(7)
アレクサンダーに案内されて到着した街は、非現実を体験していなければ、元の世界の外国としか思えない光景だった。
石畳の道路の両脇に石造りの店が所狭しと建ち並び、店頭には様々な日用品や食料品が売られている。見上げれば建物の間にロープが張られ、売り物の反物や住人の洗濯物が旗のようにはためいていた。
早い時間だからか準備中の店も時折見受けられ、アレクサンダーによれば、今は空いている時間帯らしい。
「昼食はそこらの店で食うとして、着替えになる服を最優先、あとは日用品を揃えないとな」
アレクサンダーが顎を撫でながら言った台詞に、茉莉がやや気恥ずかし気に口を挟む。
「あの……少しでいいので、化粧品とお肌のケア用品も……」
と言われて、アレクサンダーと葵は揃って茉莉の顔を見つめ、そして顔を見合わせる。
「今、化粧してなかったの?」
「してないよ。初日に化粧落としだけ借りて、そのままずっとスッピンだよ」
葵の質問に茉莉が唇を尖らせるが、アレクサンダーは顎を撫でる。
「化粧品の店に寄るのはいいとして……素でそこまで綺麗なら、化粧の必要はないんじゃないか?」
「ほひゃ!」
真顔で言われた茉莉がおかしな声を上げ、耳まで赤くなる。そして、顔を隠すように葵の肩に縋りつき、震えながら問うて来た。
「あれ、本気で言ってるの? ねえ。それともお世辞?」
「本気だよ。お世辞を言うような人じゃないよ」
なんとなくアレクサンダーの性質を理解し始めた葵は、半眼で茉莉に返した。
茉莉にしかわからないものだから、とアレクサンダーは真っ先に化粧品の店に入り、しかし会計以外は手持無沙汰になるアレクサンダーと葵は壁際のソファに座って待つことになる。
茉莉は店員にあれこれと出してもらい、真剣な顔で吟味している。
その様子を遠目に見、アレクサンダーは葵に問うて来た。
「もしかして、アオイとマツリは恋人同士なのか?」
「いえ、そうじゃないです。同じところで働いてたので、年も近いし仲が良いだけです」
「そうなのか……」
葵がやんわりと否定して、少しだけ事実とは遠い説明をすると、アレクサンダーはふむ、とだけ返す。
その横顔をこっそりと眺め、茉莉が頷けば、アレクサンダーは彼女を妻として迎え入れるだろうな、と思った。
男性恐怖症に近い茉莉でも、アレクサンダーの人の好さを感じ取り、積極的にやり取りをしようと努力している。今は身近な者に対する好感程度だろうが、それはいずれは恋に代わり、愛情にも育つかもしれない。
そして、アレクサンダーならば茉莉を幸せにしてくれるだろうし、葵は友人である茉莉の幸福に素直に喜び、祝福も出来る。茉莉の葵への好意を知っていても。
葵がアレクサンダーの横顔から茉莉の姿に視線を移動させると、アレクサンダーがぽつりと言った。
「アオイ、マツリと仲の良い君だから聞くんだが……マツリには何か、悩みでもあるのか?」
「え?」
思わず呆けた声を発し、またアレクサンダーを見る。彼はやはり茉莉を見つめていたが、数秒後に葵に視線を戻した。
「いや、突然済まない。……こんなところでする話じゃなかった」
「………………」
ぽつりと謝ってからまた前を見るアレクサンダーに、これが自分とアレクサンダーの差だ、と思った。
例え茉莉が何かに悩んでいると察することが出来ても、自分は積極的にそれを知ろうとはしない。茉莉との付き合いが長くとも、葵は自分で勝手に線引きをして茉莉とは距離を取って来た。
一方アレクサンダーは、顔を合わせていくらも経っていないのに、茉莉の味方になろうとしている。
そしてこの決定的な差が、茉莉に告白された時に受けられなかった理由だ、と改めて思った。
化粧品屋を出ると次は服屋に寄り、着替えとなる衣類だけではなく、下着やソックスなども数日分揃え、更には靴までアレクサンダーは買ってくれた。
二人分となると結構な量になったが、アレクサンダーは品物が一切置いていない小さな建物に寄る。どうやら郵便局のような場所だったらしく、今日購入した品々は、一旦男子寮に届けられる手筈となった。
太陽が真上の位置に差し掛かったので、そろそろ昼食を摂ろうという話になり、アレクサンダーが勧めるパン屋に向かった。
三人で数種類のパンを選び、紅茶やハーブティーなど飲物も頼んで外のテーブル席に座ると、何気ない雑談をしながらパンを食べた。
その時に気付いたのだが、道を行く人々がさりげなくアレクサンダーに視線を送っている。恐れられている『執行人』だからか、と思ったが、アレクサンダーを見ているのは主に女性だと気付くと、成程、と思った。
初めて顔を合わせた際に着ていたような、重苦しい衣服を身に着けていなければ、アレクサンダーの顔を知らない限り、彼は一般市民としか認識されない。もしくは、休暇中の騎士か。
畏怖を感じさせる髪は背中で編まれ、それによって精悍な顔が隠されることなく露になっている。やや前髪が長めのように思えるが、陰になっていることで眼光の鋭さが減じられていた。
