第2話
ゆっくりと日が暮れてきた。本殿からでも、麓が賑わっているのを感じる。花火が上がるまではあと一時間程あるだろうか。望叶は草履を履くと外へ出てみた。麓一体が橙色の明かりで道を作っている。屋台が並んでいるのだろう。
「今年も始まったね」
後について出てきたコンは一つ鳴いて返事をした。田舎臭さが残る比較的小さなこの町の、一年で一番大きなイベントだ。楽しげな話し声がこちらまで聞こえてきそうだった。
「今日のお祈りを始めよっか。花火が上がるまでに片付けちゃおう」
そう言うと、コンは大きく頷いて踵を返した。そのまま茂みの中に消える。願い箱に入っている手紙を取りに行ったのだ。
清音山は標高四百三十メートル。人間の足で登ると百分程かかる。しかし、麓の拝殿とこの本殿は結界で繋がっており、それを通るとたった一分で行き来することができる。この結界は頂上の本殿を人間から隠す役割りも担っていて、人々が望叶を見ることができないのはその為だ。
望叶はしばらく突っ立っていたが、やがて縁側に腰を掛けた。コンは十分程で戻ってくるだろう。それまでこうして夏の虫の合唱に耳を傾けようと思ったのだ。
そのうち茂みがガサガサと音を立て、コンの白い毛並みが現れた。口に一枚の紙を咥えている。今日の願いは一通だけか……。望叶は内心で落ち込みながら、近づくコンに手を伸ばした。
「ありがとう、コン」
足元までやって来たコンから手紙を受け取る。その瞬間、再び茂みが音を立て、望叶は反射的に顔を上げた。
「何だ?ここ……」
思わず息を呑む。突拍子すぎて視線も喉も動かすことができなかった。茂みから出てきたのは、困惑した顔の人間の男の子だった。同い年くらいだろう。渋い紺色の甚兵衛を着て、頭に狐の顔を模したお面を引っ掛けている。
「あ、あなた、誰?」
迷い込んだのだ。コンが開いた結界を辿って、麓からここに来てしまったのだろう。そう気付いたのと同時に、思わず立ち上がった。コンは申し訳なさそうに足元でうろうろしている。
「お前こそ誰だよ」
「えっ。私は……」
望叶に気がついた少年が、こちらに近づきながらぶっきらぼうにそう言った。彼もまさか望叶が神様だとは思うまい。
望叶は答えに悩んだ。正直に神様だと言うわけにはいかない。だが、だったら何と説明したら良いのだろう。
「何、そいつ。犬?」
戸惑う望叶を置いて、少年は次の質問を投げた。望叶の足元を見ている。望叶が誰かなんてもともとどうでもよかったのだろうか。
「犬じゃないよ。ええと……、狐?かな」
コンはキュウ……と小さく鳴いた。少年は「ふーん」と気のない返事をする。
「あの、あのね、ここは立入禁止なんだよ。麓に戻った方がいいよ」
本殿は神様の家だ。人間が立ち入るべきではない。神様が気を休め、精神を統一する神聖な場所だ。現祈りの神である母親にも、心がぶれるから人間と関わるなと注意されていた。
「そんなこと言って、お前も入ってんじゃん」
「そ、そうだけど……」
「それにどうやってここまで来たかわかんねーし」
少年は辺りを見回した。本殿を覆う木々と、夜空に浮かぶ月が見える。
「ここ、頂上?俺かくれんぼしてたんだけど」
「かくれんぼ?」
「友達としてた。神社の建物の中に隠れたら絶対見つからないと思って」
「拝殿に入ったんだね……」
「拝殿っていうのか、あれ」
望叶は小さくため息をついた。
「勝手に入ったらだめな場所だよ。神職の方が祭典を行う大事な場所なんだから」
「でも誰もいなかったぞ」
「そりゃあ、小さな神社だし、普段はいないけど……。お正月とか……」
「じゃあ正月以外は入ってもいいじゃん」
「…………」
望叶はムスッとして口を結んだ。それから、今度は聞こえるようにため息をつく。
「とにかく、ここから出よう。コンに道案内をお願いするから」
そう言うと、コンは一歩前へ出た。挨拶するようにキュウと鳴く。
「狐が道案内?お前は下りないの?」
「私はいいの。私は……こ、この辺に、家があるから」
「ふーん。田舎の中の田舎だな。山の上に家って」
「……そういう人達もいるんだよ。馬鹿にしないの」
かなり苦しい言い訳だったが、少年はあまり気にしていないようだ。少し捻くれていて大人の真似事のような思考の中に、後先を考えない楽観さが窺える。おそらく自分の興味のある事には真っ直ぐだろう。
「ほら、帰ろう。もっと暗くなったらお化けが出るよ」
「んー、やっぱ帰るのやめる」
「えっ!?何で!?」
「せっかくだから山の上で花火見てから帰る」
「そんなぁ」
力が抜けかけた肩を無理矢理張り、説得に取り掛かる。コンが心配そうに望叶を見上げていた。
