俺一人では、戦っている内にマツリをどこかに連れて行かれたかもしれない。殺されていた可能性もある。アオイが矢を受けたのも、俺を庇ってだろう。それでも足手纏いだったと感じているなら、それは同行を許した俺の判断ミスの所為だ。アオイが気に病むことは何もない」

 きっぱりと言うと、アオイは驚いたようにアレクサンダーをじっと見つめ、それから突然毛布に包まってしまった。

「アオイ?」

「ね、寝ます……」

「そうか」

 アレクサンダーは素直に頷き、僅かに覗いているアオイの黒髪を軽く撫でてから立ち上がると、日差しが入って来る窓のカーテンを閉めた。

「俺もそこのソファで仮眠をとる。何かあったら呼んでくれ」

「はい……」

 くぐもってはいるがはっきりと返されたので、ほっと息を吐いてから部屋の隅のソファに歩み寄る。そこに置いているブランケットを被ると、アレクサンダーも横になった。

 アオイの容態の急変を恐れて、ここ数日は碌に寝ていなかったので、目を閉じてすぐに眠りに落ちた。

 しばらくしてから、誰かが前髪に触れた感覚がしたが、窓を開けて風を入れていたから、それのせいだろうと夢現で思った。


 どたん、という鈍い音で目を覚まし、即座にブランケットを跳ね飛ばして床に降り立つと、アレクサンダーは傍らに置いていた剣を手に取った。

 が、剣を鞘から抜こうとしたところで、ベッドの下に倒れているアオイを発見すると、剣を放り出してアオイに駆け寄る。

「アオイ!」

 呼びかけながら抱き起すと、久しぶりに眼鏡をかけているアオイが、申し訳なさそうな顔を見せる。

「す、すみません。歩こうとしたんですが、思ったより力が入らなくて……」

「怪我は? どこか打ったりは?」

「してません」

 アレクサンダーが問うと、アオイはぶんぶんと首を振る。それには安堵の息を吐き、改めて問う。

「まだ一人で歩くのは無理だ。どこかに用があるのか?」

「えっと……トイレに」

 頬を染めるアオイに、そういえば失念していたとアレクサンダーは思いつつ、アオイの背と膝裏に手を添えて抱き上げる。そのまま扉に向かって進み始めたアレクサンダーに、アオイが慌てて言って来た。

「え、ちょっと、アレックスさん。肩を貸してくれるだけで……」

「身長が違いすぎて無理だ」

 アレクサンダーがずばりと切り返すと、アオイは頬を膨らませてむっつりと黙り込んだ。揶揄う意図はなかったものの、アオイのその様子に、アレクサンダーの頬が思わず緩んだ。


 アオイの部屋に戻り、時間を見ると夕方だったので、アオイに腹具合と食べたいものを聞いてから、アレクサンダーは夕飯を二人分食堂から運んだ。

 アオイが希望したのでベッドではなくソファセットに食事を運び、向かい合ってソファに座る。アオイが例の挨拶をしたので、アレクサンダーも見様見真似で両手を合わせた。

「イタダキマス」

 と言うと、アオイがはにかむように笑った。

 アオイの顔には数時間前に見た陰りはもう一欠けらもなく、年相応の屈託さが覗える。むしろ、怪我を負う前にあった僅かな遠慮も、今では消え失せたようだった。

 それを見ると、アオイがずっとこちらにいてくれたら、と望んでいることを自覚する。

 そしてふと、アオイが言っていた台詞を思い出した。『どこでも一緒だから』という内容をアオイは言った。手段があるなら帰る。帰られないならそれでもいい、と。

 であれば、こちらの世界でも良いのではないか。どこでも同じなら、アレクサンダーが生きるこの世界でも構わないのではないか。

 アオイの、そしてマツリの望みを優先すると言ったのは噓ではないし、軽々しい気持ちでもない。けれど、万一帰る手段が見つかり、アオイが元の世界に戻ることを望む言葉を吐けば、アレクサンダーは必ず落胆するだろう。

 それが現実となった時のことを想像し、アレクサンダーは思わず俯いていた。

 今自分が考えたことは、決して口にしてはならない。口にすれば最後、アオイは迷うだろう。そういう人間だということは、もう分っている。そういうアオイだからこそ、アレクサンダーは居て欲しいと願っているのだから。

「アレックスさん?」

 呼ばれ、我に返って顔を上げると、アオイが首を傾げてアレクサンダーを見ている。

「嫌いなものを取って来ちゃいました? 何かと交換します?」

「あ……ええと、じゃあこれを」

 これ幸いと、別に嫌いでもないが特に好きでもない味付けのミートボールをアオイに渡す。代わりに、白身魚のフライを一枚もらった。

 こんな他愛のないやり取りも、アレクサンダーが『執行人』になると同時に失ったものだ。

 自分がアオイを気に入っている理由を改めて感じ、アレクサンダーはこっそりと小さな息を吐いた。


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