第6話 奇跡の大きさ
驚きも露わな周囲の視線を受け流し、チャイムが鳴るのを幸いと、翔は荷物を手早くまとめて教室を出た。
「ちょっと! 翔!」
シェリエの声が背中にかかるが、翔はそれも無視する。アイナの取りなすような言葉が僅かに聞こえ、彼女に胸中でのみ礼を言って、翔は一人家路へと着く。
いつもより一本早い、島を一周するように走っている環状バスに乗り込み、一人で席に着く。窓から見える景色はいつもと同じ、フェニックスが太陽の光を浴びながら、常夏の風に揺れている。
結局、半年しか持たなかったな。
翔は一人小さく呟いた。もともと、マジックスクールに通うこと自体がリスクではあった。しかし、この島には魔法を使えない、あるいは学ばない者は必要ない。必要ない者は、去ることを強制される。
なぜなら、ここは魔法使い達の島。現代に生きる魔法使い達が、次代へと知識と技術を伝えるために作った、人工の楽園。
その希少性、あるいはわずかな将来性からアメリカをはじめとする各国の監視を受けつつも、魔法使い達が作り上げた世界。
そこには、一般人は必要ない。
たとえ日高翔が、唯一この島で育った少年だとしても。
魔法を使いこなせないままでは、いられない。存在を許されない。
リスクを負い、結果を出せなければ、追い出される。
翔は自宅近くのバス停を通り過ぎ、島の南端にある岬で降りた。
そこは潮風に揺れる草原が広がるばかりの、何の変哲もない風景。
ただ一つ、慰霊碑が建てられている。肌にまとわりつくような暑さに、額をタオルで軽くぬぐってから、翔はわずかに瞑目した。
ここは、翔にとって特別な場所。五年前、すべてを失い、そしてすべてが始まった場所。
――日航機事故の、墜落現場。
高速で回転する機内では、乗客たちが悲鳴を上げることさえ許されず、苦悶の表情を浮かべていた。上下左右から襲いかかる重力は、状況がどうしようもないことを否応なく認識させる。
もう駄目だ。
機内がそういった空気で満たされる。
「うわあああああ!」
「助けて! 助けて!」
阿鼻叫喚の悲鳴が響き、絶望だけが機内を支配する。
隣の母親は幼い妹を護ろうと必死で、翔にまで意識を裂く余裕がない。
窓から見える景色はぐるぐると回り、涙と混ざり合って、何を映しているのかすら分からない。
翔の心も絶望へと染められていく。
その時――不意に回転が止んだ。落下も止まる。
機長である父親が、懸命の努力を続けている証だ。
翔は知らず、顔を上げた。涙は知らず、止まる。
諦めてはいけない。
そんな想いが頭をよぎる。
しかし機体はすぐにまた、落ちていく。
窓の外から見えるのは、岩でできた島。
――もう駄目だ。
誰かが言った。
――神様、助けて下さい。
誰かが祈った。
――どうしてこんなことに。
誰かが、己の運命を呪った。
形は違えど、誰もが事態を受け入れ、諦めた時――
「嫌だ! 嫌だ嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない! 助けてお父さん! 助けて――誰か!」
胸の奥から込み上げる衝動のまま、翔は叫んだ。
しかし、周囲にその声に応える人間はいない。母は妹をなだめるのに、抱きしめるのに必死で、父はコクピットを離れられない。
奇跡の起きない場所で、それでも奇跡を願う。
その意志が――
眠っていた力を、呼び覚ます。
日高翔の身体から白い光が溢れ――
轟音と共に、飛行機は地面に叩きつけられた。
日高翔の時間は、その時ゆっくりと流れた。周囲がコマ送りのように動く一方で、自分の身体だけは普段よりもしっかりと動く気がした。
身体の奥から焼けるような熱さを伴い、何かが解き放たれる。
何かは形を持たず、ただ白い光となって、翔の身体を包みこんでいく。
そのまま、耳に轟音が届いた。機体が地面に叩きつけられ、機内が激しく揺れる。シートベルトはその役割を懸命に果たすが、数人が宙を舞い、壁や天井に叩きつけられた。
しかし、翔の身体は小揺るぎもしない。
また別の乗客は足もとに置いていた荷物に身体を打ち据えられた。悲鳴と怒号が一層大きくなる。
翔の鞄が顔面に飛んできたが、白い光がそれを阻んだ。
