認知のエラー

谷先生は部屋に一人引き篭もりつつも、

カオスと化した社会への責任や不安に耐えられなくなった。

そして、彼女は理由や解決策を相談する為に

勇気を出して月水をラボへと呼び出した。



「なるほどね。

僕は脳科学の専門だから専門外にはなるんだけど、

君の言う認知の異常が周りの人間にも広く伝播する理由。

それは、僕達が普段感じている個々の心それ自体が実は誤解で、

より広い視点では集団の心の一部に過ぎないからかもしれないよ」


「は、はいー?」


「君が驚くのも無理は無いさ。

僕達は誰かとコミュニケーションをとって

お互いに影響し合うことで、

その瞬間瞬間にだけ自分の考えや信念を生み出しているとも言えるんだから」


「どういうことや?」

谷先生は答えた。


「例えば、人が社会的な動物ということは

君も知っているよね?」


「ああ」


月水は続けた。

「僕達人間もある意味ではアリと同じで、

一人一人にはっきりとした心は無くて、

集団で一つの心を生み出しているとも考えることができる。

この説明はわかるかい?」


「うちもそれは聞いたことはあるで。

確か、人間の集団心理と昆虫社会を比較した論文があったな」


「そうだね。

僕もその論文は知っているよ。

昆虫社会の構造を集団心理の観点から分析しているんだ。

人間の集団心理と昆虫社会を比較して、

集団としての心の存在や働きについて調べたものさ。

 つまり、集団という視点にこそ心が存在する。

僕はそう考えているよ」


月水は続けた。

「僕の作ったナノマシンはね、

昏睡状態に陥った大気くんの脳が生み出す僅かな電気信号を人工知能に機械学習させる為に使ったんだ。

 これを使うことで、脳内の神経活動や機能領域の相互作用などの医師の目視では見逃されやすい細かな変化やパターンも高い精度で検出することかできる。

このナノマシンによって脳波の有用な情報を人工知能に正確にトレースしたことで、

君は昏睡状態の大気くんの意識を人工知能によって回復させたんだ。

だけど、その時の影響で周りの人達に認知のエラーが起こり始めたんだ」


「認知のエラー!?」

谷先生は困惑した。


「認知のエラーが起こるというのは、

実は普段でも当たり前に起きていて、

決して珍しいことでは無いんだ。

 もちろん今回の異常事態とは程度の差こそあるけどね」


月水は続けた。

「このエラーにはね、

例えばバイアスの様にあくまで個人の思考の範囲内で起こる、反応として正常なものもある。

 だけど、今回の君や大気くんのように

強いストレスや心的外傷をきっかけに、

集団規模でも起こる事例もあるんだ。


君は 踊りのペスト《ダンシングペスト》 を知っているかい?」


「聞いたことあるで。

確か、踊らずにはいられなくなり、踊り狂って最後には死んでしまう。

原因は諸説あり、完全には明らかになっていないが、歴史家のジョン・ウォラーは、この奇妙な伝染病は、各地で発生した病気や飢饉によるストレス性の集団ヒステリー(集団心因性疾患)だと考えているらしいな」


「そうだね。

僕はこの踊りのペストも"乖離性のエラー"というものだと思うんだ。

人は辛い体験によるダメージを避けるために

一種の防衛反応(切り離し)を起こして

精神機能の一部を停止させたり自己を切り離したりすることがある。

これが乖離性のエラーにつながっている可能性があると言われているんだよ。


そして、君の言っている異常事態には、

人間に起こり得る安全なレベルを遥かに超越した乖離性エラーが疑われる三つの兆候がある。


健忘

これは、ある強い心的ストレスをきっかけに

一時的、

又は長期的に記憶をなくすことだ。


遁走

自分が誰かという感覚が失われて、

失踪して新たな生活を始めていたりするんだ。

学校や職場において極度のストレスにさらされ、しかもそれを誰にも打ち明けることができない状態で突然不在となり、

自分の行動についての記憶を失っていることが多いんだ。


離人症

自分が自分であるという感覚において、

あたかも自分を外から眺めているように感じる曖昧な状態のことだ。

自己が分離し二重化しているために生じる現象だといわれているよ。


つまり、君の言っている異常事態は

ダンシングペストのような集団ヒステリーに類似する乖離性エラーなんだと僕は思うよ。


「ええい、回りくどいな。

なあ、それで、その事態やらを収束させる何かいい方法はあるんか?」


「ごめん。

実は僕にもまだよくわからないんだ。

今研究中なんだが、

君の力になれなくてすまない…」


「そうか、うちも無理を言って悪かったな」

彼女はそう答えた後、彼を帰宅させた。


彼女は自分が引き起こした事態に絶望し、

罪悪感と恐怖と孤独感に苛まれながら元に戻す方法を必死に模索していた。

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