第3話 シリーン

シリーン 〜ああ、追放されるなんて

1


「シリーン、お前はもう聖女ではない」


 父は、冷たく言い放った。わたしは逃げ出したい気持ちを抑えて父の言葉を受け止めていた。


 ここトスギル天主教国は、聖女信仰が国を支えている。精霊の加護を受けた聖女の祈りによって天上のあるじの恩寵を賜り、国は護られ栄えるとされている。人々は精霊魔法を使いこなし、とりわけ癒やしの力に秀でる乙女の中から聖女が選ばれる。


 天主教の実権を握る大司教の父は、身寄りのないわたしを引き取って聖女候補として育てた。ところがわたしの一つ違いの妹も、父の対立派閥の家に引き取られて同じく聖女候補となったのだ。

 儀式によって精霊と契約すれば聖女と認められるが、稀に固有の人格と姿を持つ高位の精霊との契約を果たす者もいて、そのような優れた乙女は国母となるべく王家に迎え入れるのが習わしだ。


 十八歳になり、わたしと妹は相次いで精霊と契約した。どちらがより高位の精霊なのかを競うことになり、王家一族の御前で加護の力を披露することになった。妹は派手に力を使ってみせたが、その源が下等な精霊の寄せ集めであることは、わたしの目には明らかだった。一方わたしの精霊は高位らしい誇り高さゆえ、こんな見世物に付き合えるかと隠れてしまった。この失態により、わたしは聖女の称号を剥奪され、父も大司教の座を追われ対立派閥に取って代わられることとなってしまった。妹は未来の国母――王太子妃となることが決まり、勝ち誇った笑みをわたしに向けた。妹が実は先に王太子を籠絡しており、実績を演出するためにこの場を仕組んだことは周知の事実だった。


「お前のせいで、わしの世も終わりだ」


 父はいつものように長々とわたしを叱責し、わたしの頭を空にしたところではっきりと言い渡した。


「出ていけ」


 鉄棒を飲まされたように、わたしの胸をすっと冷たいものが落ちていった。


「お前がもはや聖女でないならば、この家にいる意味もない。投資は無駄だった」


* * *


 ぱたぱたと、蝶の羽音がする。

 気づくと、わたしはどこかの森の中に居た。わずかな荷物と粗末なローブ、スカーフで覆ったベージュの髪。自分自身を一瞥し、家を出たときの姿のままであることに少し安心した。

 木立の向こうが少しひらけていて、秋の日が差している。遠くで人の声が聞こえたので、さらに心強くなった。

 いくつかの声が近づいてくる。


「殿下、お見事です」

「いや、ジョンのおかげで何とか面目を保てた。いい猟犬だな」


 どうやら、貴人が猟を楽しんでいるところに出くわしたみたいだ。弓を携えた黒髪の若者が馬でやってきて、歩みを緩めた。彼が殿下と呼ばれた人だろう。わたしより幾分若そうだ。

 伴走していた従者は藪に入り、獲物を見つけてきた。もう一人、これも従者だろう少年が追いついてきて、犬を集めようとした。

 しかし犬は急にこちらに走り寄り、わたしの潜む茂みに向かって一声二声吠え立てた。


「ひっ…」


 こわい。とてもこわい。わたしは父の怒鳴り声を思い出し、頭が真っ白になった。


「どうした、ジョン! 待て。…待て、そのまま」


 犬は唸り声を上げながらこちらを見ている。少年がゆっくりと茂みを回り込んできた。


「……」

「……」


 そして、涙目のわたしと出会った。少年は、戸惑いながらわたしを上から下まで眺めると、片手を上げて他の二人に合図した。


「ええと…何をしているんですか? 今日はこの辺は立入禁止ですよ…?」


 問いかけを聞いて危険はないと判断したのか、馬上の若者が構えた弓を下げた。変に動いたら射られていたのかと思うと、急にわたしは震えてきた。


「あ、あの」


 何か話さなければ。


「大丈夫ですか」

「は、はい、あの。…あの、ここは、どこでしょうか…」


 話したら余計自分が不審者みたいに感じられた。


「ヨハン、誰がいるんだ?」


 がさがさと黒髪の若者も馬を降りてあらためにきた。わたしを認めると、息を呑んで顔色を変える。ああ、何だかもうだめだ。体はまだがくがく震えているし、とうとう涙もこぼれてしまった。


「すまない! こんなところに人がいるとは。ご婦人に矢を向けた無礼をお許しください!」


 若者は速やかに膝を折って謝罪した。でもわたしはまだ声を出せない。


「立てますか? こんなところにいては危ない」


 差し出された手にためらいながら掴まり、立ち上がろうとしたがやはり膝が崩れた。


「おっと。ウィスカー!」

「だめです」


 若者は長身の従者を呼んだが、ウィスカーと呼ばれた彼は服の前もグローブも、泥や獲物の血で汚れていた。目の前の殿下なる若者がもっとも衛生的だった。ヨハンという名らしい少年従者の方は、手を出して殿下から弓を預かろうとした。