それでいて大柄で逞しく、会話の最中に時折見える人懐っこい笑みが加わると、十二分に世の女性が秋波を送るに足る好青年となる。
ベネディクトとの会話を思い出し、世の中上手く行かないものだな、と思った。
こちらとあちらのパンの違いを語り合っている、アレクサンダーと茉莉を眺めながら、葵が黙々と食べていると、ふと茉莉が立ち上がった。
「どうした?」
「えっと、お二人はちょっとここで待ってて下さい……」
頬を染める茉莉に、アレクサンダーも立ち上がる。
「いや、迷子になると大変だ。俺も付き添おう」
と言うが、茉莉の表情で葵は察した。アレクサンダーの袖を軽く掴み、眼鏡のブリッジを人先指で押さえながら、言う。
「アレックスさん、僕らはここで待ちましょう」
「しかし……」
「化粧直しなので」
葵がそっと言うと、一瞬アレクサンダーは考え込んだ。化粧はしてなかったのでは? と思ったらしいが、数秒後にやっと察してくれた。
「そ、そうか。場所はわかるか?」
「はい、大丈夫です。すぐに戻ります」
アレクサンダーがぎこちなく発した問いに茉莉も赤くなりながら返し、そそくさと歩いて行く。それを見送ってから、アレクサンダーは腰を下ろした。
「ありがとう。気付かなかった」
「いえ、これくらいは別に……」
珍しく頬を染めているアレクサンダーに笑ってから、ふと思い出してアレクサンダーに問う。一瞬だけ周囲を見渡してから。
「アレックスさん、さっき言ってたことですが……」
「ああ、うん……」
葵が促すと、アレクサンダーはハーブティーを一口飲み、しかし一見違うことを口にした。改まった様子で。
「アオイ。マツリもだが……君達はこっちでずっと暮らすつもりはないか? 元の世界に戻りたいと思っているか?」
真剣な顔にやや身を引き、やけに性急なのはそれなりに理由があるのだと察する。だが、茉莉はともかく葵の回答は決まっている。
「……慣れた世界なので戻れるなら戻るかもしれませんけど、戻れないならそれはそれで構わない、くらいの気持ちです。どこでも一緒なので」
葵は正直に答えたが、アレクサンダーは神妙な顔をする。なので、彼にとって重要であろう、茉莉の話をした。
「高橋さんはどう思ってるのかわかりませんけど、例えこちらで暮らすとしても……アレックスさんとなら、上手くやっていけるんじゃないかと……」
「アオイ、そういうことじゃない」
言い終える前にアレクサンダーに止められ、いつの間にか伏せていた顔を上げる。左右で色の異なる瞳が、葵を真っ直ぐに見ていた。
「隠しておくのはフェアではないと思うから、今言っておく。正直なところ、黙っておくべきかと思っていたが……」
「……なんです?」
「アオイ達を喚ぶのに行われた、儀式のことだ」
葵が両目を瞬かせると、アレクサンダーはやや身を乗り出して、声を潜めるように低くする。
「選定……というと語弊があるが、術を成功させる基準があるんだ。こちらが望めば、誰もを喚ぶことが出来る訳じゃない」
「……と言うと」
何か不吉な台詞が続く気がしたが、耳を閉じることは出来ないので、聞くしかない。葵が促すと、アレクサンダーは一瞬だけ迷う素振りを見せつつも、続ける。
「今回は俺の伴侶を呼ぶ為の儀式だったからだが、まずは俺と波長の合う人間。これが第一の条件だ」
波長、と聞き、どこかで聞いた覚えがあると思った。昨日のベネディクトの説明だ。
「第二の条件は、生まれた世界に未練がない者……つまり、故郷を離れても構わない、そう思える程の事情がある人間だ」
「っ……!」
一瞬、息が止まる。そして、次は一転して心臓が激しく動き、葵は思わず胸元を掴んだ。
アレクサンダーの言った内容は、葵には心当たりがある。だがそれは、茉莉にもそれほど思い悩んでいることがあるという事実に繋がる。
やりきれない気持ちから葵が背を丸めると、アレクサンダーがそっと背を撫でて来る。
「済まない。土足で踏み込むような真似をして」
「……いえ、いいんです」
軽々しい気持ちではなく、心底葵と茉莉を案じての言葉だ。感謝しこそすれ、怒りは感じない。
アレクサンダーを心配させてはならない、その思いで顔を上げて背筋を伸ばすと、アレクサンダーが厳しい顔をしていた。
「……アレックスさん?」
「マツリが遅すぎる」
葵の呼びかけに、それだけ言ってアレクサンダーは立ち上がり、外していた剣を腰に下げた。
「アオイはここで待っていろ。絶対に一人で動くな。騎士の一人を迎えに寄こさせるから、そいつと一緒に先に寮に戻っておけ」
言うだけ言って、葵の返答も聞かずにアレクサンダーは駆けて行ってしまう。大柄な体躯からは想像もつかない、かなりの俊足だ。
一人取り残された葵は、腰を持ち上げるも椅子の上に逆戻りし、しかし数秒してからまた立ち上がり、アレクサンダーの後を追って駆け出した。
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