第9話 一夜の陥落
その夜。
月が空高く上り、きらびやかな星々が闇を飾る。
マリーベルも、使用人達も寝静まり屋敷がとんと静まり返る。
夜の寒さに、薄いローブを一枚羽織ったユリーベルは、日中とは違って黒く地味な服に身を包んでいた。
ユリーベルは空を見上げると、城での会話を思い出す。
『私にかかれば、一日もかからずにオルリン王国を帝国の傘下に収める事が出来ますわ。』
『流石は、シュベルバルツの人間だ。では明朝。良い目覚めになる事を願っているぞ。』
『はい。——帝国の繁栄の為に、私の全力を尽くしますわ。』
静かに目を閉じれば、あの冷たい瞳を思い出す。
彼は『明朝』と言った。それは、つまり朝日が登る前にオルリンを堕とせと。そう命令しているに等しい。
帰って直ぐに準備を始めたが、少し手間がかかった。
「お陰で腹ぺこよ。明日は沢山食べないと、気が済まないわ。あの人遣いの荒い王様にも、ほとほと愛想が尽きるってものね。」
一人で愚痴を吐いていると、それを会話に変えられた。
「食べたら太るぞ?それに、あの国王は中々の切れ者だ。すぐ顔に出ないように、十分気をつけるんだな。」
簡潔に、ユリーベルの機嫌を損ねさせる発言。
誰なのかは明白だ。
さっきまで、ユリーベル以外の誰も居なかったというのに、突然背後から声が聞こえてくれば一度は幽霊かと疑いたくなる。
が、それは幽霊というのには少し根性がねじ曲がり過ぎているけれど。
「これでも、色々と気を使っているから、一日くらい食べ過ぎたところで平気なのよ。それよりも……貴方がここに戻ってきたとなれば、準備が出来たのよね?ハルムン。」
「おう、お前に言われた通りにしっかりやってやったぜ?まっ、これくらい俺にかかれば朝飯前だ。」
言いつけを守ると言われた、何だか犬みたいだなと思っていたら、ハルムンは唐突に「わん」と鳴き真似をした。
鳴き真似にしては可愛げも無く、忠誠心も無さそうだ。
はぁ、とため息を漏らしたユリーベルは、ゆっくりと空を仰ぐ。
青白く輝く月は、満月とも、半月とも取れない歪な形をしていた。
鼻から吸い込む空気が少しだけ苦くて、胸が痛む。
「それじゃあ、始めましょうか。——オルリンを堕とすわよ。」
✿
オルリン王国。
帝国の東隣に位置する小国であり、農作物が豊富で緑豊かな国だ。
国王、ナルド・オルリンは、心優しく民の幸せを一番に考えている。その為、争い事は避け帝国との平和条約を望んでいた。
……が。今は病に伏せており、その先も永くない。次期国王はナルドの息子であるイルドだが、彼は金遣いも荒く女癖が悪いと噂だ。今の幸せは、まもなく崩れるだろう。
「……そうなるのが先か、帝国がオルリンを手に入れる事が先か。まあ、答えは明白でしょうね。国民の幸せを本当に願っているのなら。」
ここは、オルリン王城付近の森。
ふわあ、と欠伸をしながら気だるげに独り言を呟くハルムン。
本来は馬車で一週間もかかるはずの所を、ハルムンの魔法で転移したのだ。
ハルムン曰く、魔力を使うと眠くなるらしい。
だがすぐに転移魔法を使い、このオルリン王城の森にピンポイントで移動出来たのは、大賢者様々だ。
「ハルムン。向こうの配備は?」
「……入口に二人。寝室前の警備に二人。あとは……いないみたいだな。随分と警備が手ぬるいこった。」
「流石は小国ってところかしら。警備が手薄で良かったわ。それじゃあ——」
気配を感知する魔法。ハルムンが目を閉じて、敵の位置を教えてくれる。
それを聞いたユリーベルは、月明かりに伸びる影をゆらゆらと動かした。
「——悪いけれど、眠っていて。」
ユリーベルから伸びた影は、入口を警備していた衛兵に襲いかかる。
叫び声をあげる暇もないまま、衛兵はパタリとその場に倒れ込んだ。
シュベルバルツの力は、相手に外的刺激を与えないまま気絶させる事が出来る。
この力を使えば、証拠も残さずに人を殺す事だって容易いわけだ。
「今のうちに、国王の寝室に行くわ。ハルムンはそのまま外を見張っていて。何かあればすぐに私の元に来てちょうだい。」
「注文の多い公女様だ事。」
やれやれと、不満を漏らしながらハルムンは余裕を見せる。
