第25話 閉ざす心

 ヴァイス=ヒルクライムは日高翔が飛び立った姿を横目に、逃走を始めていた。

 ここまで隠れて動くためにバスを使ったせいで、足がない。

 そこでヴァイスはアイナの愛車を盗もうと考え、実際に鮮やかな手並みで車の鍵を開けた。

 しかし、そこまでだった。

ヴァイスがエンジンをかけようと鍵をいじり始めた時、ガチャリ、と音がした。

 壊したはずのドアが、再び閉まった。


「何だと?」


 ヴァイスが不快そうに眉をひそめ、内側から解錠しようとするが――開かない。

 見れば、ゆっくりとアイナ=フォルゲインが歩いてくる。


「ちっ」


 舌打ちと共に、窓を割ろうと右肩に残っている魔動機に魔力を集中する。赤い光が狭い室内に溢れ――

 すぐに霧散した。


「アンチマジック、だと?」


 自らの左肩にあった魔動機と同じ効果を見せた室内を、驚愕の表情で見回す。

 しかし何がどう作用したのか、まったくわからなかった。


「知らなかったの?」


 外からアイナの声が届いた。


「黒い魔女は、罠を張るのよ」


 声に振り返ると、そこにはスクールに通う学生とは思えない、姉そっくりの凄絶な笑みを浮かべた魔女がいた。


「例えば、綺麗な毒林檎のように。例えば、逃走に使えそうな車のように」


 その言葉に、ヴァイスは自分の動きがガラス越しに見える金髪の少女に完全に予想されていたことを悟った。


「ヴァイス=ヒルクライム。計画は漏れるものかもしれないわね。けれど、切り札は肩に据え付けて、これ見よがしに振り回すものじゃないのよ」


 アイナ=フォルゲインは他の二人ほど甘くない。ヴァイスがそう気づいた時には、既に遅すぎた。


「貴方が死のうが生きようが、正直どうでもいいけれど。翔が傷つくから、殺さないでおくわ」


 黒い森からやってきた魔女は、淡々と告げた。

 その異様さに、周到さに――ヴァイスはがっくりと肩を落とした。




 アイナ特製の魔動機は翔の膨大な魔力を受けても壊れるどころか、むしろ機嫌よさそうに風となって翔の身体を空に舞わせていた。

 風を操り、空気を切って、空を飛ぶ。

 その心地よさに、緊急事態であることがわかっていても、翔は気分が高揚することを抑えられなかった。

 この魔動機を作ってくれた、自分に翼を与えてくれたアイナに、心から感謝をささげる。

 そして、向けた視線の先にいるのは、その巨体をすさまじい速度で落下させる飛行機と、絶望の具現のようなその光景を、小さなその身体で受け止めるかのように、箒を支えながら、呪文を唱えていく。

 いかなシェリエとはいえ、流石に空中に浮かびながら別の魔法を使うのはきついのだろう。

白い光を全身に浮かべ、額に珠のような汗がいくつも浮かんでいる。

だがその姿は、美しかった。

何にも屈しない、絶望を跳ねのけるためにこそ、魔法はある。

全身でそう主張する少女は、力強く魔法を完成させる。


「速度よ! 沈黙せよ!」


 シェリエの両手から放たれた白い光は網のように広がり、そして飛行機の機首から両翼を覆うように広がっていく。

 音もなく機体は光の網に受け止められ、わずかにその速度を落とす。

 だがそれは、所詮わずかでしかない。

 魔法の網は飛行機の質量を受け止めきれず、すぐにぶちぶちと音を立てそうな勢いで千切れ、空へと溶けていく。

 それでも、シェリエは諦めない。


「加速する、疾風!」


 今度は突風を巻き起こし、飛行機にかかる空気抵抗を大きくする。

 効果はほとんどない。その事実にも打ちひしがれることなく、シェリエはまた違う魔法を練り上げる。


「まだよっ!」


 その声に触発されるように、翔も自らの魔力を呼び出した。

 しっかりと、それをイメージする。

 受け止めるのではない。事故の恐怖すら包み込むように、薄い膜を具現化する。


「止まれええええ!」


 シェリエと同じように突き出した翔の両手から、白い光が広がる。

 それは翔のイメージ通り、空中であるにも関わらず、ふわり、と音を立てそうなほど柔らかく機体全体を包み込んだ。

 薄く、しかししなやかに。

飛行機を抱きとめ、その速度を奪っていく。


「……っく!」


 気を抜けばあっという間に引きちぎられそうになる感覚を覚え、呻きをあげながらも翔はその一度発動した魔法に、魔力を供給し続ける。


「本当にとんでもない魔力ね」


 そんな率直な感想を口にしながら、シェリエが翔の横に並んだ。

 シェリエの魔法でも、維持の暇もなく破られたというのに、翔は小型の飛行機を自分の魔法で捕えることに成功していた。

 しかし翔には答える余裕がない。必死にはを食いしばり、魔法の維持に集中する。


「うおおおおおおおお!」


 翔の身体が、白い光を一際強く発し、飛行機の速度が安定したものになっていく。

 だが、その膨大な魔力は、飛行機以外のものに、致命的なダメージを与えていた。

 バン、と大きな音を立て――

 背中の魔動機、その噴出口が、破損していた。

 がくん、と翔の身体が一瞬揺れ、そして落下を始める。

 魔法が維持できず、途切れる。

 一瞬遅れて、受け止めるもののなくなった飛行機が、再び加速しながら、翔を追うように落下していく。


「翔!」


 慌ててシェリエが追おうとするが、飛行機が作りだす気流に阻まれて、飛行の魔法に神経を集中せざるを得なくなる。


「翔――!」


 ようやくシェリエが気流から解放された時――

 翔と飛行機はすでに、その姿を小さくし、マギス島に向かってぐんぐんと加速していた。




 何が起きたのかわからなかった。

 急に身体が一瞬後ろに引っ張られたかと思うと、突然何か大事な支えが消失したような感覚。

 落とし穴に落ちていくような、浮遊感。

 それらはすべて、翔自身が落ちているために感じたのだと思い至ったのは、周囲の空が急に遠ざかっていくように視界を通り過ぎていくのが見えたせいだ。

 近くにいたはずのシェリエが、頭上でどんどんと小さくなっていく。

 ――落ちている。

 魔動機が壊れたことをようやく理解した翔は、頭が上手く回らないことを自覚した。

 落ちる自分。

 追いかけるように落ちてくる飛行機。

 遠ざかるシェリエ。

 この場にはいないアイナ。

 すべてが頭の中でごちゃごちゃになり、そして一際強く甦るのは、事故の記憶。

 何もできずに、ただ一人生き残った記憶。


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 翔は、絶叫した。


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だあああああああああああああああああああ!」


 翔は魔法を使うこともできず、ただ心を閉ざし、叫び続ける。




 ――白い光が、翔一人を包んだ。

 一〇年前に翔を救った、圧倒的な魔力。それは翔が魔法使いであるという、確かな証拠。

 誰も護らず、願いもなく。ただ翔自身の無事だけを目的とした、強固で、しかし他の何の役にも立たない力。

 さながら卵の殻のような白い光の中に、翔は閉じこもった。

 翔にはもう、何も見えない。落下する飛行機も見えない。

 翔にはもう、何も聞こえない。助けを求める叫びは、もとから届くはずもない。

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