第一部 令嬢たちとのロンド

第1話 アナスタシア

アナスタシア 〜前世の記憶

1


 私が最後に覚えている光景は、高く振り上げられた馬の前足だった。

 一閃の衝撃のあと、音も感覚も意識も、すべてが遠のいていった。


 仕方ないわね、馬車の前に飛び出してしまった私が悪いのよ。

 馬に蹴られて死ぬなんて、やっぱり私は人の恋路を邪魔していたってことかしら。

 おかしいわね、どうして私はあなたの恋路にとって邪魔だったのかしら。

 だって私、あなたの婚約者だったのよ。

 あなたが恋するべきは私だったのよ。


 …ねえ、殿下?


* * *


 少し長い独白になるけれど、誰かに届くならこのやるせない思いも浮かばれるかもしれない。


 私はアナスタシア・ハイリッジ、公爵家の娘。

 謹厳な父と貞淑な母の間に生まれ、ハイリッジ家らしい豊かなティーブロンドの髪と美しい青い目が自慢だった。


 七歳のとき、この国の王太子殿下との婚約が決まった。交換した肖像画の、同い年なのに凛々しい御姿に夢中になった。


 その年の社交シーズンに初めて王都に出て、殿下へお目通りすることが叶った。

 殿下の紳士的な態度が嬉しくて舞い上がったけれど、彼が私はおろか結婚というものにもまだ関心を持っていないことはすぐに分かった。

 まだ七歳の男の子では仕方がないかもしれないが、その後も面会やお茶の機会を持ってもあまり距離は縮まらなかった。


 それでも当然ながら、私には将来王妃としてふさわしくなるための数々の教育が施された。つらくなかったと言えば嘘になる。でも立派になれば、殿下も私をより好ましく思ってくれるに違いないと、自分で自分を励ましていた。


 十三歳になり、私たちは貴族や各界の有力者らの子女が通う王立学園に入った。

 殿下は私の能力に敬意を示し、マナーどおりに容姿を褒めてくれるようにはなったが、声にも目にも熱がこもる素振りはなかった。


 三年後、良くない転機が訪れた。


 初めは私も警戒していなかった。一学年下に転入してきたその少女は、田舎の名ばかり貴族の娘だったが出自を忘れるほどに輝く愛らしさがあった。しかし天真爛漫な活発さは、逆に言えば粗野でマナーがなってないことであり、ゆえにしばらくの間彼女は孤立せざるを得なかった。


 気の毒に思い面倒を見てやると、「お姉さま」と慕われるようになった。マナーを教え勉強を教えるうち、彼女は殿下とも顔見知りになり、やがてすぐに友人に格上げされた。


 いつの間にか彼女は生徒たちの輪の中心になり、殿下のみならずその友人たちとも親しく接するようになっていた。一方で、私を見ると相変わらず「お姉さま」と駆け寄ってきては、特別に扱っている風に見せた。


 気づくと、殿下は本来なら婚約者にのみ与えるような特権を彼女に惜しげもなく注いでいた。手紙や贈り物のやり取りに始まり、観劇、ボート遊び、球技観戦の招待、それらすべての場面で彼が口にする言葉、眼差し、ふとしたエスコートを。私がどれだけ渇望してもついに受けることのなかった、甘く優しい笑みまでも。それらが私の目の前で行われることもあれば、私だけがその場から外されることもあった。「君はしっかりしているだろう」を言い訳に、私は忘れ去られた。


 十七歳が近づいた頃、さすがに距離感が近すぎると苦言を呈したことがあった。私の中の醜い感情を必死で気取られないようにしながら。けれど、そんな私を彼はますます疎んじた。


 その一件を境に、私は足元が砂になって崩れるかのごとく厳しい立場に追い込まれていった。学園の中では人々が距離を置き、殿下の友人たちはあからさまに刺々とげとげしくなり、そして殿下は汚らわしいものでも見るような目で私を睨むようになった。理由を問うても「自分の胸に聞いてみろ」の一点張りで、取り付く島がなかった。