続いて、爆発音が響いた。すぐに機内の温度が急上昇していく。
通気ダクトから煙が入り、次第に悲鳴すら聞こえなくなっていった。
翔はまだ、平然と座席に座っていた。
最後に、大爆発が起きた。ぐったりしていた人々が、炭に変わる。あるいは、身体の一部分が衝撃で吹き飛んだ。
そのまま、機体が完全に燃え尽きるまでおよそ一〇時間。
「くそっ! 俺達にもっと力があれば……!」
「今更言っても仕方ないでしょう! とにかく、生きている人を探すのよ!」
怒声が響き、
「くそっ! こっちは全員駄目だ!」
「こっちも……せめて、火をもう少し早く消せていれば……」
そして無念さに萎んでいった。
それでも、日高翔は白い光を発したまま。
「ねえ! この子生きてるわ!」
「しかもこれは……」
歓喜と驚愕の声が周囲に満ちていくのを、ただ黙って聞いていた。
「魔法、ね。それも極上の魔力がなしえる技よ」
白い光を魔法と呼ぶらしい、などと、どこか冷めた感情で聞いていた。
奇跡は、翔一人を救うだけの、ちっぽけなものだった。
その力ゆえに記録から抹消された日航機事故ただ一人の生き残り、日高翔には。
一〇歳だったその時の、すべての記憶がある。
翔にとってそれは、痛みを伴う忌まわしい記憶。
同時に、普通の人間とは違う、という歪んだ優越感をもたらす記憶。
乗客を、家族を守れなかったという負い目と。
自分はそれでも生き残ったという矜持。
そして、孤児となった翔を育ててくれた島の魔法使い達の期待に応えたい、という純粋な願い。
それらすべてを携えて、翔は今日も黙祷を捧げる。
捧げて、明日も生き続けることを誓う。それは、魔法を制御するという目標と共に。
帰りのバスに乗るべく、身を翻した彼の視界に、二人の少女が映った。
一人はすまなさそうに両手を合わせている。
「翔。あなたって、何者なの?」
そしてもう一人は、痛ましさと嫉妬を視線に混ぜて、そう尋ねてきた。
翔が唇を噛み、痛みを堪える表情を浮かべたのを見て、シェリエは自分の言葉を即座に後悔した。
アイナから厳しい視線が送られてきていることが、すぐにわかった。
だったら、教えてくれなければよかったのに、と思うのは甘えだろう。
自分が望み、アイナは信用して教えてくれたのだから。
翔を傷つけないと、信用してもらえたのに、結果がこれだ。
「僕は、普通の人間だよ」
それでも、翔がゆっくりと歩きながら返してきた言葉に、シェリエは反発する。
「違うわ。あなたは魔法使いよ」
自分の言葉が嫉妬に彩られていることがわかっていて、それでも止まらない。
「そんな大惨事を生き残る力があって、どうして魔法使いだって名乗らないのよ!」
そんな力はシェリエにすらない。このマジックスクールで、誰もが羨む強大な魔力を操る彼女にすら。
しかし、極東の島国から来た魔法使いは哀しく笑う。
「魔法使いは、望む奇跡を起こす力を持っている人達だよ。制御できない力をどれだけ持っていても、それは魔法使いじゃない」
その表情が、嫉妬を霧散させ、シェリエの心を締め付ける。
苦しみにわずか胸を押さえ、それでも少女は言葉を紡ぐ。眼前を通り過ぎていく少年を、追いかけるように。
「力の使い方を、学べばいいじゃない! みんなそのためにここにいる!」
「わかってるよ!」
しかしその言葉は、少年らしくない怒声によって、遮られる。
「みんなそのために僕を島に置いてくれてるんだ! わかってるよ!」
翔の言葉の意味は、半分も理解できなかったが――
何か触れてはいけないものに触れたことは、理解できた。
だから少女の言葉はもう続かない。
少年は止まることなく、その姿を小さくしていき、やがて消えた。
シェリエはしばらく呆然としてから、天を仰いだ。
見上げる空はあくまで青く、雲ひとつなく。
太陽はどこまでもキラキラと輝いている。
いつもどおり、潮風の匂いがする、湿った空気の夏の島。
「わたしは……」
その潮風に乗る、呻くように搾り出されたシェリエの声と、
「バカね」
なじるようなアイナの声は、どちらも島の空気よりも、哀しみで湿り気を帯びていた。
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