「……。失礼、立て続けの無礼をご容赦ください」


 殿下はやにわに上体を屈めると、わたしの背と膝に腕を回してさっと抱き上げた。


「あっ…」

「安全なところまでお連れします。近くで僕の連れや友人らがたむろしていますから、そこで少し休まれてください」


 されるままになるしかない。歩き出した殿下の胸に頭が触れ、図らずも早鐘の響きを聞いてしまった。みっともない涙を拭いながら目を上げると、殿下はまっすぐ前を見たままで、ただ一瞬だけ睫毛を揺らした。


 とても気まずい。何か考えよう。ここがどこか聞かなければ。わたしは何か聞かれるのだろうか。殿下と言うなら王族だろうが、トスギルにこんな王族はいない。ここがトスギルでないならなぜ言葉が通じるのだろう。精霊の加護だろうか。わたしの精霊が、気を損ねていたのにまだ力を貸してくれているのだろうか。


 取り留めもなく考えているうちに、目的地に着いたようだ。殿下の馬を従者の一人が引き、もう一人は先触れに行っていた。一つのテントのそばに野外用の椅子がいくつかと猟の道具が置かれ、その手前で殿下と同じ年頃の若者たちが、奥では数人の使用人が待機していた。


「おーやおや! 殿下にはかなわないなあ。狐狩りに出たはずなのに、こんな麗しい牝鹿を捕まえてくるなんて」


 友人が囃すと、ようよう鎮まっていた殿下の鼓動がまた早くなった。


「ピート、やめてくれ。ご婦人が怯えるだろう。…オリバー、彼女を頼む」


 殿下はわたしをオリバーという友人に引き渡そうとした。お姫様抱っこのリレーで椅子まで運ばれるのはさすがに恥ずかしすぎる。


「あ、あ、わたし、もう立てます」

「お気になさらず。どうぞ」


 それでもオリバーさんは、地面に足をついたわたしの手を取って、椅子までエスコートしてくれた。わたしと変わらない年頃の若者たちに丁重に扱われてしまい、自分があまりに身の程知らずのように思わされる。気づくと、使用人にお茶らしきものを差し出されていた。熱さに気をつけながら数口飲むと、やっと人心地がついた。


「それで、あなたはいったいどなたですか。あんなところで何をされていたのです?」


 落ち着いたと見て、殿下が問いかけを始めた。


「…は、はい。わたし、シリーンと申します。その…気づいたらあそこにいたのです。信じていただけないかもしれませんが」


 皆いぶかしげな顔をしている。殿下が黙っているので、わたしはもう少し話した。


「あの、わたしもお聞きしたいのですが、ここはどこなのでしょうか」


 殿下は、組んだ両手の親指で顎を支え、何か考えこんだ。


「と言うより、あなたはどこからいらしたのかな。あなたの話し方は少し不思議な感じがする。口の動きと声が合っていない」

「え」


 友人たちは、違和感に得心がいったという顔をした。言われてみれば確かに、わたしに聞こえる彼らの声も、彼らの口の動きどおりに出ているようには見えなかった。何てことだろう。やはりここは外国なのだ。


「…それは…精霊の加護ではないかと思います」

「精霊!?」

「精霊って、あの精霊か? 実在するのか?」


 友人たちが口々に驚きの声を上げる。一方、殿下はそこまで動揺しなかった。


「なるほど。精霊の加護を受けられるというと、あなたはトスギル天主教国の方ですか」


 トスギルかあ、と空気がなぜか和らいだ。

 しかしピートさんが不思議そうに言った。


「でもおかしいな。トスギルとの通商路は、夏の水害以来だめになってるはずだよ」

「その前に入国してて、帰れないだけかもしれませんよ」


 オリバーさんが礼儀正しく答える。


「そんなトスギル人がいたら、うちの者が面倒見てるね。トスギルとの通商権は、この国ではうち、ガードナー商会だけだから」


 ピートさんの家は商家らしい。でもわたしはトスギルに出入りする外国の商人のことは知らないので、屋号を聞いても心当たりがなかった。


「失礼しました。あなたの質問への答えがまだでした」


 殿下が仕切り直した。


「ここは、ガレンドール。トスギルからは、はるか西北に位置する国です」


 ガレンドール…! 名こそ聞き知っているものの、わたしにとっては西方の国々こそ、実在するのかと言いたくなるほど縁遠いものだった。


「一体どうやってここへたどり着いたのです? それも精霊の加護ですか」


 わたしだって知りたいが、殿下の推測どおりと考えるほかない。


「…おそらくそうだと思います。わたし、あの、わたし…聖女、でしたから…」

「「「聖女」」」


 皆の声が揃った。


 殿下は顔に手を当てて天を仰ぎ、うすうすそうじゃないかと思ったが、とうめいた。

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