 彼女だけが「お姉さま」とすり寄ってくるので、一人でも味方が欲しかった私は邪険にすることもできなかった。


 年度末の学園主催の夜会の場で、真相が明らかになった。


 私は衆目環視の中、殿下から一方的に婚約破棄を言い渡され、同時に彼女がその座に収まることを知らされた。そして、私が彼女を陰でずっといじめ続けていたと、時に口にできないようなはずかしめも与えたと、全く身に覚えのない罪が並べ立てられた。更に衝撃なのは、その証人が彼女だったことだ。


 つまり彼女は王太子の婚約者の座を手に入れるために、私を罠に陥れたのだ。

 今や私は完璧に悪役令嬢だった。


 私は全身を恥辱の怒りに焼かれながらその場を辞し、もつれる足で表へ出て馬車を呼び、…そこで私の人生は途切れた。


 そう、これが私の報われない十七年のすべて。

 聞いてくれてありがとう。


 …………。


* * *


 ああ、眩しい。


 お祈りが聞こえる。

 とうとう天に召されるのかしら。

 悪役令嬢になってしまった私でも、天に送ってくれようとしてくれる人がいるのかしら? もったいないことね。


 …違う、これは送り出しの祈りの言葉じゃない。何だったろう…そうだ、これは七歳礼のお祈りだ。

 七歳礼――それは無事に七歳まで育ったことを精霊に感謝し、またこの先も加護を授けていただくよう祈りを捧げるという儀式。

 でもなぜ、今それが聞こえるの?


 ハッとして目を開くと、そばに司祭様が立ち、七歳礼で賜る小さなパンを差し出して私が口づけるのを待っていた。


「えっ…」


 顔の前には私の両手、小さな両手が組み合わされている。床も近い。服は、…何だか見覚えがあるような。確かに七歳礼でこれを着たかもしれない。

 でも、なぜ、私は十七歳のはずでは?

 …死んだはずでは?

 それとも、あれは幻なの? いえ、七歳ではとても考えつけない展開と生々しさだったわ。

 …まさか…。


 中空を凝視したまま固まっている私の様子に、司祭様が首を傾げた。


 まさか、これから起こることだとでも言うの?


 私は何かを叫ぼうとしたが、小さく息を吸っただけでその場に倒れ込んでしまった。


 その後、公爵邸の自室のベッドで目を覚ました私は、自分が本当に七歳になっていることを知った。

 けれど十七歳までの記憶や感情は、確かに経験したと言うほかない鮮やかさで脳裏に映し出されている。

 妄想ではない、なぜかは知らないが確かに十年前に時間が巻き戻っているようだ。


「ああ、天上のあるじ様…」


 私は深い溜め息をついた。


「絶望して死んだ私に、また絶望を重ねよと言うのでしょうか?」


 過去に戻ったところで、あと十年の命なのだ。一体これは何の罰なのか。


「ん? でも待って。これからの十年、いつ何が起きるか私は知っているわ。ひょっとしたら、先回りして手を打てば未来を変えられるのではないかしら?」


 そうだ、この十年をどう使うかで、結果はがらりと変わる。死なずに済むだけでなく、もっと幸せな未来を引き寄せられるかもしれない。やはりこれは罰ではなく恩寵だわ。


 私は忙しく考え始めた。

 何をすればより良い未来を手に入れられるだろう?

 ひとまず最後に馬に蹴られなければ死ぬのを避けられるかもしれないが、もっと早い段階から展開を修正すべきだろう。


 一つはっきりしているのは、絶対に彼女に関わらないことだ。

 しかし、私が関わらなくても同じ学園の中にいれば、遅かれ早かれ彼女は殿下と接触を持つだろう。


 そもそも十年かけても愛を育めなかったあの方と、添い遂げようというのは不毛ではないだろうか。婚約自体をどうにかしてやめたほうがいいのでは…?


 小さな体で部屋をうろうろと歩き回りながら、私は一心に考え続けた。

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