「でもお友達と来たんでしょ?心配するよ?」
「どうせ月曜日に学校出会えるし」
「お父さんとお母さんが探してるかも」
「二人とも屋台の店番してるから忙しいってさ」
「お化けが出るよ」
「お化け信じてない」
「えっと、えっと……じゃあ……」
「なんかお前が必死になって追い返そうとしてるから気が済むまでここにいるわ」
「ええー!?あ、ちょっと!」
少年は望叶の脇をすり抜けて縁側に腰を下ろした。突っ立ったままの望叶にふてぶてしく声をかける。
「お前も座れば?花火上がるまでもう少し時間かかるよ」
足元のコンが鳴いた。たぶん満足するまで帰らないよ、この子。と言っている。望叶はそれに完全に同意して、答えの代わりに少年の隣に腰を下ろした。
「花火が上がるまであと三十分くらいかな?」
「三十五分だな。七時に始まるから」
少年はポケットからスマートフォンを取り出して、ホーム画面で時刻を確認した。
「携帯電話持ってるんだ。まだ子供なのに」
「今時誰でも持ってるよ。お前は持ってないの?」
「うん。使うこともなさそうだし……」
「友達少なそうだもんな」
「…………」
望叶は先程と同じように口を閉じて、気を悪くしたぞとアピールした。しかし少年はスマートフォンを操作するのに一生懸命で彼女の表情など全く見ていない。
「何してるの?」
痺れを切らして声をかける。少年はスマートフォンの画面を消して、ようやく顔を上げた。
「友達から連絡きてたから、返してた」
「ここにいるって言ったの?」
「ううん、言ってない。ここは俺の秘密基地にするから教えない」
「ここは私の秘密基地だよ」
「じゃあお前も隊員に加えてやるよ。でも俺が隊長な」
私の家なのに……という言葉を飲み込んで、望叶は「わかった」と返した。どうせ、彼はもう二度とここには来れない。
「君はいくつなの?」
「小六。お前は?」
「十三歳だよ」
「中学生なのか」
「えっと、うん、まぁ。学校には通ってないけど」
「別に家でも勉強できるもんな」
その答えに望叶は感心した。この歳で学校に行っていない理由にイジメを想像しやすいと思うが、それに「なんで?」や「いいなぁ」などと返すと不登校側は心を痛めるだろう。咄嗟の返答に「家でも勉強できる」は、自分への気遣いを感じた。言動は捻くれているが根は素直な子だ。大人の真似事と表現したのを謝りたい。
まぁ、全然イジメとかじゃないんだけど……と思いながら、望叶は嬉しくなって微笑んだ。
「ねぇ、その頭のは何?」
この子は純粋な子だろう。不覚にももっと仲良くなりたいと思ってしまった。コンも何も言わずに見守ってくれている。一夜限りの人間との戯れを許してくれているのだ。望叶は話題作りに少年の頭のお面を指差した。
「どれ?」
「その頭のだよ」
「何って、お面だろ。どこからどう見ても」
「お面?ふふ、コンにそっくり」
少年は頭からお面を外して、その顔を確かめた。
「コンってその狐?」
「うん。子供の頃からの友達。ねぇ、それは何に使うものなの?」
「なんだろう。ただの飾りじゃね?祭りの風物詩的な」
「そうなんだ。かわいいね。この子、お化粧してる」
狐の面は目元に赤い模様が入っていた。祭りで売っている狐の面はだいたいこういう顔だと思っていたから、化粧と表現されて少年は不思議な気持ちになった。
「もしかしてお前お面見たことないの?」
「え?うん。初めて見た。そんなに一般的なものなの?」
「祭りの時しか見ないけど……。でもお面も知らないってやばいだろ」
「そうかな?私、お祭り行ったことないから」
お面の存在を知らないことは人間らしくないのだろうか。人間でないとばれるのは困る。どう誤魔化そうかと望叶は頭を捻った。
「なんかね、あんまり外を出歩いたらだめなんだって。お母さんに言われてるの」
「身体が悪いのか?」
「そういうわけじゃないけど……。でもたぶん、外に行くと身体が悪くなるんだと思う」
少年が不思議そうな、心配そうな表情をした。望叶は慌ててコンを膝に乗せると、元気な声を出す。
「でも外の世界の話はコンから聞いてるよ。だから学校のことも、新しいクレープ屋さんも、流行りの映画もみんな知ってるよ。スマートフォンのことも!」
「狐と喋るのか」
「コンは親友だから、何を伝えたいかわかるのっ」
少年は顔に浮かぶ心配の色を、呆れたと言いたげなものに変えた。望叶はほっと胸を撫で下ろす。
「ねぇ、外の世界の話をしてよ。君のことを聞かせて」
花火が上がるまであと十分。その間だけ、彼が映す世界を見たいと思った。
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