大賢者ともなれば、こんな事にだって慣れているという事だろうか。
「じゃあ、行ってくるわ。」
ハルムンと別れ、暗闇に溶け込んだ王城に忍び込む。
と言っても、割と堂々と正門から入ったので忍んではいないかもしれない。
オルリン王城はそこまで大きく無く、国王の寝室もすぐに見つけられた。
再びシュベルバルツの力を使い、寝室の前に立っている兵士を気絶させる。
あまりの容易さに、流石に何かあるのではと疑いたくもなったが、兎に角寝室に足を踏み入れた。
コツン、と硬い靴の音が静寂の中響き渡る。
一直線に、ベッドへと向かうと、ユリーベルは静かに膝を折った。
「——お初にお目にかかります。オルリン王国、国王ナルド・オルリン陛下。」
ベッドの上で、横になっているナルドにユリーベルは頭を下げた。
白い髭が特徴的な、優しそうなおじいさんという印象だ。
寝ていたはずのナルドは、ユリーベルの声ですぐに目を覚ます。
人の気配に敏感なのは、仕事病の一つかもしれない。なんて思いながら、ユリーベルはナルドを見詰めた。
「貴殿……?」
弱々しい声で尋ねるナルドに、ユリーベルは丁寧に答える。
「帝国の命により参りました。ユリーベル・シュベルバルツです。この様な夜遅くに、許可もなく訪れる無礼、どうかお許し下さい。」
「シュベルバルツ……そういえば、今は帝国の属領となったのだな。そうか……。では貴殿が当主かね?」
ユリーベルが突然現れたというのに、ナルドは驚く事も怒ることも無く、ただ会話を続けた。
「いえ……。当主は姉のマリーベルです。ですが、今回は私が王の名代としてここに参りました。」
「王……サルファ・グラッサムか。いよいよオルリンも終わりと言うわけか。」
何かを悟ったかのように、ナルドは遠い目で天井を見上げる。
その優しい目元には、少しだけ寂しさが混じっていた。
ユリーベルはこくりと頷くと、静かにそれを告げた。
「我々帝国は、このオルリン王国を属領とする事を決めました。本日は国王であるナルド様に、降伏なさって頂くために参った次第です。どうか、武器を持たぬまま、全面降伏される事をお勧め致します。」
それこそ、ユリーベルが深夜にこの寝室に忍び込んだ理由だった。
大々的に帝国が宣戦布告すれば、このオルリン王国は沢山の血を流す事になるだろう。
兵士の数、武力、何もかもが帝国に勝る事は無い。
最悪、オルリン王国の国民半分以上が死ぬかもしれない。
けれど、ユリーベルなら血を流さずにオルリン王国を手に入れる事が出来る。
ハルムンがいなくても成し遂げられる事を、大賢者が手伝ってくれるならそれは、もっと簡単な話になるだろう。
だから、ユリーベルはこうしてナルドの前に姿を現せた。
万が一、ナルドが襲ってきても彼に勝ち筋は無い。
全て、ユリーベルは計算していた。
ナルドは暫くの沈黙の後に、ゆっくりと口を開けた。
「——承知した。我がオルリン王国は、帝国に全面降伏しましょう。どの道、先は長く無い。」
それは、ユリーベルが考えるているよりも簡単に、あっさりと、告げられた。
もう少し抵抗されると思っていたユリーベルは、思わず聞き返してしまう。
「良い、のですか?」
「ええ。ですが、誰でも良かったわけでは無い。貴殿——シュベルバルツの娘だから、これを認めるのだ。」
シュベルバルツの娘だから?
ユリーベルはナルドの言っている意味が理解出来なかった。
自分でなければナルドを説得出来なかったという事?
ユリーベルがその言葉の真意を考えていると、ナルドははっはっと、笑いをこぼす。
そして、寝室の角に置かれている机を指さしてユリーベルに指示をした。
「あの棚、一番下を開けてみなさい。」
ユリーベルは納得出来ないまま、ナルドに言われた通り棚に向かう。
机に備え付けてある棚の、一番下を開けてみるとそこには一通の手紙が大切そうに置かれていた。
その手紙をそっととり、差出人を確認する。
「——……!」
そこに書かれていた名前は『アルカーベル・シュベルバルツ』。
シュベルバルツ先代当主にして、ユリーベルの実の父親の名前だった。
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