今日の続きの明日がほしい。
國崎晶
第1話
清音山の頂上に小さな神殿があることを、いったいどれくらいの者が知っているだろうか。もちろん、山の麓にある鳥居と石段の存在は町の者なら皆知っている。その先にある参道も拝殿も、正月になると世話になる場所だ。ただ、その後ろにそっと続く道を辿ると本殿があることを皆知らない。何故ならそこは、神様が住むところだから。
清音山は標高四百三十メートルの、百分程で登れる小さな山だ。その昔近辺を荒らす大百足を神が祈りの力で退治したという逸話を持つ、市のシンボルである。祈りの神「祈光(きこう)」が宿ると言われ、麓にある拝殿の横には「願い箱」が設置されている。この願い箱に願い事を書いた紙を入れると、祈光様が叶えてくれるという言い伝えがあるのだ。
山頂にある本殿の一室で、少女は机に向かっていた。歳の頃は十代半ば、肩につく黒髪には蝋燭の橙色の光が染み込んでいる。彼女の名前は望叶(かなみ)。現祈光のひとり娘である。
戸が開く微かな音に望叶は顔を上げた。この部屋にある物といえば、机と燭台、手紙が入った箱くらいである。ひどく静かで、戸が開く音どころか針を落とした音も聞こえそうなくらいだった。
「コン」
戸を開けたのは一匹の狐だった。まだ小狐である。ふわふわとした毛に覆われた頬で、二、三枚の紙を咥えている。コンと呼ばれた小狐は望叶の膝下まで来ると紙を差し出した。
「いつもありがとう」
望叶は紙を受け取るとコンの頭を撫でた。コンは外見こそ小狐にそっくりだが、その正体は神様に使える眷属である。撫でられたコンは頭を望叶の手の平にぎゅうぎゅう押し付けて喜びを表した。
「さてさて、今日の願い事は何かな〜?」
望叶は紙を机に並べると、一つを選んで開いた。コンも紙面を覗き込む。
コンが持ってきた紙は、麓の願い箱に投函された願い事である。望叶の手にある紙には、達筆で「孫の病気が治りますように」と書かれていた。
コンがキュウと鳴いて見上げる。おそらくお孫さんは若くして大病を患っているのだろう。コンもこの願いを叶えてあげたいと思ったのだ。しかし望叶は、再びコンの頭を撫でると手の紙を机に置いた。
二枚目の紙には「仕事が見つかりますように」、三枚目には「修学旅行好きな人と同じ班になりますように」と書かれていた。望叶は一つ頷くと、全ての紙を畳み直してテーブルに置いた。
「神様は平等!」
そう宣言すると、目を閉じて三枚の紙を混ぜ始める。望叶は祈りの神祈光の娘であり、現在十三歳であり、神様としては見習いである。今の望叶では一日に一つの願いを叶えることが精一杯だ。だから、今この三つの中から一つを選ばなくてはならない。
「う〜〜……ん、これだ!」
机の上で紙をかき混ぜるのを止め、ちょうど触れていた一つを手に取る。コンが素早く身を乗り出して、前脚で力任せに望叶の手をずらした。望叶の手は隣の紙に触れる。
目を開けて紙を開くと、そこには達筆で十二文字並んでいた。二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「神様は平等なので、今日はたまたま選んだこのお願いを叶えます!」
コンはキュウキュウと鳴きながら部屋を跳ねるように一周する。望叶は他の二枚を箱に片付けると、選ばれた願いを机の上に置いて指を組んだ。瞳を閉じて集中する。
「どうかどうか、この願いが叶いますように」
祈りの神は祈ることが仕事だ。その儀式に必要なものは気持ち以外は何もない。目の前の願いを叶えたいと、本当の気持ちで祈れば世界を変えることができる。だが、それが難しい。
閉じたまぶたの向こう側がうっすら光って、心が温かくなった気がした。望叶はそれを祈りの成功の目印にしている。現祈りの神である母に聞くと、成功した時頭の中に願い事が叶った様子がイメージできるそうだ。成功の目印は人によって違うし、望叶はまだ母の領域には達していない。
「願いが叶ったよ」
コンにそう報告すると、彼は嬉しそうに飛び跳ねた。それから膝に乗って望叶の顔を見上げた。
コンの背を撫でて一息つくと、どっとした疲れを感じた。他人の願いを叶えるにはとても集中力がいる。
望叶は叶えた願い事を箱にしまい、窓の外に浮かぶ月を眺めた。コンも膝の上で視線だけをそちらに向ける。
「やっぱり、最近願いが減ってるね」
そう呟くと、コンは小さくキュウと鳴いた。
今日は三通あったが、昨日は一通だった。その前も。母がここで見習いをしていた頃は、一日に十通以上の願い事が投函されていたらしい。忘れ去られかけているのだ。小さな山の上の神様は。
「このまま願いが来なくなって、みんなが私達のこと忘れたら、私達どうなっちゃうのかな」
答えは知っている。人々に必要とされなくなった神は消えるのだ。そうやって消えた神の話を何度も聞いてきた。神とは人々の祈りの上にあるものだ。
「私達って今の世の中もうあんまりいらないもんね」
科学の発展、医療の発達、文明の進化。人間は自分達の力でたいていの願いを叶えることができるようになった。神に祈る機会は自ずと減った。
「なーんてね!冗談だよ〜!」
望叶はパッと笑顔になってコンの頬を両手で挟んだ。ふわふわのほっぺたが潰れる。
「私達の存在はまだまだ必要だよねっ。今日みたいな願いもあるし!」
コンは望叶の手から抜け出すと、肩に前脚を置いて望叶の頬をペロッと舐めた。
「あはは、くすぐったい」
望叶はそのまま背中から倒れて、コンと一緒に畳の上を転げまわった。しばらくじゃれあって、疲れて横になる。窓から差し込む月の光がちょうど望叶の顔を照らしていた。
「ねぇ知ってる?明日は夏祭りなんだって」
返事をするようにコンは鳴いた。毎日麓まで願い事を取りに行っているコンの方が、もしかしたら山の外について詳しいかもしれない。
「また今年も花火が見れるね。一緒に見ようね」
去年の夏、紺色の絵の具のような空に咲いた火の花を思い出した。この本殿から出ることができない望叶は、窓から見える世界しか知らない。夏祭りの日に上がる花火、季節ごとに色を変える木の葉、冬になるとひらひら揺れる氷晶。その他に、何を知っているだろうか。
広げた腕の指先にいたコンが近づいてきて、顔の横で丸くなった。外の世界はコンが教えてくれる。例えば、青葉の匂いを連れて走る学生達の自転車、雨宿りをする老夫婦の語らい、花から花へ移ろうアゲハ蝶の姿。コンの言葉から自分で見た景色のように想像できる。自らの目で見たいと思うこともある。ただそれは、わがままな願いだと理解していた。
外の世界を知りたい。毎日他人の願いを叶え続ける彼女は、彼女自身の願いを叶える術を持たなかった。
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